破滅の魔女と呼ばれた女

常畑 優次郎

魔女と子供

 破滅の魔女と呼ばれた女がいる。


 魔女は世界から異端とされる魔性の力を持つ女性の総称だ。少女から大人になる程の年齢で力が発現するが、普通の人間と違いは基本的に無く、見た目では判断がつかない。魔女それぞれに様々な力を持ち、世界を混沌に変える事も破壊しつくす事も可能だろう。


 故に、聖教会の神父が人に紛れた魔性を暴き、断罪していた。


 魔女裁判。


 魔女と認定されたものは世界の敵となり、例外なく処刑される。魔女裁判を生き延びた魔女はごく限られた人数しかいない。


 破滅の魔女もその一人。


 千人を持って捕縛し、神の加護を持つ神父が処刑を執行する寸前。その場にいた聴衆を含め何千人もの人間を殺し逃走した。


 あまりにも危険な力を持つ破滅の魔女を、聖教会は今も探し続けている。


「母さん……こっちこっち」


「あまり急ぐものではありません。転びますよ」


 とある街の路地を十歳程の男の子が走っている。時折振り返っては自身の母親が着いてきているかを確認し、急かすように声をかけていた。


「大丈夫だよ。宿の子が教えてくれたんだ。この先に大きな市場があるって」


「私も聞いていたのだから知っています。それに、まだ日が高いのですから焦らなくともよいのですよ」


 母親らしき女性はフードを被っており、そこから長い銀の髪が、日の光を反射していて輝いて見える。


 隙間から見える横顔は、透き通るような白い肌に整った顔立ち、直視するのもはばかられるほどに美しい。


 ただ、その瞳は閉じられていて、杖を突いて歩いていることからも、彼女が盲目なのだと推測ができた。


「でも早く見たいんだよ……こんな大きな街の市場なんて見たことないからさぁ。ねえ母さん早く早く!」


 戻ってきた男の子は母の周りをぐるぐると走り回る。余程興奮しているのか、早口にまくしたてて

女の杖を持っていない左手を引く。


 それでも盲目の母を気遣ってか、無理に引っ張る事はせずにいる姿は微笑ましい光景だ。


「……落ち着きなさい。興奮するのはわかりますが、これでは他の方々に迷惑が掛かります……リアム、怒りますよ」


「ひゃいっ!!」


 足を止めて話だした母を面倒だと思ったのか、静かに距離を取るリアムと呼ばれた男の子。


 盲目の女は、その気配を察して静かに語尾を低くする。若干の怒気を籠めた言葉に小さな少年は身をすくませて声を上げた。


 余程母親が怖いのだろう。


 いくら早く見に行きたいからとはいえ、千人規模の大きな街ではぐれてしまったえば、目の見えない彼女が探すのは難しい。勝手に進んで迷子にならないでほしいと、女は短い溜息を尽く。


「ご、ごめんなさい……」


「ふぅ……少しだけ急ぎますから、手を、握ってくれますか?」


 母の元に戻ったリアムは肩を落として俯いてしまう。落胆した声を聞き怒ってばかりもいられないと、盲目の女は左手を、俯いている息子の目の前に差し出し優しく問いかける。

 

「うんっ!」


 一瞬で笑顔になった幼い息子の声で口元をほころばせると、二人は市場へと並んで歩く。


 掌に伝わる暖かさを感じ、盲目の女は分不相応な幸せを噛みしめる。自分に穏やかな日が来るとは思っていなかったからだ。


 リアムは女の本当の息子ではない。


 五年程前に崩壊したある街で、女は唯一の生き残りのリアムを見つけ保護した。


 幼い子供がなぜ一人生き残ったのかはわからず、他に生きている人間がいないか探したのだが、結局リアムだけだった。


 女は五歳になるかならないかの子供を捨て置く事も出来ず、かといって近くの街に連れて行っても、働き手にもならない他人の子供を育てようなどという奇特な人物もいなかった。


