第147話 ガバ勢と黄金の双璧
どうしたよ。しょぼくれた顔して。
ああ? 最近物忘れが激しいって?
わかるぜぇ……! 俺も海のど真ん中になる目的地の場所忘れたり、ラスボス倒した後に城への帰り道忘れたり…………って、チャートのことじゃない?
…………。
そ、そらそうよ。チャートの話じゃねえよなあ? 俺だって、その……滅多に忘れたりしねえよ? チャートのことはさぁ。俺、走者だし、チャート作ってんの自分だし、わたしいいじけちゃうし……。
……で、何だよ。
なるほどな。人の顔や名前を忘れてる気がするってか。着てる服さえ時々自分のかどうかわからなくなる……? そりゃ大変だ。
おまえの頭は変わった作りだしなぁ。それに、この土地はかなり特殊だ。長くいればそういうこともあるかもな。RTAしかしねえって生活も原因かもしれねえ。走者ってのは基本、最低限必要なもの以外をどんどん削っていく生き物だかんな。人の記憶もそうしてなくしやすくなるんだ。
だが、今さら変えられるわけでもねえか……。
だったら、そうだな……こういうのはどうだ。
今までのRTAじゃ行かなかった土地も、チャートに組み込むんだよ。
おまえが覚えてるところ全部、覚えておきたいところ全部を毎回見て回るようにすりゃあ、たとえ忘れてもその都度思い出せるようになるんじゃねえか? 知らんけど。
走者がそんな寄り道していいのかって?
いいに決まってんだルルォ!?
何ならそういうレギュレーショナーにしちまえばいいんだよ。縛りなんてそんなもんさ。後のヤツらが気に入ればそれに勝手に続いて世間に定着させるし、そうでなきゃ誰も見向きもしねえ。そんなのどうでもいいし、気にするこっちゃねえ。
大事なのは、やる本人が、今、それでいいかどうかって話だ。
何だよ急に嬉しそうな顔しやがって。
不安がなくなった? そりゃ結構だ。
なに、今度は名前だと? レギュレーショナーの名前なんざ好きにつけろや。何だよ、俺につけてほしいってのか? おいおい……俺にそんなセンスねえよ。
すげー適当につけるからな。後で勝手に変えろよ。
あー……。思い出コンプリート……とか。
んだよ、笑うんじゃねえよ。だから言っただろうが。いいか、後でちゃんと変えとけよ。
おい待て。これで通すつもりか? 勘弁しろよ……。俺が恥ずかしいわ。
確かにわかりやすいけどよ。せめて、人に説明する時は別の名前にしろ。俺といる時はその呼び名でいいから。な?
おう、わかってもらえて嬉しいぜ。
つーか、参考までに聞くけど、おまえ、どれくらいの規模を走るつもりなんだ?
……えっ、こんなに……?
…………えっ。マジで?
い、いやあの……。も、もも、もちろん俺も付き合ってやるよ。一応、俺から言い出したんだし? うん。そのくらい屁でもねえわ。
は? 不眠不休でやるって? そういうレギュレーショナーにするって?
何だよその顔は。俺には無理だって言いたいのか? おまえにできて、俺には無理だと?
なめやがって若造が!
んなもん根性でどうとでもなるんだよ。俺を誰だと思ってやがる!
できらあ!!
※
謁見の間は寒々しい空気に満ちていた。
天井を支えていた以上に、王権の象徴として並んでいた太い柱は多くが折れ、四方の壁を飾っていた優雅なタペストリーは、端々がほつれ、千切れ、すぐ隣に空いた大穴から流れてくる風によって、敗軍の旗のように力なく揺れている。
かつて、ここに銀の精兵たちが集い、玉座と向き合っていた光景を、私はおぼろげに思い出していた。
と同時に奇妙な既視感。
謁見の間に入った私たちから見て最奥、玉座を背にこちらに向かって立つ二人の黄金の騎士を、私は以前、逆向きから見つめていたような気がするのだ。
なぜかはわからない。
私の記憶の欠損は、いとも常識的に導かれるはずの答えを強固にブロックしてしまっている。
私は誰だ?
