第2話 マスコット
救急隊はいつもどおり、午前中は資料の読み合わせを行っている。江尻と俺は消防車に自分達と隊長の分の装備を積み込み、水利点検に行く準備をする。
水利点検は管轄の水利状況を確認する大切な任務である。と言いつつ、なかばドライブのようなものである。しかしこのドライブが本当はとても重要だ。
水利の確認がメインではあるがサブ的な一面として街中の状況を確認したり、道路の状況を確認することが、所轄消防隊として非常に大切な任務なのだ。これは江尻も隊長もとても大切にしている。
雨が降ってなくて、他に業務がなければ、ほぼ毎日行っている。
この隊長は「市民に消防車を見せることが大切」と思っているらしい。そんな心意気が好きだし、それを全面的に見せないところがより好感度を増幅させる。
「今日は南方面へ」
「いや、北にしてくれ」
(おっ)
俺は驚いたが、隊長が「わかった」と言わない時には何かある時が多い。
「わかりました。エジ、北方面だと何箇所だったっけ?」
わかってるのに聞く。ちゃんと理解しているか確認する。
「十八箇所です」
「ブー、こないだ新しいのが出来たから、十九箇所でしたぁ」
「・・・・・くそ」
こんな会話をしながら快調に車を走らせる。こんなわずかな会話が車内を和ませると信じているが、それもこれもこの穏和な隊長の人柄のおかげだとも理解している。
水利の点検だけだと三十分くらいで終わってしまう。
江尻と俺の動きは早い。そこに無駄な動きは一つもない。点検などとっとと終わらせて、ドライブに興じたいと思っていた。
「十九箇所、終わりました」
「おつかれ。じゃあ桜小学校の方を回ってくれ」
察しが付いた。
(小学校でなにかイベントをやってるな)
車を走らせていると横目に、頭にタオル鉢巻きを巻いて、ジーンズを膝下までまくりあげている中年男性が見えた。
(バザーだな)
俺の予想は的中した。
小学校の校庭にはいくつかのテントが広げられていて、運転席のパワーウィンドを少し下げると香ばしい香りが漂ってきた。
「止めてくれ」
「了解す」
そう言って、ハザードをたいて消防車を路肩に止める。
隊長は助手席から降りて学校の敷地内に入っていった。俺と江尻も無線を取って後を追いかける。
隊長は、おそらく知り合いだろう男性と挨拶を交わしている。俺達は通りがかりの子供達から向けられた手振りに笑顔で答えながら隊長を追いかける。
「消防士さん何してるんですかぁ?」
子供に声をかけられ、
「んー?パトロールだよぉ」
と答えた。
無論、パトロールではない。でもそれでいい。どんな理由でも構わない。
こういうイベントに呼ばれてもないのに顔を出して挨拶することがどれだけ大事なことか。消防署とはそれだけ身近でなければならない。
隊長の言葉にしない信念に、俺も江尻も心から同調している。
ただ時代の流れから見れば、疑問を持たれることもある。どうやら時代の流れは公務員の業務と業務外の境目はシビアらしい。
それでも、そんなことに怯えないこの男の背中が俺達は大好きだった。
「ムラ、車、中に持ってこい」
「了解す。エジ、周り止めといて」
江尻がこちらに向かって親指を立てる。
俺は消防車に駆け戻って飛び乗り、車を校庭の中に入れる。おそらく隊長が「子供達に消防車でも見せましょうか」と、責任者か誰かに言ったのだろう。そう言われて断る学校関係者などいない。
俺達は喜んでそのマスコットになる。
手頃な場所に駐車して、手際良く車内後部座席にある荷物を片付けて、子供達が乗れるようにする。防火衣を車両の外に展示するように置き、後部座席の後ろに取り付けられている空気呼吸器をステーから外して防火衣とセットに並べる。
この手際良さたるや、まさにイベントスタッフのようで展示のプロである。
「乗っていいんですかぁ?」
子連れのお母さんが聞いてくる。
「どーぞ、どーぞ」
「これなんですかぁ?」
「写真取っていいですかぁ?」
「これ触っていいですかぁ?」
こんな風にいたるところから声をかけられては、さも自分がアイドルにでもなったかと錯覚してしまうほどだ。
隊長は遠くのテントの中でまた別の男性と話をしている。きっと近所の知り合いかなにかだろう。
俺達は相変わらず子供達の対応に追われている。この時間がもっとも勤務の中で多忙と言えるかもしれない。これだけでも隊員が足りないと感じてしまう。