 世界を見る事の出来ない女にとっては危険でしかなかったが、成人するまでは面倒を見るしかないと、リアムを連れて行く事にしたのだ。


 視界が無く定住していない女の旅路は簡単なものではない。二人分になる生活品、食材、かかる費用は安いものでは無かった。


 それに子供は体調を崩しやすい。


 実際リアムは何度となく熱を出し、その都度看病をし、少なくない金銭を出すことになった。


 それでも女は一人でない旅を好ましく思い、母と呼ばれる事にも喜びを感じるようになっていた。


 が、女は忘れていたのだ。


 自身が逃亡者であることを……。


「母さんっ! 母さんっ!」


 息子の声が聞こえる。


 女にとって代えがたい程に大切になった息子の声だ。いつものような明るく元気な声でなく、困らせてくるような甘え声でもない。切羽詰まる悲痛な叫びで女を呼ぶ。


 ほんの少しの油断だった。


 市場で独特な気配を察した時には、近くに居たはずのリアムの姿が無くなっていた。


 目を開くことの出来ない女は気配を察する力に秀でていた。音や匂い、空気の流れを感じ取り、周囲を見なくともある程度把握する事ができていたのだが、やはり油断だったのだろう。


 昔の自分であれば被害を考えず、全てを捨ててでも逃げ出していたはずだ。


 だが、今の女にリアムを置いて逃げるという選択肢は無い。


 その後現れた教会の者に言われるがまま、街を出て人気のない荒野へと向かった。


「そこで止まれっ。破滅の魔女っ! 殺された何万もの無辜な魂の為に、ここで貴様を断罪するっ!」


 聞いたことの無い男の声が歩を進める女に届く。距離にして十m程離れた位置には数百の武装した集団。


 掲げる旗には聖教会のシンボルである翼と盾の印。先頭の男は周囲の人間とは違い、青い修道服を着ていることから、魔女狩りを任された神父なのだということがわかる。


「ふぅ……私は私の生きる為だけに生きて来ました。むしろ貴方達の方がが罪なき人を殺しているのでしょう?」


「魔性を持つ貴様等は生きているだけで罪なのだ。むしろ殺してやる事が救いなのだよ」


 女の問いに神父は口許を引き上げて答える。


 魔性の力、望まぬと身に宿る文字通り魔の力。教会は前世の悪行が現世に影響したのだと説明しているが、本当の理由はわかっていない。


 だが力を持たない人間からすればそれは恐怖以外の何物でもなかった。だから神の名の元に、という大義を掲げて魔女を殺すのだ。


 それが教会の求心力になる。


 魔女と呼ばれただけの者もいた。結果、神父が判断すれば魔性の力の有無など関係なかった。


「そう言って、この呪われた力を持った人間以外の人々も何千と殺して来た……」


「教会に間違いはないっ! 裁かれた魔女は例がいなく世界の敵だった」


 そこに間違いはなく……全てが正当化され、間違いは間違いで無くなる。白であっても黒になり、事実が世界に正しく知らされることは無いのだ。


 何百、何千という人間が間違いはないという教会の言葉の元に殺された。今さら話をしたところでお互いの意見は平行線だろう。


「……子供を……放してくれませんか? その子は私の子供ではありません。ただ、気まぐれに拾っただけの子です」


「貴様が抵抗しないというのならば危害は加えないと約束しよう」


「ふぅ……わかりました。好きにしてください」


 話をする神父の背後で数人の男に縛られているリアムは、女が力を使わないようにする為の枷。


 逆を言えば女が抵抗しない限り傷つけられることはないはずだ。そう認識した女は全身の力を抜く。


 ここが終着点だったのだろう。


 女にとって魔性の力は自身を不幸にしただけの厄だった。


 制御出来ない力は人を殺す。


 身を守る為に敵を殺し、生きる為に他人を殺し、力があるだけで家族を殺してしまった。


 その報いを受ける時が来たのだ。


 幸せなど感じてはいけなかったのだ。


「母さん何でっ?! ダメだよっ! ねえ止めてっ! 母さんを殺さないでっ!」


「良いんですリアム……私が呪われた力をもっているのは事実ですから」


