第2-5話 置かれたメガネ

 その日は洗車も午後の訓練もどこか気が抜けたようになってしまった。それはみんなもわかっていたが、それに触れる者はいなかった。

 訓練が終わって、資器材を片付けていると、

「本部、行くんスカ?」

そう聞く江尻の表情はこれまでみたことないくらい切ない表情をしていた。それは質問というより、意見を言っているようだった。

「いや、どうだろうな。」

俺はそう誤摩化したが、こんなにも自分のなかで意見が定まらなかったことはなかった。少し離れたところで石田も聞いていた。

「これが栄転だと言われたら、お前はどう思う?」

そう聞いた俺に、江尻が困った顔をした。

「俺は強くなりました。あなたのおかげで。だからあなたがいなくなっても、俺は最前線で戦っていけると思う。自信はあります。先々の消防本部のことを考えると、あなたみたいな人が出世していかなきゃならないのもわかっています。」

そう言うと少し間を置いた。俺はその後の話の展開が予想できた。

「でも、わがままを言いたい。もう少し、もう少しあなたの背中をみたい。」


 制服組が出張所に来るとどこか気が引き締まる。別になにも怯える必要もないのに、どこか身構えてしまう。

「おつかれさまです。」

林課長に丁寧に挨拶をして、石田が会議室に案内した。

 林課長は当所属随一の出世頭で歳は42歳にも関わらず課長という異例のポストについていた。性格はおおらかで人当たりもよく、それが外交にも内政にも優位に働き、出世頭の雰囲気を存分に身にまとっていた。とはいえ、謙虚な姿勢を常に持ち、周りに悪い印象を与えることはなかった。

 俺は以前にこの林課長と一緒に勤務していたことがあった。同じ部隊だったわけではないが、俺が救助隊だった頃に林課長は救急隊として同じ署で働いた。その時の仕事ぶりを評価してもらって何度か本部異動の誘いを受けたことはあったが、それとなくやんわりと断り続けてきた。これまで、こんなにも構えられたことはなかった。

「村下くん、久しぶりだね。」

話し方や名前の呼び方からして、制服組の雰囲気が溢れていた。

「ご無沙汰しております。」

それに合わせて俺の挨拶も丁寧になる。

「身体の具合はどうだい?」

そんな世間話から始まって、署の内情や、プライベートの話を少しした。折をみたころ、

「ついてはだね・・・。」

そう言って話すのをやめ、笑った。

 それに対して俺が苦笑いしかしないのを見て、林課長も笑顔をやめた。

「どうだ?真剣に考えてみないか?」

そう言われて俺は言葉を詰まらせるように、対面した林課長の胸元を見つめ続けた。

「君は仕事もできる。もちろん現場での能力は評価している。それは誰が見てもそうだと思う。いろんな事があったが、結局は消防士なんて現場の能力がモノを言う。だけどなそうじゃないところで活躍する人間も必要なんだよ。最前線で戦ってきた君みたいな人間が今度は現場をサポートする側に回ったら、ここがもっといい場所になるとは思わないかい?」

必死の言葉にも返す言葉がなかった。

「そうですね。」

それだけ言って、俺はテーブルに置かれた林課長のメガネを凝視し続けた。

「村下くん、君は色んなことを経験して、今何を思っている?」

「今ですか・・・」

俺は自分の意見を言おうとしたが、それよりも先に林課長が走った。

「若い子達の未来を作りたいとは思わないか?コンプライアンスとかパワハラとか、そんなことばっか言って、色んなことに制限がかけられてきている。消防署に面白いことが少なくなってきてるよね?昔はさ、楽しかったよね消防署。今よりたくさん面白いことがあった。だから、それを取り戻したいんだ。」

本部の制服組が述べる意見にしては、それはあまりにも子供じみていた。それでもその言葉がすんなりと俺の脳内に入ってきた。

「出世頭もそんなこと言うんですね。」

やっと俺も笑えた。そんな雰囲気になって、やっと俺も本音を話す気になった。

「林さん、隊長達にもまだ言えてないんですが・・・俺、もう一度救助隊に戻りたいんです。」

それは林課長にも予想外の回答だったようで、ハッと驚いたような顔を見せてすぐに机の上に置いてあったメガネをかけた。

「なんだ。そんなことなら、心配はいらなかったな。」

そう言うと林課長はニヤリと笑ってみせた。

「いろんな事があって、君が腐ってるんじゃないかと心配になってたんだ。取り越し苦労だったな。」

「まだ俺にも必要としてくれてる人がいるみたいです。」

恥ずかしさと安心感から俺は目を合わせられなかった。

「現場に限界を感じたら、いつでも言ってきなさい。」

そう言うと林課長は軽い足取りで署をあとにした。


 林課長が去った署内では異様な空気が流れていた。みんなは、俺と林課長が会議室を出てきたときの表情に注目していたが、話がどこに落ちたのかが、予想できないような顔をしていた。

 そんなみんなの表情を見ていられず、俺がその異様な空気を切った。

「みんなに話したいことがあります。」

玄関で林課長を見送ったみんなに後ろから声をかけた。

 本当は経緯を細かく説明したかったが、なによりもいち早く伝えたい気持ちになっていた。

「俺、もっかい救助に挑戦します。」

その言葉にみんながどう反応するか気になったが、それでも空気を読んで目を伏せていた。

一瞬の静寂が流れて、口火を切ったのは渡部隊長だった。その最初の言葉次第では未来が変わる事もある。

「よく言った。」

それは渡部隊長らしからぬ言葉だった。それを合図に全員が笑顔と歓声で出迎えてくれた。

「ホントですか?じゃあ本部行きはなしですか?」

江尻が嬉しそうに聞いてきた。

「もしかしたら救助隊でも一緒に働けるかもしれないってことですか?」

石田も笑顔で質問してくる。

全員が言葉をかけてくれたあとに、最後にお言葉を頂戴するように鈴木隊長を見て待った。

「よう。よく返ってきた。」

この人なりの“おかえり”という言葉だった。

 復帰してから、どことなく不透明に見えていた俺の未来が、少しだけ鮮明に見えるようだった。

 こんなにも喜んでくれるなら、なぜ復帰してから言えないでいたのか不思議に思えた。一度降りた人間が救助を目指すということが、どんなことなのか皆目検討はつかないし、そもそもそれが可能なのかもわからなかったが、それでも俺自信がなにかを目指しているということにみんなが喜んでくれるという事実が化学反応を起こして、俺達は不思議と幸せな気分になった。

 これから過酷な道が待っていることは明らかだったが、それがどんなにつらい道でも、なにも見えない暗闇を進むよりかは遥かに生きていることを感じれるだろう。

 「今日はお祝いだなー!寿司でも頼むかー!」

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