展覧会もそこそこに、だいたい決まって質問コーナーに移行する。
「消防士さんは何歳ですか?」
「ん?お兄さんは二十九歳だよ」
いろんな質問が飛んでくる。他の子からは、
「今日のお昼ご飯はなんですか?」
「今日は・・・エジ、なに?」
「今日は麻婆ラーメンです」
「だって」
そう答えながら、内心ガッツポーズした。
「このお兄さんが作る麻婆ラーメンはホントに美味しいんだよぉ」
しかし、もとより作り方を教えたのは俺だ。
「消防士さんは、なんで消防士になったんですか?」
「ん?うん。お兄さんのお父さんが消防士だったんだ。だからお父さんと同じように消防車を運転したくて消防士になったんだ」
「お父さんて、あそこのおじさん?」
いつの間にか隊長がこちらに向かって歩いてきていた。それを指差して子供が聞いてきた。
「あのおじさんは違うよ。あのおじさんはお兄さんにとって先生みたいな人さ」
子供にわかりやすいように伝えたものの、本心では父親のように思っていた。
「じゃあそろそろ行くか」
隊長がそう言った時、先ほど消防車で追い越した“タオル鉢巻きの男性”が割り込んできた。
「今日は何人ですか?」
「今日は署に救急隊がいるので、六人です」
「わかった。ちょっと待ってな。まだ帰らんでな」
そう言って男性は走り去って行った。申し訳ないがなんとなく見当が付いてしまう。
「今回はなんですかね?」
江尻がほくそ笑んで聞いてきた。
「バーカ、なに期待してんだ」
そう江尻をたしなめながらも、俺自身口角が上がってしまっている。
「これ持ってきぃ」
と言って先ほどの男性が焼きそばのパックを六つくれた。それからその男性のお付きの人がペットポトルのお茶を六本、江尻に手渡した。
「そんな!いいですよぉ、いいですよぉ!」
そう言いながら、俺達はガッチリと受け取る。
「すいませんねー、ありがとうございます」
まさに古き良き日本の文化だ。この瞬間が何にもまして幸福を感じる。
普段、消防士は意外とお礼を言われることが少ない。
火事に行っても市民と会話をする機会はあまりないし、状況はいつも切迫している。こんなところでしかそれを受け取ることができない。
だからこそ素直に受け取る。
「ありがとうございます」
とお礼を言う時に、満面の笑みは忘れない。
「すいませんねぇ、逆に気遣ってもらっちゃって」
そういう隊長も遠慮する気なんてさらさらない。
「いいんですよぉ、いつもお勤めご苦労様です」
(きっとこうして、この男は俺達のモチベーションを保っているんだろうな)
そう思わせる。
研修だの講習だのでよく聞く「部下のモチベーションを保つ方法」なんて、どれだけ売れた自己啓発本より、どんなに評判の良いコンサルタントより、この男の方がよっぽど熟知している。
そしてそれは俺達だけでなく、市民にすら影響を与える。
有事の時、この男は俺達だけでなく市民すら動かす。それはこんなやりとりがあってこそなし得る芸当で、緻密に計算されたもののようにすら見えるが、この男にはそんな計算は微塵もない。感覚でやっている。
むしろ本当はこの男が一番焼きそばを熱望していたんじゃないかと思わせるくらいに。
「帰りましたぁ」
「おかえり。今日の収穫は?」
渡部隊長がにんまりと聞いてきた。
「なんで知ってるんですか?」
「だって日曜日に小学校に行ってればさぁ、そう思うでしょ」
(この人、俺達の動態をコンピューターで確認してたな)
「焼きそばです」
江尻が笑顔で答えながら事務室に入ってきた。
「さて、もうこんな時間だ。エジ、メシやるぞ!」
そう言って江尻と台所に向かった。
台所ではすでに武林と仲宗根が調理を始めていた。
「お疲れっしたぁ!今日は麻婆ラーメンで良かったすか?」
仲宗根が本日の料理長である江尻に確認する。料理長といっても不在であれば他の者がこうして準備してくれていたりする。
「そうそう。今日はラー油多めね。暑いから」
冗談まじりに江尻が答えると、まな板と包丁で大量の玉ねぎと格闘している武林が返した。
「俺、辛いの苦手って言ってんじゃん。汗止まんなくなるんだよなぁ」
「暑いからこそ、辛いもの食べて発汗しましょ!デトックスですよ、デトックス!」
相変わらずひょうきんに答える。「デトックス」の意味もろくに知らないだろうに。
