第2-1話 見えない傷
俺が仕事に復帰したのは退院してから1週間後のことだった。
久々の消防署は特に代わり映えしなかった。業務的に細かい部分に変更があるようだったが、なにが大きく変わったわけでもなかった。
俺が復帰するにあたり、みんなの反応はまちまちだった。涙を流しそうな勢いで喜んでくれる者もいれば、あっさりと挨拶する者もいた。
この命の縁に立ってみて、ようやく人の人間性が見えた。心配を言葉や行動で示してくれる人もいたが、他人事のように興味ない人もいた。とはいえ、自分もそれは同じで、きっとそうしてしまうこともあるだろう。しかし、信用していい人間がこれだけ少ないとも思わなかった。それでも逆を返せば、信用していい人間には命をかける価値があるものだとも思えた。
「おはようございます!本日から復帰します!よろしくおねがいします!」
俺は元気よく事務室に入っていった。以前は少し気だるそうに挨拶していたが、今日は迷惑をかけたという贖罪の意味も込めて元気よく入って行った。少なからず仕事に対する心境の変化もあった。
同じ班の鈴木隊長や渡部隊長は入院中にもよく会っていたし、江尻達にも退院してから今日までの療養期間にも会っていたので、彼らは特に大きな反応はなかったが、反対番の職員は久々の登場を大いに歓迎してくれた。
改めて鈴木隊長と反対番の隊長に挨拶をして、久しぶりに自席に座った。机の中にはいろんな書類が詰め込まれていた。一つひとつ目を通すのは少しめんどくさくなって、あとでやることにした。
朝の申し送りがすんなりと流れ、最後に復帰の挨拶を簡単に済ませた。そして久しぶりの点検に向かった。消防車の運転席からの景色は異様に誇張され、消防車自体が大きく感じた。
(あれ?こんなに大きかったか?)
そんなことを思っていると鈴木隊長が助手席に乗ってきた。
「久々の消防車はデカく感じるだろう。」
「そうですね。こんなに大きかったでしたっけ?」
とふざけてみたが鈴木隊長が心配したとおりだった。
「まあ、ぼちぼち慣らしていけよ。今日はドライブでも行くか。」
「はい。お願いします。」
久々の点検は念入りに行う。といっても、資器材に特段の変更はなく、積載場所も使い方も忘れるはずはなかった。目をつむってても使える。
この日は復帰初日ということで、消防隊の編成も4人と充足していた。
「ムラさん、資器材の使い方忘れちゃったんじゃないですか?」
江尻が冗談交じりにそう聞いてきたが、本人もそんなはずはないこともわかっていた。
「今日はなにもないといいですね。」
石田がそう呟いたが、俺自身はそんなに心配していなかった。
点検が終わると、以前と同じように缶コーヒーを飲みながらのミーティングが始まる。
鈴木隊長が気遣いの言葉を述べながら、一日の予定を立てていくが、今日のタスクとしてはドライブくらいのもので、特に予定はなかった。
こうしてみんなとの時間を過ごしていると、つい先日まで自分が大病で入院していたなんて思えなかった。
消防署の業務としては、入院する前とほとんど変わったところはなく、変わったのは、自分の中の気持ちだけだった。しかしそれを、まだここにいるメンバーにはきちんと伝えられていない。
その日の夕方、出張所に来客があった。
見慣れない車が出張所の敷地内に入ってきて、みんなはぞろぞろと玄関に集まった。
「あ、ウチのだ。」
鈴木隊長が今思いついたかのように呟いた。つまり、鈴木隊長の奥さんが訪ねてきたのだ。
「こんばんはー。いつもお世話になってますー。」
そう言いながら、奥さんが運転席から降りてきた。助手席からももう一人女性が降りてきた。奥さんはサキちゃんを連れてきた。
「みなさんお久しぶりですー!」
元気よく挨拶するその女性の言葉はどこか耳障りがよく、発した言葉の内容とは裏腹にお久しぶりではなく親しげだった。
「おおーいらっしゃい2人とも!どうぞどうぞ中に入って!」
渡部隊長が陽気に案内した。俺は2人から改めて退院の祝辞を受け、2人を事務室に案内した。
少しの間、事務室で談笑していると、ふとサキさんが、
「消防署って来るの初めてです!」
と言った言葉に渡部隊長が反応した。
「お、じゃあ消防車でも見てきなよ!」
「え?いいんですか?」
とサキちゃんは目をキラキラさせた。
「なら、俺が案内しますよ!」
江尻が我先にと手を挙げたが、
「いいからいいから、君はこないだの報告書でもやっていなさい。」
と渡部隊長に諭された。
「じゃあ、消防車乗ってみる?」
もうみんなに促されるのを待つこともしない。そのことにみんなが驚いた顔を見せたが、そんなものにも反応しなかった。
