第151話 ガバ勢と彼の名前

 暗いエレメントを操る男――それに関してはチャートにも何の情報も記載されていなかった――がついに膝をついた時、ルーキは血のように吹き出す黒い霧の中に異様なものを見た。


 黒い四つ足の獣。


 噴出する霧の一部がうねり、絡み合いながら、そう見える輪郭を形作っていた。


(暗いエレメントの正体……か……?)


 思えばこの〈ダークエレメント〉RTA、敵の正体は最後までわからずじまいだった。


 ただ暗いエレメントという障害があり、それを取り除くためのラン。走者にはそれで十分という認識がある一方で、生きた土地の人々と交わっていけば敵の素性が気にもなる。


「何でてめえがここにいる……」


 その低く這うような声に、ルーキは思わず身震いしていた。


「“獣の時代”はとっくに終わったぜ」


 霧の中の獣に対しそうつぶやいたレイ親父は、下に垂らしていた“邪刀・宵”をゆっくりと頭上に持ち上げる。諸手右上段。もっとも強力な破壊の構え。


 黒い獣が、顔の端まで裂けた口でニヤリと笑った、ように見えた。

 次の瞬間、レイ親父が何かするまでもなく、霧は正しく霧となって空に溶ける。


「見間違いか……クソッ、眠てえ」


 レイ親父は着流しの袖でごしごしと目元をこする。


(見間違い……だったのか?)


 声をかけようとしたルーキは、なぜか愛刀を抜き身にしたままシルドに向き合うレイ親父の奇妙な表情を見て、直前まであった言葉をすべて失った。


「……約束だかんな」とつぶやいた後に、シルドに問いかける声がする。


「よぉ……。自分が誰だか、まだわかるか?」


 ※


 私は誰だ?

 僕は、俺は、自分は……?


 しゃがみ込んでいた体を起こそうにも、力が入らない。

 いつからこうしていたのか、なぜこうしているのか、まるでわからない。


 空っぽ。


 この喪失感は、僕がかつて何かを持っていて、今はそれを失ったという証明なのか?


「よぉ……。自分が誰だか、まだわかるか?」


 声をかけられた。


 重い頭を動かして見上げると、幼い少年とも少女ともつかない誰かが、僕を見つめている。

 わからない。僕は僕が誰だかわからない。


「名前は、言えるか?」


 言えるわけがない。なぜ自分がここにいるかも覚えていないんだ。

 そして、忘れたことさえ忘れようとしている。本当の空っぽになろうとしている。


 この人は、僕のことを知っているのだろうか?

 正直に答えれば、助けてくれるだろうか?


 名前も思い出せない。僕は誰なんですか? そう言おうとして――僕の中の誰かが止めた。


 それを言ってはいけない。それだけは。

 なぜ?


 わからない。わからないが、僕の空っぽの心はそれを――その危機感だけを忘れずに真ん中に残している。まるで最後の最後まで必死に守り抜いたみたいに。


 理由はきっと……この幼い人が、とても悲しそうだから。

 さっきの言葉を伝えてしまえば、もっと悲しむだろうから。

 それだけは、させてはいけない。そんな気がする。


「名前……僕の名前は……」


 今すぐ思い出さなければならない。この人に返すべき言葉を。


 僕は手がかりを探してあたりに目をやる。

 気づく。剥き出しの手足にびっしりと書き込まれた文字。


 これは何だ? 僕が自分に書いたのか? 筆跡は僕のものだ。

 ここになら答えがあるかもしれない。僕に関わる何かが残されているかもしれない。


 目についたのは、何度も書き連ねられた一つの単語。


 血塗られた盾ブラッディシールド


 そう読める。


 すべてを忘れる前に僕がこれほど念入りに書き残したものなら、それはきっと大事なものに違いない。たとえば、僕の存在を示す重要な記号のような。つまり名前のような。


「シル……ド……」


 僕は急いで答える。幼い人が泣き出してしまわないうちに。


「ブラッディ……シルド……。シルド。それが僕の名前です」


 幼い人は静かな眼差しで僕を見つめ、その目元にかすかな迷いを走らせる。

 違ったのか? 僕の名前はシルドではなかったのか?

