敷島出張所 消防隊 ー𝙉𝘼𝙑𝙔 𝙍𝙀𝙎𝘾𝙐𝙀ー

敷嶋 カイ

第1話 ブルーユニフォーム

 「隊長、やっぱり俺、もう一度あの服を着たいです」

そう言った俺の方を見ることもなく、ただただ遠くに見える街並みをずっと眺めていた。励ましもせず、慰めもせず、ただただ遠くを。

 なんと言っていいかわからずにいるようにも見えるし、あえて無言を貫いているようにも見えた。

 父親にこんなことを言うのは、どこか気が引けたが、一番伝えたかった人だった。




 天気が良ければ、出勤にはいつもバイクを使う。消防署まではバイクで十五分。

 バイクに跨ると、タンクを触りながら声を掛ける。

「さあ、行くぜ」

 家を出てから、一つ目の信号には必ず引っかかる。そこを抜けると幹線道路に出るから、しばらくは軽快に走らせられる。

 消防署に着く前に、必ず最寄りのコンビニに立ち寄る。そのコンビニには、いつも出勤時間の十五分前には到着している。毎回、同じ缶コーヒーをレジに持っていくと、勝手にタバコが二箱出てくる。

 バイクに跨って缶コーヒーを飲みながら、バックミラーに知った車が何台か通り過ぎるのを見送る。

「さて、行くか」

 これでも一応、上司として気を遣っている。後輩を先に出勤させるために無駄な時間を過ごす。


 消防署のロッカーには生活必需品が押し込められている。青色の活動服と、ほとんど着ることのない制服。棚上には制帽が埃を被って置いてある。

 青色の活動服には付属品がある。左肩にワッペンをつける。これは何枚か持っているが、できるだけ綺麗なものをつける。

 ボールペンは決まって同じもの。業務の都合上、二色ボールペンとシャープペンシルの複合タイプが必要だ。それを左胸のポケットに挿す。このスタイルはこの十年間崩していない。

 名札と新しめの階級章を両胸に貼り付けたら、最後にチェーンの着いた警笛を右の肩章掛けにぶら下げ、それを右胸のポケットにしまう。ベルトを通し忘れのないように着けたら完成。

 消防士になってから十年が経った今でも、姿見で全身を確認する。

 青い活動服にも見慣れてきた。


 「おはようございます」

「うーす」

所々から返事が帰ってくる。

 事務室に入って最初に話しかけに行くのは、自分と同等階級の職員。彼は昨日の朝から勤務に着いている。いわゆる「反対番」というやつだ。申し送りを聞いてから、消防車の鍵を受け取る。

「では」

それを自分のベルトループに掛ける。

 簡単な申し送りを済ませて喫煙所に向かう頃、自隊の隊長が出勤してくる。

「おはようございます」

挨拶を交わし、喫煙所のベンチの左端に座る。ここでも周りに気を遣っている。そのうち他の職員がやってきてこのベンチに座るだろうから、灰皿が近い右側は開けておく。

 電子タバコを起動して、時間を待つ。

 半年前に職場内で内部告発があった。それから勤務中の喫煙が厳しく制限されることになった。

 それまでは、消防署といえば喫煙は自由だった。喫煙所での情報交換や作戦会議は定番だったし、それが重要なコミュニケーションツールの一つだと思っていた。誰が何にためにリークしたのかは未だに分からないままだったが、それがその本人を幸せにしているのかは甚だ疑問に感じる。

 そんなこんなで一日の仕事中のタバコには制限がかかっている。就業前と休憩時間だけ。つまり勤務時間外。

 おかげさまで一本を味わうことの大切さを身にしみて感じさせてもらっている。以前は他の職員との雑談やスマホでのネットサーフィンをしながら、だらだらと喫煙していたが、今では一本一本味わって吸っている。


 どこの職場でもそうかもしれないが、ことさらこの時代遅れの職場では業務開始時間と出勤時間には違いがある。

 基本的に仕事が始まるのは八時三十分からで、その時間にいわゆる「交代」というものが行われる。ここ出張所では「全体の申し送り」がその代わりを果たすのだが、消防局に併設されている本署では「大交代」というものがある。以前勤務についていた上番と以後勤務につく下番がずらっと並んで厳かな会が開かれる。必要性はともかく、部外者が見れば、それはまさに圧巻である。俺も以前はそこに並んでいた。決まって前列の最右翼に。