 優しい息子は母の罪を知らない。教えて怖がられるのが、そして離れられてしまう事が耐えられない。


 できればこのまま、リアムから畏怖と軽蔑の声を聞く前に命の終わりを迎えたかった。


「そんなの関係ないっ! 母さんは僕の母さんなんだからっ。一緒に居てくれるだけでいいんだよっ!」


「うるさいっ!」


「いっ!?」


 離れた場所に居る女に届くように、リアムは精一杯声を張り上げる。死なないでほしいと、生きていてほしいと、そう届くように。


 そんな叫びを隣で聞いていた兵士がリアムを強く殴りつけた。


「っ!? その子に手を出すなと言ったでしょうっ!」


「おっと、眼を開くなよ。と言っても今力を使えば子供も巻き添えだから無理だろうがな」


 息子の短い悲鳴を聞き、俯いていた女は顔を上げて声を張り上げる。だが神父の言う通り女の力は制御できず、眼を開ければ視界に映る全ての命を……捕まっている息子の命も一緒に狩り取ってしまうのだ。


 死の瞳。女に与えられた魔性の力は視線で人を殺す。


 だから女は瞼をあげない。女は眼が見えないのではなく、眼を開けないのだ。


「眼? 母さんは眼が見えないんでしょう?」


「なんだ聞いていないのか?」


「止めてっ!」


 知らせたくない。知られたくない。言わないで。心がざわつく。死を受け入れようとしていた女を恐怖が襲う。


 怖いのだ。畏怖の声を、蔑んだ言葉を息子の口から発せられるのが。今までただ目が見えないのだと教えていた。


 女は制止の声を上げるが、神父は言葉を止めない。


「その女は破滅の魔女。視線だけで人を呪い殺す事の出来る魔女だ。君の本当の家族もその女に殺されたのかもしれないよ」


「っ?! うそだっ!!」


「うそじゃない……目に映る全ての命を奪う史上最悪の魔性を持つ女。それが君が母と慕っていた女の正体。ひどいよな、ずっと君を騙していたんだ」


 神父はさも愉快だと言わんばかりな顔で語り掛ける。リアムはそれを否定するも、母の表情を見て真実なのだと悟り言葉を失う。


「……」


 目を開ける事の出来ない女には、声を発さない息子の様子がわからない。どんな表情をしているのだろう。化物に育てられた事実で怯えているのではないか。騙されたと怒っているのではないか。そんな感情が女の中に渦巻いていた。


 だが否定の言葉は出てこない。リアムの両親のいた街は、魔女である女が滞在していたという理由で教会に襲われ人々が殺されていった。


 そんな凄惨な状況から逃げる為に女は力を使ったのだ。


 結果リアム以外の人間は誰も生き残らなかった。あの時、あの場所で、無差別な女の力がリアムの両親を殺していないと、どうして言えるだろうか。


 全身が冷えていくような恐怖が女の心をじわじわと侵食していく。


「……とは言えこれでっ!」


「え……? ああっっ!!?」


「……止めろっっ! 母さんに何するんだっ!」


 近づいてきた男が女の右腕に杭を打ち込む。痛みが全身をかけていく中、リアムの声が響いた。彼は拘束されながらも必死で身を乗り出し、杭を刺された母の元へと進もうとしていたのだ。


「先ほども言ったがこの女は魔女だよ? 人を殺す為だけに生まれた悪そのもの。君は騙されていただけだ」


「関係ないっ! その人は僕の大好きな母さんだっ! 母さんをいじめるのはやめろっ!」


 女の閉じだ瞳から涙が零れる。リアムの声音には侮蔑も嘲笑も嫌悪も憎悪も、悪意と呼ばれる負の感情が感じられない。


 あるのは母を想う気持ちだけだった。


 身体を縛る縄を引きづり少しでも前へと、腕に縄が食い込み、皮膚が裂けそうになっても前へとリアムは進もうとしている。


「そうか……君はもう魔女の信者か……。なら……殺せ」


「なっ!? 約束が違うっ! 私だけで十分でしょうっ! その子は普通の人間……」


「魔女に育てられた子供など教会にとって害悪でしかない。貴様が息子に侮蔑される様を見たかったのだが、洗脳されているなら仕方ない……大事な子供が目の前で死ぬ時、貴様はどんな顔をするのかな」


