404
柴田彼女
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くたくたの身体を引きずるように帰宅し、年齢にそぐわない安物のネックレスを外しながらアクセサリーボックスを開いてそこにあの腕時計がないことに気づいたとき、私は私の人生がこれ以上好転し得ないのだと改めて確信した。
「ねえ、よーちゃん。私の時計知らない? ほら、あの金ぴかの。私が成人したときばーちゃんに買ってもらったやつ。私、いっつもここに入れてるんだけど、なんか、ないんだよねえ。なんでだろう?」
私は一縷の望みをかけよーちゃんに訊ねる。するとよーちゃんは少しだけ顔を曇らせて、けれどすぐさま汚らしく口角を上げると、テカテカの趣味の悪いシャツの胸ポケットから八万円を取り出して私の目前に翳してみせた。
「ん? よーちゃん、そのお金、どうしたの?」
よーちゃんはここ四年働いていない。
私が毎朝六時二十分に起きてよーちゃんの朝食と昼食を作り、セール品のスーツとドラッグストアの化粧品で身なりを整え、前日の残り物を五分そこらで胃に突っ込み満員電車に揺られ、頭の悪い上司や態度の悪い部下に腹を立てながら仕事をしている間、よーちゃんはずっとこのアパートで寝ている。
お昼手前に起きたよーちゃんは私が支度したごはんを食べ散らかし、お皿も洗わず洗濯物を干してくれることもなく、掃除機がどこにあるかすら知らないままダラダラとテレビを見、私が買ってあげたスマートフォンを私が契約するWi―Fiに繋いで、出会い系サイトで私が知らない女の子といやらしい会話をする。
それに飽きると、今度は私が隠してあるほんのわずかな生活費を引っぱり出して、腹を空かせたコヨーテみたいに自分の財布へそっくり収納してしまうのだ。そのお金を持ってよーちゃんは外に行き、数箱の煙草と馬鹿みたいに値の張るお酒を買い、私が知らない人たちに配ったり一緒に飲んだりして、残ったお金は全てパチンコ台に流し込み、結局数時間でなくなってしまう。
私が何度も頭を下げ、会社のトイレで悔し涙を流し、行き帰りの電車へ飛び込みそうになる肉体に鞭を打って稼いだなけなしのお金を、よーちゃんは悪びれることなく使い込む。
この生活を、私はもう四年、続けている。
よーちゃんが八万円ものお金を自らの力で稼ぎ出せるはずがないことは私が誰より知っていた。よーちゃんはそういう人なのだ。それでも私は、どうしてもよーちゃんを信じていたかった。だって、よーちゃんを否定することとは、つまり私の四年間を否定することなのだから。
私はどうしても私を否定することだけは避けたかった。
確かに私は正しいことなどしていないかもしれない、けれど間違っているとも思いたくなかったのだ。私は間違っていない。その思いだけが今の私を支えていた。
「ねえ、よーちゃん。そのお金はどうやって手に入れたの? 今朝は私に五千円もらっただけのはずだよね? お財布にはもうそれしか入っていないのに、通帳にも全然入ってないのに、どうやってそれが八万円に増えたのかな?」
よーちゃんはいまだニヤニヤと汚い歯を剥き出しにして笑っている。私はじっとよーちゃんの言葉を待つ。しばらくそうしていると、突然よーちゃんは、へへ、と笑い出し、
「パチンコ、久しぶりにめちゃめちゃ出た。やばいよ、二時間で五万近くも稼げたんだ。すごくね? 俺やっぱパチプロなろうかな」
そうしてよーちゃんは私へくしゃくしゃに握り潰した三万円を投げつけた。
両耳の奥が轟いている。
大量の血が私の肉体を駆け巡っていた。
うるさい。喧しくてたまらない。黙れ。黙れ、黙れ、黙れ。私は今すぐ冷静にならなければいけないのだから。だって、私は、今日も、明日も、明後日も、その次も、ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと、馬鹿みたいに、よーちゃんを、許し続けなければならないのだから。
「すごいねえ、よーちゃん。さすがだなあ。才能あるよねえ――でもさ、よーちゃんさ、私さっきも言ったけど、元々五千円しか持ってなかったはずだよね? 今持っているのは八万円でしょ? パチンコで稼いだのが五万円くらいなら、残りの二万五千円はどこから出てきたお金なのかな?」
「は? 貯金してたもん」
「嘘」
「……いつもんとこに入ってたやつ。ちょっと借りただけだよ」
「生活費のこと? 私の下着入れの奥の封筒から盗ったってこと?」
「ああ、そうそう」