 ここ出張所ではそんなものはない。行われるのは必要以上の申し送りだけ。本署からこういう風に指示があった。局からこういう指摘を受けた。ほとんどが俺にはどうでもいいように聞こえる。「何をそんなに深刻になることがあるのだろうか」そう思うこともしばしばあったが、そんな様子を表情に出すほで子供でもなくなったのは、この十年という時間のおかげだ。


 ここには常時七人が勤めている。というのが理想だが、そうもいかない。

 本来、”なんだかの指針”というものに「消防隊は四人以上・・・」などという指針が決められているのだが、この消防局にはそんなものを遵守する余裕はない。消防隊三人、救急隊三人というときがある。

 本来の配置は七人いるのだが、誰かが休暇や他署への助勤で欠けると、そのまま欠員になったりする。それでもこなしていけてしまうというのが、なおさら改善を呼ばない原因になっている。

 今日も六人。消防隊の隊長には鈴木という男が着く。消防隊長兼出張所長ということになる。そして運転手である機関員を勤める俺がいて、後輩隊員の江尻が後部座席に座る。本来であれば加えて石田も乗るはずなのだが、例に倣って石田は他署への助勤で不在だ。

 救急隊にも三人、渡部隊長は恰幅がよく、外から見ればとても穏やかに優しそうな雰囲気を纏い、救急隊長にもってこいの風格だ。救急車の運転手は武林が勤める。彼は俺と同期でかつてはともに特別救助隊員を目指した仲である。もっとも選考で選ばれたのは俺だけだった。もう一人は沖縄出身で救急救命士の仲宗根が隊員として乗っている。沖縄文化が好きな俺にとっては、一緒に居てくれるだけで楽しい気持ちになった。


 反対番との朝の申し送りが終わるや、みんなぞろぞろと車庫に向かっていく。

 雑談を交えながら車両点検の準備をする。この時決まって点検前に一服していたが、今ではそれもできない。「できなくなってしまった」というフラストレーションを半年経った今でも感じながら、仕方なしに帽子を被り、点検用の革手袋をはめる。

 俺が運転席に乗り込むと、すでに隊員の江尻が車両の前で待機している。消防車のエンジンをかけ、前進させながら同時に前照灯から順にライトを点灯させていく。

「ライトよし、切り替えよし、右よし、左よし、赤色灯よし、標識灯よし」

そう合図し、江尻が手際良く車両後方に回り込もうとすると、そこにそろっと隊長の鈴木が顔を出して手をあげている。俺と江尻に対して、「俺が見るからいいよ」ということらしい。

 順に後方のライトを点灯させていく俺に、声には出さず手をあげていく。

「あざーす」

江尻と揃えてお礼を言って、エンジンをかけたまま車を停車させる。

 それから俺は消防車のポンプがきちんと作動するかの点検を、江尻は積載器具が定量あるか、またきちんと作動するかの点検をする。

 隊長の鈴木は特に何もしない。花に水をやり、車庫を掃除する。それが終わると消防車をウェス雑巾で拭き上げる。隊長なんてそれでいい。何もしないくらいがちょうどいい。各自任務を任せられている証だ。

 おそらく隊長自身にそんな気はないが、俺達はそんなことにも使命感を抱いていた。

 これが始業点検のルーティンワークだ。誰かが抜ければその代わりをその誰かがやるだけで、大して代わり映えはない。救急隊も隣で同じことをしている。

 こうして朝の業務が滑らかに始まっていく。


 「こないだの火災検証会、どうでした?」

江尻がホースの数を数えながら聞いてきた。

「なんてことなかったよ。特にうちの隊は何もしてないしな。でも、あの隊の活動はどうだったとか、この隊はこうするべきだったんじゃないかとか、相変わらず副署長が騒いでたよ。もっともウチが被害に合わなかったのも隊長のおかげかもな」