「……っ!!」


 女の言葉を遮り、口元を不気味に引き上げ笑う神父。その震える程に悍ましい声音に息が詰まる。


 彼は元々リアムを生かしておく気など無かったのだろう。


 悪意に満ちた笑い声を上げて神父は右手を上げる。


 合図を受けた男が槍を持ち上げて、振り下ろした。


「……が、ふ……」


「かぁ……さん?」


 口元から血が零れる。


 槍の穂先は身体を貫くことなく肉で止まった。


 神父の腕を振り切り、飛び出した女がリアムを抱きしめて刃を止める盾になったのだ。


「え……なんで……かあさん……」


「よか……た。怪我は、無い?」


 自身よりも二回り小さい身体を抱きしめ、愛おしそうにその頭を撫でる。


「待って、て。今終わら、せるか、ら」


 両手で息子を抱きしめ、自身の視界に入らないようにし、振り返って瞼を開く。魔性の力を持つことに今だけは感謝しなければならない。


 自分の命が尽きる前に、目の前の集団を殺せるのだから。


 五年の間閉ざしていた瞳を開く。


「……ふふ……ふは、ふはははははっ! いや。少しだけ焦ったよ」


「え……な、ぜ……?」


 力が無くなったわけでは無い。それは女自身がよくわかっている。魔性の力が、呪いが残っている事は実感できていた。


 だが、目の前の神父も、視界に映る全ての人間も生きている。


 だからこそ女は理解が出来ない。


 今こそこの忌まわしい力が必要なのに、殺さなければならない相手があんなにもいるのに、誰一人として殺す事が出来ないのだ。


「その腕に刺した杭……なんだと思う? 貴様のような化物相手になんの準備もしないわけが無いだろう……その杭は魔性を抑える道具だ」


「っ?!」


 神父の言葉に女は視線を下げる。右腕には杭が深々と突き刺さっており、それは白い文字を浮き上がらせ薄く光っていた。


「なんで……だって。この力は止められないって……だから皆、殺されるしかないって……そう言っていたのに……」


 そう教会は広めていた。魔性の力は抑える事など出来ず、殺すしかないと、正義の元に断罪するしかないと。だが止める術はあった。


 実際今女には人を殺す力はないのだから。


「ですから教会に間違いはない。目の前の現実が真実。その為には貴様達は生きていてはならないのだよ」


「……あああぁぁあぁぁあぁぁっ!」


 殺す事なく止める力がありながら、教会は魔女達を殺す事で権威を守ろうとしていた。女は杭に手をかけ無理矢理引き抜こうとするが、激痛が走るばかりで抜ける気配すらない。


「ふはははははっ。無駄無駄っ! その杭は一度刺せば抜けることは無い。司祭様のような聖なる力がなければ外す事は出来ない!」


 魔性の力と対をなすように現れた聖なる力。それは人々を癒す神の恩恵。魔女とは違い男女関係なく発現するが、数千人に一人程度にしか現れない希少な力。


 わかっている全ての聖なる力を持つ人間が教会に属していた。


「ごふっ!!」


「母さんっ!?」


 必死で腕の杭を抜こうと力を込めたせいか、口から血が零れる。腕の中の息子も母の顔から生気が抜けていくのを感じ、擦れた声を上げていた。


「ごめんねリアム……貴方だけでも助けたかったんだけど……」


「……ううん。僕は母さんと一緒がいい」


「……最後に一目貴方の姿を見る事が出来た。それだけは、嬉しい。想像していよりも素敵な顔……ずっと見ていたい」


 初めて見る息子の顔は自分とは似ていなかった。当然だ。血は繋がっていないのだから。見つめ返すリアムの青く揺れる瞳から、女に対する深い愛情が伝わり涙が頬を伝う。


「僕。母さんの子供になれて嬉しかったよ……」


 強い子だ。


 この後訪れるであろう死を理解している。その上で母に心配をかけまいと歪な笑顔を作っているのだ。


「さてと……魔女は教会に連れて帰りたかったが、その傷では長く持たないだろう……もういい。二人とも殺せ……」


 会話はほんの数十秒。時間は無常にも進む。親子の会話など無かったかのような神父の言葉で、近くにいた男が再度槍を振り上げる。今度は二人を同時に串刺しに出来るよう力を込めて。

 