それぞれが各自、作業を見つけて準備を進める様は、まさにレストランの厨房のようだ。包丁さばきや火加減の調整など細かなところを見ればプロとは程遠いが、次から次へと作業が進んでいく。先行着手していたとはいえ、六人分のラーメンを作るのに十五分とかからない。
そのあいだ、何度も渡部救急隊長が台所に顔を覗かせる。この大男は、さぞ空腹なのだろう。
「いただきまーす」
全員が同じ量を食べるわけではない。それぞれ大体割合は決まっている。
鈴木隊長と渡部救急隊長とでは三倍くらいの差がある。
「今日の辛えな」
「エジがめちゃめちゃラー油入れてましたからね」
「これは辛すぎだろう」
「今度からはさ、自分で入れるようにしようよ・・・」
こんな会話が繰り広げられる。テレビは決まって4チャンネルお昼のニュースが流れている。今日は日曜日だからバラエティ番組ではないようだ。
俺達は黙々と食べる。
今日はラーメンだったが、普段はよくパスタを作る。しかしパスタが盛られるのは平皿ではなく、このラーメンと同じ大きめのどんぶりで、それを食べるのにフォークを使ったことはない。箸でズルズル吸うのが消防署でのパスタの食べ方だ。
鈴木隊長が麺を食べ終わる頃には渡部救急隊長のどんぶりはスープまで飲み干して空になっていた。
俺達はまだ食べている。食べながら二人の空になったどんぶりを回収しする。二人は、「よろしく」と先に食堂をあとにする。
俺が麻婆ラーメンのスープに残ったひき肉を箸でかき集めていると、仲宗根が、「フゥ」と言って立ち上がり、おもむろにベルトを緩めた。
「ちゃんと全部食えよ」
この仲宗根と今日不在の石田は、二人とも消防士とは思えないくらい細身の体型だ。
そのことについて渡部隊長以下俺達は強く懸念を抱いており、二人の体型改善プロジェクトを推し進めている。
「消防士たるもの風格が大事」これをモットーにただただひたすらに食べさせている。それはテレビのドキュメンタリー番組でよくやっている高校野球強豪校の「食トレ」を彷彿とさせる。
「食べ終わるまで箸置くなって言ってんだろ」
わざと怒った顔で厳しい言葉を投げかけるが、そこに怒りはない。
消防署では不思議なことに、ことさら大食らいが好まれる。
ほとんどの消防士はみんな「元気な男の子」に親近感が湧くようで、いっぱい食べるというだけで他署にまで噂が流れるほど重要なパロメーターとなる。
かくいう俺と江尻は、署内大食い大会が開かれた時、二位と三位を獲得したほでの腕前だ。とはいえ、もちろん大会には勤務の都合で参加できない者もいるので、その実、俺達より大食らいな職員は他にもいる。それでも、好条件とはいえアワード受賞者には影響力があった。食に関しては肩で風を切って歩くことができる。
食べあぐねている仲宗根の隣で小さくなってる男がもう一人いる。武林だ。彼も少食でそれに加えて食べるのが群を抜いて遅い。
「タケもだからな」
ぼそっと耳元で伝え、肩を叩きながら自分のどんぶりを片付ける。
台所では江尻がすでに片付けられたどんぶりやら鍋やらを洗っていた。
「頼む」
江尻にどんぶりを渡すと、俺は洗い終わった皿を拭く。
「あざす」
と江尻が軽く礼を言う。
「プー、プー、プー、、、救急指令、入電中」
予備指令がかかった。一斉に全員が動き出す騒がしい音が署内に響く。
「ピー、ピー、ピー、ピー、ピー、、、救急指令、交通、現場、木浜市高根三丁目県道八号線下り若葉交差点、特命出動、敷島水槽1、敷島救急1」
出動本指令がかかる。これは救急隊だけではなく消防隊も支援出動する。
みんなが一斉に事務室にある指令システムコンピューターに集合した。コンピューターのマウスは救急隊機関員の武林が操作する。俺は武林の顔にくっつくほど近づいて画面を凝視した。一旦、誰もが一目でわかる場所まで拡大表示する。その後にルートを辿り段々と詳細表示に絞っていく。
「県道八号だ」
「ここの交差点、事故多いなぁ」
後ろで眺めていた渡部救急隊長が呟きながら事務室から車庫に向かった。
「ムラ、今日は日曜で道が混んでるから、側道はやめておこう!」
「わかった!ついて行く!」
機関員というものは目に見えない多くのスキルを求められる。単なる運転技術だけでなく、緊急走行における安全な運行テクニックから、市内道路の通行状況、また時間帯による交通状況までを把握しておくことが求められる。もちろんそれは、年数とともにキャリアとして積み上げられていくものだが、そこには機関員達の不断の努力がある。