「今日は一円も入れてないよ」
「あー……そうだっけえ?」
「よーちゃん、本当のこと言って。嘘はもういいよ」
よーちゃんが舌打ちをする。まるで私が悪いみたいに。
私は先ほどよーちゃんが投げつけてきた三万円を拾いながら、じっとよーちゃんの言葉を待った。よーちゃんは面倒くさそうにボリボリと頭を掻いた後、
「お前のあのきったねえ時計、二万五千円にしかなんなかったんだけど。それを、俺が、自分の五千円とあわせて八万にまでしてやったんだろ? その三万はプレゼント。『いつもありがとー』っていう俺の優しさじゃん。感謝してよ。残りの五万を元手にもっと当てて、あんなきたねえやつ目じゃないくらいいい時計買ってやるよ。そんでいいんだろ? あー、なんて顔してんだっつうの……前から思ってたんだけどお前さあ、そうやって可哀想振るのやめたら? めちゃめちゃウザいんだけど。恥ずかしくないの? 三十一の、いいオバサンのくせしてさ」
よーちゃんが投げつけた三万円は皺だらけで、何度撫でつけてももう綺麗にはならなかった。私は繰り返しそれを伸ばす。手のひら全体に、出せる限りの力を込めて、必死に皺を伸ばそうとする。
無駄なことだとはわかっている。それでも私はその行為をやめられなかった。
私は、そういう病気なのだ。
私は、縋ることをやめられない、人の屑でしかない。
だから私はやっぱりよーちゃんを許すしかなくて、でも、だからこそ私は、どうしても、どうしても私は、私自身を許せなかった。
よーちゃんが二万五千円で売りさばいてしまったあの腕時計は、十一年前、祖母が私に買ってくれたものだった。
典型的な母子家庭だった私は裕福とは程遠く、祖母の暮らしも私たちと似たようなものだった。それでも祖母はわずかな年金をこつこつと貯め、私の二十歳の誕生日にあの腕時計を買ってくれた。センスのいいものではない。あまりにも古臭いデザインは若い女の子が喜ぶものではなかったし、実際私にはさっぱり似合わなかった。それでも私は、涙が出るほど嬉しかった。私は祖母に愛されている、その事実が嬉しかったのだ。
祖母はまだ生きているが、一年半ほど前に認知症を患い今では私のことなんてすっかり忘れてしまった。それでも私は週に一度は祖母へ電話をし、私は元気にやっている、大手企業に勤める恋人はいつも優しくて、頻繁に遊園地や水族館や動物園へ行き、一緒においしいご飯を食べ、手を繋ぎ一つのベッドで眠るのだと、私は完璧なまでに幸せなのだと、もう何一つ覚えていない祖母に嘘を吐き続けている。
「はあー、そうですかあ」
心底どうでもいい、とでも言いたげな祖母の声を聞くたび、私はどうしようもない悲しみに追いやられたが、それでも私はその行為をやめられなかった。
よーちゃんが立ち上がり上着を羽織る。どこ行くの、と訊ねると、短く「パチンコ」とだけ言い返してくれた。派手な音を立て、ドアーが閉まる。
私の両眼から涙が零れ落ちる気配はない。試しに小さく笑ってみると、それはひどくしっくりきた。
なんだかもう本当に滑稽だった。私には笑うほか何もなかった。だって、どう考えてもこんな駄目な男を切り捨てられない私が悪いのだから。よーちゃん以上に私が狂っている、これはただそれだけの話なのだ。
スマートフォンを取り出し、お気に入りに登録してある、祖母が買ってくれた腕時計のブランドのホームページを開く。404、あとは僅かな英文が羅列され、指紋だらけの画面に無表情の私が薄ぼんやりと映り込んでいる。
よーちゃんが帰ってくるまでに部屋中に灯油を撒いて、よーちゃんが帰ってきたら彼を力いっぱい抱き締めて、そのまま二人で燃えてみようかな。それだけが私たちに残された唯一の幸福なんじゃないかな。
よーちゃんは一生あのままだろうし、私だってきっと一生変わらない。私がいなくなったって、よーちゃんはまた別の誰かに寄生して生きていくし、私もよーちゃんと縁を切ろうがどうせ他の屑を飼ってしまうのだ。いっそ私たちはこの世界の屑という事実を受け入れて、今夜中に死んでしまった方が世界のためなのだろう。
私はまた小さく笑う。カラカラに干乾びた声帯が砂嵐のように不快な音を立て、けれどそれはちっとも面白くなんてなかった。
台所へ向かう。ほとんど空っぽの冷蔵庫とストック棚からなんとかそれなりの食材を選び出し、私は今夜も二人分の夕餉を作り始める。
404 柴田彼女 @shibatakanojo
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