「……っ!」


「……母さんっ!」


 親子は互いを抱きしめ最後の瞬間が訪れるのを待つ。


 だが、リアムの左手が女の腕に刺さる杭に触れたその瞬間、光がはぜる。抱き合った親子を中心に白い輝きが荒野を眩く照らした。


 神父も槍を振り上げた男も他の者達もその光に目がくらみ手を止める。


 ほんの数秒の輝きが収まると、女の腕に刺さっていた杭が崩れていく。


 呪いが戻る。


 魔性の力が女の身の内で、存在を強く主張しているのを感じた。


 リアムを抱きしめたまま女は瞼を開き、眼前で目を抑えている男を視界に入れ魂を一つ狩り取る。


 狩り取られた男はその場で糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 続けて女は視線を横にずらし、数百いる集団を視界に入れる。先頭にいた人間が崩れ、視界に入った順に倒れていく。


 ばたばたと倒れる板倒しのように、ほんの数十秒で全員が倒れ伏し動かなくなった。


 残ったのは親子と神父の三人だけ。


「ひ、ひぅっ?! なにがっ? 何をした魔女っ! なぜ力が使えるっ!?」


 女は眼を閉じ神父に向き直る。一瞬で戦力を全て失くした彼は膝から崩れ落ち、恐怖で震えていた。

 

「それは貴方が先ほどおしえてくれたではないですか……私の息子はどうやら教会の司祭になれる素質があるようですよ」


 女は理解した。なぜリアムだけが、五年前の地獄のような状況で生きていたのかを。


 自覚はしてなくとも、聖なる力を、持っていたからこそ生き延びることができたのだろう。


「そんなっ?! そんな事はっ……そんな偶然あってたまるかっ! 魔女に育てられた悪魔が神の力を持つはずがない」


「ですが実際に聖なる杭とやらは消滅しました。それに……目の前の現実が真実なのでしょう?」


 息子を抱きしめたままの女はゆっくりと立ち上がり、座り込んだ神父を見下ろす。あとは瞼を開くだけで終わる。


「も、もうお前達を追わないっ! 俺が殺した事にするっ。な? 平穏に暮らせるようになるぞ? だから……ぐっ……」


「……教会の人間はすぐに嘘をつく……命乞いをした何千の魔女にあの世で謝るといいわ……」


 必死で言葉を並べる神父を、瞼を上げて視界に入れ、その命を狩りとる。これ以上耳障りな声を聞いていられなかったのだ。


「……ごめん、ね。リアム」


 全てを終えた女は地面に座り込んだ。刺された背中からは血が流れ出ていて、命の残り火を削り取っていているのだ。この場に生きている人間はおらず、ほどなくリアム一人だけになってしまうだろう。


 女にとって死ぬことよりも息子の今後だけが心残りだった。


「大丈夫だよ母さん……たぶん僕が……」


「……」 


 リアムに発現した聖なる力はただ魔性の力を抑えるだけではない。呪いを解き、傷を癒す力があった。


 それをどうすれば使えるか直接理解したのだ。


 小さな掌が母の背中に当てられると、槍で刺された傷が消えて行く。そして、掌を母の両目に当てると白い光が辺りを包んだ。


「えっ?!」


 呪いが消える。


 力を持った日からこんな日が来るはずはないと思っていた。女は少女の頃に発現した魔性の力とずっと向き合い、離れる事はないのだと、そう思っていた。


 だが、彼女が守ってきた息子が忌まわしい呪いを解き放ってくれた。


「……」


 大粒の涙が両目から溢れる。身の内に巣食っていた力が無くなった事を女は理解したからだ。


「ありがとう、リアム……ありがとう」


「うん。良かった。母さん」


 もう一度強く息子を抱きしめ、女は喜びを噛みしめ感謝の言葉を伝える。どこか誇らしげに微笑むリアムも女の背中を抱きしめ返す。


「……行こう母さん。これからは逃げなくてもいいんだから。どこにでも行けるよ」


「……そうね」


 ひとしきり喜びを分かち合った親子は、太陽が落ちかけ赤く染まった空の下歩き出す。




 その後、山奥の村で人の傷を無償で治すという賢者と、仲の良い母親が住んでいるという噂が流れた。


 善意を持つ人間には癒しを与え。


 悪意を持つ人間には痛みを与える。


 そんな賢者の住む山があるのだという……。

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