 この人は僕の本当の名前を知っている?


 数秒の緘黙の後――。


「……わかるんなら、いいぜ」


 小さく息を吐き、幼い人は大きなカタナを背中の鞘に戻した。

 ほっとしたその顔を見て僕もほっとする。


 シルド。

 僕の名前はシルド。

 この人がいいと言ってくれるのなら、それでいい。


 ※


 連れられるがままに、ここにやってきた。

 朽ちた神殿のようだったが、旅装束の人が多く集まり賑わっている。何かのお祭りでもしているのだろうか?


「あー、ここだここだ」


 幼い人――一緒にいる人たちからはレイ親父とか親父と呼ばれている――が、ある石像の前に立った。

 不思議な像だ。バケツをかぶった聖人らしき人物が、体操のように両手を斜め上に伸ばしてYみたいなポーズを取っている。


「あのサボテンがくれたコインはここに捧げるんすねえ」

「スタート地点に誓約の場所があったのか。まさか、ボスを倒してから達成するなんて……すげえチャートだよマジで……」


 仲間の中でも最年少と思しき少女と少年が何かを言い合っている。会話の中身はまったくわからない。


「じゃ、全員でやっとくか。一応な」

「あの……何をするんですか、レイ……親父……さん」


 僕がたずねると、彼? 彼女? は、ぼりぼりと頭を掻き、「ま、とりあえず真似しろ」とだけ言って石像に向き合った。


 そして仲間たち全員で、


_人人 人人_

> 突然のY <

 ̄Y^Y^Y^Y ̄


 石像と同じポーズでキメた。なぜだかわからないが、とても楽しかった。


 トゥマンボ! と快晴にも関わらず石像に雷が落ち、そこに輝く小さな欠片が現れる。


 小さな光を弾けさせるそれを、レイ親父が手に取って僕に見せた。


「これで、全部そろったコンプリートな」


 わずかに自嘲するように言ったその言葉に、なぜか胸が切なくなった。

 今の僕は何も持ってない。でもきっと、今、すべてそろったのだ。


「あー! 終わった! やってやったぞチクショーが!」


 レイ親父が大きく伸びをする。仲間たちも大きく息を吐いてその場に座り込んだ。

 達成感満ち溢れるこの場に、僕はいていいのだろうか、とふと思う。


 僕には何の感慨も感情もない。たったさっき気づいて、ここにいるだけだ。

 けれど、きっといいのだ。僕を見る彼らの目が、そう言ってくれているから。


 ピロン。と、頭の中で何かが鳴った。


「クソ、さすがに足がふらつくな。おいサグルマ。ちょっと背中に寄りかからせろ。念のためチャートの確認すっから」

「はいさあ」


 隻眼総髪の偉丈夫にレイ親父が寄りかかる。が、懐から取り出した紙切れは、あっさりとその手から落ちた。


「スヤァ……」

「親父? 寝ちまった……」

「無理もないですよ。つーか、マジで人間には無理なレギュレーショナーでしょこれ……」

「結果的に四日間、文字通りの不眠不休で完走っすね。回収物に抜けはないっす。はあ……。よくまあこんなこと続けられるっすね。ガチ勢でも死人が出るっすよ?」

「うーんむにゃむにゃ。やったぁルタ生一位に勝ったぞ……」


 レイ親父が寝言を言いながら大男の背中に頬をすりつけている。


「ヌッ!!!!!!!」

「サグルマくーん? 君、おかしなこと考えてないよね?」

「ほよの誓い、忘れたわけではあるまい?」

「そうかそうか。つまり君はそういう人なんだな?」

「ま、待て! もちつけぽまえら! これは不可抗力で……」

『古文でごまかしてんじゃねえ! 逝ってよし!』

「ギャーッ! もうだめぽぉ……」


 サグルマ氏は仲間からボコボコにされたようだ。


 ほよは嫉妬深い。……ほよって何だ? 海で採れる謎の果物みたいなヤツか?