「うん!」
子供のような返事をする女の子を連れて車庫に向かった。俺はわざわざ消防車を車庫の前に出した。写真を撮りやすいように。
サキちゃんは数枚だけ消防車の写真を撮った。でもそれは思いのほか少しの時間だった。
「消防車の中も撮っていい?」
「いいよ。でも、中はゴチャゴチャしててよくわからないよ。」
「ううん。それがいいの。消防車の綺麗な部分じゃなくて、傷とか汚れとかそういう所を取りたいの。」
彼女はそう言うと、パシャパシャと写真を撮り始めた。
「これまで何人もこの車の写真を撮ってきたけど、そんな所を撮った人、はじめてだな。」
「器具愛護、でしょ?」
俺は彼女が消防独特の専門用語を知っていたことに驚いた。器具愛護とは「税金で買った資器材を大切に使いなさい」という教訓のような言葉だ。
「そんなにモノを大切に扱う人たちが付けた傷には深い意味があるんだと思う。」
サキちゃんはそう言いながら、ドア枠部分についた傷が綺麗に映えるように写真を撮った。
「どうしても急がなきゃならない時がある。煩雑に扱わなきゃならない時がある。ロープを投げたり、空気ボンベを引きずったり。だからこそ、そうしなくていいときは丁寧に扱う。俺はそう教えられてきた。」
「その”どうしても”のときに付いた傷なんでしょ?」
「そうだね。そう言われれば一つ一つ意味があるね。」
俺は一歩引いて消防車の外観を眺めながら、自分が知っている傷のルーツについて話した。
「そういえば、前に隊長がこんなことを言ってた。隊員愛護。どんなに親しい隊員でもときには命の最前線に送り込まなければならない時がある。そのとき迷わなくていいように、普段からきちんと喜怒哀楽を含めて接しておく。そうしないと、上辺だけで付き合ってると、いざというときにきちんと機能しなくなる。資器材も隊員も同じだって。」
俺はいつもから大切にしていた教えをさも今思い出したかのように言った。
「おじちゃんらしいね。」
彼女はその言葉を噛みしめるように車庫に置いてあった防火衣の写真を撮った。彼女が撮ると、無造作に置かれた防火衣ですら、オシャレなフォトグラフに変わる。
面白いところを見つけては写真におさめていくサキちゃんをよそに俺は運転席に座った。
(隊員愛護ってのは、他の隊員に対してだけではなくて、自分自身にも言えることだな。)
病気になってから、こんなことを思う機会が多くなった。
運転席に座って物思いにふけっていると、サキちゃんが助手席に座ってきた。
「ではここでインタビューです!」
と言いながら手でマイクを持つ真似をしてみせた。
「消防士さんは、出動のとき緊張はしますか?」
俺は小学生の署見学での質問に答えるように言った。
「えー、いまでは緊張しません。緊張しないように訓練を積みました。」
「消防署で働いていて、一番気合いが入る瞬間はいつですか?」
俺は少し考えてから、素直に答えた。
「消防車のギアレバーを”セカンド”に入れる瞬間です。」
「ちょっとわかりにくいですね。普通そこは”火事の中に入る瞬間です”とかじゃないの?」
とサキちゃんが役から戻って笑った。
「では、消防士さんは火事の中に入る前に何を考えますか?」
「えーと、大切な人の顔を思い浮かべます。」
「・・・消防士さんは、好きな人はいますか?」
その声は、インタビュアーではなく高倉さきの声に戻っていた。
心臓がバクバクした。それは出動するときよりも早いリズムで動き、その心臓の音が消防車の中に響いているような気がした。消防車の運転席と助手席は距離がある。間には車載無線機やらマイクやらのスイッチ類があって、普段はそれに間違って押さないように気を付けている。
俺がそのスイッチ類の上に右手をついて身を乗り出そうとしたとき、
「プー、プー、プー、火災指令、入電中」
予備指令がなった。
事務室から飛び出してきた江尻が何かを言っていたがそんな言葉は耳には入らなかった。俺は心臓の拍動を通常に戻すのに必死だった。防火衣を着ることだけに集中した。場所も火災の概要もわからなかった。
出動準備を整え、みんなが乗車してきたことを確認し、消防車のギアレバーをセカンドに入れる。
今日は気合いが入るというよりは、気持ちが切り替わった。高ぶった感情が正常に戻り、頭の中がクリアになっていく。
サイレンを鳴らして消防署を出ていくときにサキちゃんと鈴木隊長の奥さんの姿が横目に見えた。二人とも同じように、それは明らかに心配している人の目をしていた。
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