「エジ、交通だから防火衣で行くぞ!」
消防隊の装備には、いくつかの選択肢があり、最良の装備を選択して出動することになっている。
「了解す」
全員が車庫に出ていく。各自の色々な装備を収納してあるロッカーで、救急隊は感染防止衣を着装し、俺達は防火衣を着装する。
着装には一分とかからない。
着替えた者から順に自らの座席に乗り込む。隊長は助手席、江尻は左側の後部座席、俺は運転席へと向かった。
このときすでに消防車のエンジンはかかっている。誰かが気を遣ってかけてくれたのだろうが、誰がかけてくれたのかそんなことは気にもとめない。クラッチを強く踏み込みながらシフトレバーをセカンドにグッと入れ、サイドブレーキを下ろす。
「側道を外して行きます」
隊長に伝える。
「はいよ」
と隊長が答えるのを待たずして、俺は踏み込んだクラッチをゆっくりと離していく。出張所の敷地を出る頃に、赤色灯の点灯スイッチを入れ、サイレンのボタンを押す。
サイレンを鳴らしながら、先行する救急車の後を追いかける。
消防車は重くて遅い。だから軽くて早い救急車に付いていくのは一苦労だ。ましてやこの消防車は市内で一番古く、しかもマニュアル車だ。そして追いかける救急車はこないだ更新されたばかりの最新型だ。
それでも「最新の機械に負けない」というのが、先輩から教わってきた機関員としてのプライドだった。時代の波には負けない。問われているのは自らの技術だ。
「指令センターから木浜市高根三丁目県道八号付近に出動中の各隊へ一方送信、本災害は乗用車同士の衝突事故、252は二名いる模様、挟まれ等はなし、なお交差点内の事故により渋滞が発生している模様、以上」
「敷島水槽1、了解」
「敷島救急1、了解」
各隊長が無線応答する。
「だってよ。じゃあムラは事故車両の確認。エジは車両火災に備えて警戒筒先を設定してくれ。終わったら救急隊の活動支援にあたる。なにか問題があれば言ってくれ」
「了解」
江尻はバックアップ作業としてホースの延長を支持された。万が一を怠らないのは鈴木隊長らしい丁寧さである。
基本的には衝突事故で車両が炎上することは少ない。しかし少ないということはゼロではない。そこを取りこぼさない。
災害現場からかなり手前のところで、すでに渋滞が発生していた。先行する救急隊は渋滞した車を左右に掻き分け、真ん中を割って進行していく。俺は、その掻き分けられた真ん中をさらに広げながら進行していく。
「ご協力ありがとうございます」
鈴木隊長が車外スピーカーで丁寧にお礼を言う。
ほどなく現場に着いた。
江尻は手早くホースを伸ばし警戒体制を整える。
俺は事故車両に対する確認事項を一つ一つ確認していく。両方の車内を覗いたが、車内には誰もいない。一台目の運転席ドアを開け、エンジンは切れているか、シフトレバーはパーキングに入っているか、サイドブレーキは引かれているか、エンジンルームから煙は上がっていないか、ガソリンタンクから燃料は漏れていないか。これらを手早く確認する。
そのあいだに救急隊は、すでに降車して路肩に座っていた傷病者二名の観察に取り掛かっていた。
鈴木隊長は現場の状況を指令センターに無線で伝える。
すでに指示された任務を完遂した江尻が近寄ってきた。
「なにか手伝いますか?」
「こっちはオーケー。あっち、まだ確認してないから一緒にいこう」
そう言って、二人で二台目の方に向かう。運転席のドアを開けようとして、ふと車両の右側後方タイヤに目をやったとき、呼吸と思考が一気に停止した。
こういうとき、人はまったく何も考えられなくなる。
タイヤのすぐ隣に、わずかに自転車のタイヤらしきものと靴が見えた。
俺達消防士は、一般人とは違って、凄まじいスピードで思考を復活させるられる。誰に聞いたわけでもないのに、通報内容に隠された本当の真実を一瞬で理解した。
(この事故、車両の衝突事故に加えて、自転車も巻き込んでる。きっと通報内容で自転車というキーワードが出てこなかったのは、この偶発的な複合災害に誰も気づいていない)
それは事故を起こした当事者でさえ気づいていなかった。
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