「それじゃあ、帰ろうか。列車もちょうど来たことだし」


 サグルマ氏を存分に葬った後で、いつかFXで有り金溶かしそうな顔をした青年が仲間たちの音頭を取る。


「すっげえ疲れたゾ」

「列車で飲むビールビール! 車内販売してっかー?」

「バッチェ貨物列車ですねえ……」

「こんだけすごいことやっても、終わったらただ帰るだけなんだよな……」

「レギュレーショナーなんてただの自己満なんすから当然すよ。それはそうと、帰ったら盛大に完走した感想やりましょうね! サクラも同席するっすから!」

「えっ、う、うん……」


 彼らが口々に思いの丈を吐き出すのに対し、僕には何も言えることがない。

 僕は彼らのようには帰らないらしい。この土地が僕の居場所だと、感情が言っている。


「じゃあ僕もこれで」


 僕はそう言って、近くに見えていた地下への階段へと向かう。


 ふと、近くにあった、小さく燃え続ける焚火に目が行く。

 その周辺の石段に誰もいないことに、なぜか寂しさを覚えた。

 なぜかは、わからない。


「やっぱり地下牢に戻るんですか?」


 少年が聞いてくる。


「うん」と僕は自然にそう応じた後で「そうか、ここは地下牢なのか」と自分でもあべこべの発言した。


「休むにしてももっとマシな場所があると思うんですけど……」

「いやいいんだ。ここが僕に相応しい……んだと思う」


 僕は何かを成し遂げた。同時に、とても罪深いことをした。

 自分を許せなくなるほどの何か。言葉にできるほどはっきりした形ではないけど、その感覚がずっと胸の中を這い回っている。


 だから僕は、自分を牢獄に押し込めたいんだと思う。


「じゃあ、お元気で。シルド兄貴!」

「じゃあなシルド。またその時が来たら一緒に走ろうぜ」

「完走オッツオッツ!」


 別れの言葉にしては気楽すぎる響きが、彼らの日常がその連続であることを感じさせる。

 今の僕にはそれがありがたい。振り返る過去をどこかに落としてきてしまった僕には、最後の挨拶すらちゃんとできそうにないから。


「うん。また……必ず会いましょう」


 僕は小さく手で応じ、彼らに背を向けた。


 朽ちた階段を降り、通路を行けば、外の喧騒は何もかも遠ざかり、冷たい石の感触だけが素足を通じて伝わってくる。


 罪人も看守も絶えて久しいこの場所が、僕にはなぜか心地よい。

 こうしてまわりから誰もいなくなることが僕の望み?


 さあ? それはよくわからない。

 けれど、まるで世界で最後の一人になりたいような、不可思議な感情がある。


 ひょっとすると本来の僕は、とても物騒な人間なのかもしれない。たとえば、人殺しとか。

 けれども……あの幼い人――レイ親父が、ほっとした顔を向けてくれる程度には、価値のある人間だと信じたい。


 一番奥の牢屋に着く。

 何もない床に座って、手足を見つめた。それくらいしか目につくものがなかったからだ。


 書かれているのは何だろう。旅行記だろうか? それとも旅の計画書?

 何もかもが他人のもののように感じられる僕だけど、さすがに自分の手足に刻まれたこれだけは、僕の所有物であると確信できる。


 これなら間違えない。だから、記憶をなくす以前の僕はこうしたのかもしれない。


「……ああ疲れた」


 何だか久しぶりに眠るような気がする。

 眠りに落ちるまでもう少しかかりそうだ。この文字でも眺めて過ごそうか。

 どうせすることも、したいこともない。もしかすると、少しくらいは自分のことを思いだせるかもしれないし。


 いずれまた目覚める時が来る。なぜかはわからないけど、そう確信している。

 その時は、少しは自分のことを思い出せているだろうか。


 わからない。

 今の僕には、シルドという名前以外、何も。


 ああ、ようやく……眠くなってきた……。


 夢の中で誰かと会えないかな。

 お父さんとか、お母さんとか、弟とか……。

 そういう家族がいたらの話だけど。


 だって僕は、きっと家族が好きだから。そういう人間でいてほしいから。

 なんて考えるのは、都合がよすぎだろうか。


 じゃあ、おやすみなさい、親父……みんな。

 きっとまた会えますよね……。


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