 おとといの仕事明けに、隊長の鈴木と機関員である俺は、署内で開かれる火災検証会に参加してきた。これは出動隊の関係者を集めて事後に行う検証会のことで、いつも机上の空論が展開される。まさに吊し上げの場になっていた。

「その火災、副署長は現場を見てもいないのに、なんでいつも辛口なんですかね」

「人は辛口コメントを言ってると周りからは強く見えるものだからな。偉くなるとそういうものにも頼りたくなるんだろ。そのぶんウチは出世欲のない隊長のおかげで守られてる。ありがたいことだ」

 火災検証会にはできるだけ出席したくない。

 俺もかつては仕事に燃えていたころ、そういった会合に積極的に参加して意見を交わしたいと思っていた。しかし、今となっては本質が見え、「より良い活動のための検証会」ではなく「権威を示すための検証会」であることに気づいてからは、参加意欲もなくなり、参加したとしても自分の意見を披露しようという気はなくなっていた。


 点検がひととおり終わると、事務室での事務作業に取りかかる。

 ここでも以前は一服を挟んでいたが、例に倣ってである。点検表やら出勤簿やらいくつかの事務作業をこなすのに、あまり多くの時間はかからない。誰がどの作業をするかは言わずもがなである。決まった作業をこなし、先に終えた者は終わっていない者を手伝い、全体的に同時に作業終了を迎える。

 ここでナンバー2をあたる救急隊長がサッと見回して、出張所長席に座る鈴木隊長に声を掛ける。

「終わりました」

「はいよ」

老眼鏡を少し下げて鼻にかけながら、読んでいる新聞を閉じてこちらを見回す。

「体調悪い者は?」

「ダイジョブです」

口々に答える。

「あい、じゃあ今日は特に予定もありませんのでぇ・・・ムラ、どうする?」

「救急隊はどうしますか?」

渡部救急隊長を向いて聞いた。

「救急は何もないから、何かあれば付き合うよ」

「了解です。では、午前中は水利点検、午後はこないだお話しした積載はしごの訓練をやりたいと思います。どうでしょうか?」

「わかった。ではそのとおり頼む」

言い終える時には新聞に手を伸ばしていた。

「じゃあ渡部さん、救急が出てなければお手伝いお願いします」

「わかった。タケとナカにもやらせてやってくれ」

「わかりました」

この署は比較的消防隊と救急隊の仲が良い。なかには対立してしまったり、まったく不干渉になってしまったりする署もあるなかで、とても住み良い環境だ。

 これは消防署で仕事するに当たって非常に重要なことである。消防署で働くということは、どこでどんな仕事をするかよりも「誰と」の方がことさら重要だ。


 朝のブリーフィングが終わると各々散り散りになっていく。自分のタスクを確認する者。前日の出動を見返す者。今日やる訓練の資料を見る者。俺は今日の水利点検のコースを確認する。それが終わると時間を決める。

「九時半からでいいですか?」

「今日のコースは何分かかる?」

隊長が新聞を読んだまま聞き返す。

「一時間弱ですかね」

「じゃあ十時でいいだろう」

「わかりました」

鈴木隊長はわりとのんびり屋だ。

 この男の特徴は見るからに優しそうな風体で、怒りとは無縁の男であるが、かといってひょうきんというわけでもなく、口数は少ない。多くを語らない。頭髪は白髪が混じり、前頭部は上がっている。つまり禿げている。しかし、いわゆる「ハゲ」とはイメージが異なり、西洋人のようなかっこよさを纏っている。もうお爺さんである。かつては特別救助隊の一員として前線で活躍し、救助隊長を歴任し、エリート街道をひた走っていた。そんな最中、心臓に大病を煩い会社内での良席を目指すことができなくなった。もとより出世欲があったようには見えなかったが、かつてのエリートレスキュアーもこんな街の外れにある出張所の所長として、再来年には定年を迎える予定だ。

 しかし、俺はこの男の生き方が心底好きだった。俺だけではない。きっとここにいる誰もが漏れなく好きなのではないだろうか。俺にはこんな生き方はできないと密かに憧れていた。

 ただ、それを言葉にしたことはない。

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