第2-3話 対有毒ガス災害

 今日はこないだの勤務とは違って、江尻ではなく石田が助勤で不在だ。石田との勤務と江尻との勤務では小隊の雰囲気が少し変わる。江尻とだと少しベテランチーム感が出る。とはいえ俺も江尻も全体から見ればまだまだ若い方だが、それでもこなれた感じが出る。

「今日はなにしますかー。」

江尻が朝の点検をしながら聞いてきた。このあとのミーティングで決めることなのだが、だいたいこうやって聞いてくるときは、なにかやりたいことがある時だ。

「なんかやりたいのあるのか?」

「そうですね。ちょっと久々に空気呼吸器の取り扱い訓練でもやりたいですね。」

「わかった。あとでミーティングで言ってみるよ。」

こうしてやりたい訓練を進言するのがウチのスタイルで、ときには強制的にやることもあるが、自発性を重んじる。なにごとも積極的に取り組む人たちなので、こちらから強制力を発動することは少ない。それは体力トレーニングのときくらいだ。

 江尻の思惑通りに今日の予定は空気呼吸器の取り扱い訓練になった。もちろん、ただ扱うのではなく色々な想定を組み込んで訓練に現実味を持たせる。

 空気呼吸器の使途に“対有毒ガス”というものがある。これは酸欠や硫化水素などの異常環境下での使用を想定したもので、空気呼吸器というと火事のときに使用するイメージがあるがそれだけではない。

 それらひと通りの取り扱い訓練を行って、スキルの再チェックを行う。消防署の訓練とはこの繰り返しだ。新しいことをやることもあるが、そのほとんどが復習になる。ベテランになればなるほどそうなっていく。

 そして消防署とは不思議なところで、その日にやった訓練がタイムリーに発揮されることがある。


 「ポー、ポー、ポー、、、救助指令、建物、入電中」

建物救助というといくつか状況が想像される。

「ピー、ピー、ピー、ピー、ピー、、、救助指令、建物、現場、木浜市金本1丁目23番6号、一般住宅、第一出動、木浜指揮1、木浜救助1、木浜救助2、柳水槽1、敷島水槽1、敷島救急1」

詳細な指令内容の確認のために全員が指令システムコンピューターの前に集まった。

内容は「30代女性、自損、有毒ガス、卵の腐ったような匂い、助けに入った家族も負傷、付近住民から通報」という情報が羅列されていた。

 「卵の腐ったような匂いって・・・。」

江尻がいいところに気がついた。

「硫化水素だな。」

それぞれが動き出して準備を始める。

 装備は救急支援出動用の感染防止衣を着た。それにヘルメットだけを被って消防車を発進させた。

 「指令センターから、木浜市金本、建物救助出動中の各隊へ一方送信、現場は指令同番地、一般住宅、建物2/0、252は2名、1名は玄関先、もう1名の所在は不明、付近住民からの通報、なお有毒ガスが発生している模様。以上。」

「いやマジで本当にさっきやった訓練どおりですね。」

江尻が車内で資器材の準備をしながら高揚していた。

「エジ、落ち着けよ。資器材確認しよう!」

「空気呼吸器着装中です!それからガス検知器の用意をしておきます。」

「そうだな、要救助者は2人だから、接触の早い方から救出しよう!」

俺がそう指示すると鈴木隊長が再度確認した。

「では現着したら俺は通報者に状況を確認しに行く。ムラは空気呼吸器を着装して進入準備を、エジはガス検知器で環境測定をしてくれ。要救助者2名は建物内部にいるだろうから、救出に関してはムラに一任する。これは有毒ガス災害だからミスは許されないぞ。救出後もマスクを外すときは周囲の環境測定をしてからにすること。救助隊の現着を待たないから遺漏なきよう活動してくれ。」

「了解!」

2人の言葉が揃った。


 現着すると、2階建ての一般住宅の外には人だかりができていた。といっても、わずかに香る臭気からみんな警戒心を持っている様子だった。

 「通報したのはどなたですか?」

鈴木隊長が群衆に声をかけた。俺は江尻から空気呼吸器を受け取り着装した。

「エジ、対象はなんだ??」

「H2Sですね。」

江尻がそういったのは“硫化水素”という言葉を使わないためだった。それは周囲の群衆に対する配慮だった。

「わかった。それならボンベの空気を吸ってれば問題ないな。進入して検索するぞ。」

 俺と江尻は玄関先について、空気呼吸器のマスクを着装した。無線で隊長に報告し、素早く進入した。

 静かで物音一つしない室内に俺と江尻が発する音だけが響いた。普段、火災救助のときは燃え盛る音で騒がしくなっている。こんなに静かな救出活動はまるで水中にいるかのようだった。

 「エジ、濃度はいくつだ?」

「50ppmです。」

それ自体は即死するような濃度ではないが、ここは発生源から遠い。発生源からの距離を考慮すると、深部ではさらに濃度が高いことが予想される。しかし、この微妙な数字が救出の緊急度を高めている。丸腰で暴露すれば即死するような濃度であるならば緊急度は逆に低くなる。それは助かる確率が低くなるからだ。その場合、俺達の安全が優先される。しかし助かる確率が高いということは緊急度が上がり、同時に緊張が増す。

「どこにいますか!・・・。」

室内に江尻の声が響いた。返事はない。

 玄関から進んで階段を通り過ぎようとしたとき、風呂場の電気が点いていることに気がついた。

「エジ、あそこだな。」

「はい。」

俺達は風呂に向かって進んでいくと、そこには2人の大人が倒れていた。

 2人は半身が重なるようにうつ伏せで倒れており、手前が男性で奥が女性だった。一瞬で状況が把握できた。男性が女性を助けに来て倒れてしまった様子が想像できた。

 「エジ、状態はどうかわからないが、とりあえずこの環境からいち早く離脱させよう。」

俺は男性の上体を起こすとそのまま江尻に寄りかからせた。江尻は指示を受けることもなく男性の脇の下を抱えて引きずった。俺は無線機で簡潔に状況を説明してから女性の身体を起こして同じように引きずっていった。


 外に出ると救急隊が待ち構えていた。俺達は要救助者を救急隊に引き継いだ。

「風呂場に倒れていました。確認はできていませんが、おそらく風呂場でH2Sを作ったのでしょう。濃度は150ppmでした。どうですか?」

俺達は救出の過程で、要救助者の容態を確認できないでいた。

「うん!2人とも脈も呼吸もあります!」

仲宗根が状況を教えてくれた。

「でも、一刻を争うので、すぐに現発します。」


 俺達は救急隊を見送ると、環境改善活動に取り掛かった。再度マスクを着装して、建物の中に入っていき、窓という窓を全部開放した。そして、風呂場を確認すると、液体の薬剤が2種類置かれていた。警察官に引き継ぐために現場保存に努めた。

 俺達は現場でも言葉にしなかったが、なぜそんなところにそんな薬剤が置かれていたのかは、現場の全員が想像できた。こんなところには出動したくないと思っているから、このことに現実味を帯びさせないために余計な話をしない。

 こういう現場に出動したときは、そうして乗り越えてきた。それが俺達なりの工夫だった。命に慣れるなんてことは、決してない。

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