大切なことほど思い出せないのは、きっとそれを心の一番奥に隠したからだ。大切なものを守ろうとすれば、誰からも遠ざけ、孤独にせざるを得ない。そうして思い出は、私自身の手も届かなくなった。皮肉にも、そうなった。
「先にハリテを倒す……でいいんだよな?」
白い髪の幼い人――レイ親父が私にたずねた。反射的にうなずき、そのなめらかな動作が、私のこれまでの経験を、腕に書かれたチャート以上に証明してくれる。
私は、この感覚によって私を認識する。
「あと一歩進んだらオーンステッドが突っ込んでくるからな。油断するんじゃねーぞ!」
ホネグルマ――ではなく、サグルマ君が仲間たちを鼓舞する。
耳に馴染んだ彼の言葉が、この共闘が一度目ではないことをはっきりと教えてくれる。
私は彼らと、幾度となくこの戦いに臨んでいる。
「行こう」
だから私は満足して前に踏み出す。
瞬間。黄金の騎士の片割れ。竜を模した鎧の偉丈夫が、謁見の間を滑るように移動しながらこちらに突っ込んできた。
彼の得物は槍。狙いは正確に私。
寸毫の誤りもなく心臓のど真ん中を射貫く槍の穂先を紙一重でかわし、脇に挟み込むことで動きを封じる。
本来ならこれで槍は攻撃力を失うはずだが、私の体ごと得物を振り回し、床に叩きつけるまでが彼の流儀。――流儀……? そうだ。それが彼の流儀だった。
横に振られたと感じた瞬間に槍を離し、あえて投げ飛ばされることで距離を取る。
しかしそれで攻撃を止めてくれるほど、彼は甘くない。――甘くない? そうだ。彼はいつだって……甘くなかった。
投げ飛ばされた私の体がまだ宙にあるうちに、オーンステッドは再突進の準備を整えている。
謁見の間の床がボロボロなのは、彼が本気で踏み込んでいるせいだ。王宮警護には不向きの脚力だと愚痴をこぼしていたことも忘れたか。――そうだな。私も忘れていた。今、思い出してる。
「――!」
声なき気合の一閃が、空中で身動きの取れない私の体に迫った。
あまりにも見知った、死の形。その槍の先に貫かれる悪夢を何度見たか。
黒騎士の大斧を振るって、弾き返す。
再度吹き飛ばされた体を、足からしっかりと着地して戦闘態勢を保持。
私も高い戦闘技術を持っている。彼らの前では、それを感謝と共に誇りたくなる。この気持ちは何か?
「何も言ってくれないのか」
私の意図せぬ声が、彼にそう問いかける。
「今の私に口など利いてくれるはずもないか」
一人で言って、一人で納得する。私は何も知らないのに、私の記憶は確かに何かを認めた。
戦いは別のところでも起こっている。
「ハリテの突進のホーミングがエグいんですけどォ!?」
「落ち着いて柱の陰に隠れろ! 正面からやりあうんじゃねえ。数で押せ!」
戦場の乱れた空気の中でこそよく響くサグルマの声は、ある種の才能だ。仲間たちの悲鳴や不安を押し流し、的確に次に何をすべきかを示してくれる。
混迷の中で頼りになるのは、直近に聞いた音だけ。事前の下準備は極めて小さな光にまで押し込められる。それが戦場というもの。だから指揮官に大きな声は重要だ。よく通る声が。
そう教えてくれたのは――驚くほどの美声を持った悪魔のような巨漢。そうだったか? ああ、そうだった気がする。頭のどこかがすんなり受け取った。だからこれは正しい。
王を守る黄金の双璧。戦い方も死生観もモラルも違うのに、技量と武力だけは迷惑なほどに互角。
結局、最後まで誰にも敗れることはなかった。
抜け殻となるまで。あるいは……抜け殻のふりをして、己の意志を殺しきるまで。
「確かめよう」
私は細く吸った息を体の隅々まで行き届かせ、前に出る。
オーンステッドはにわかに後退する。
戦場で敵対した者には、彼は網膜に張り付いた亡霊のように見えるという。
下がるものは押し、押す者には下がる。そうして槍の最も得意な距離を永遠に保ち続ける戦巧者。そしてその槍の豪閃は、分厚い金属の盾と鎧と人体を一直線に貫いてまだ余力がある。柔と剛を両方併せ持つ英傑。それが彼だ。
こちらが押す、あちらが引く。
あちらが押す。こちらが引く。
まるで攻撃と防御の訓練をしているかのよう。あるいは宮廷舞踏のステップ。
私は、そのどちらも知っている。
「うおおぉぉりィィやあああッッ!」
レイ親父の咆哮。刀を空振りした時の笛の音はなく、金属がひしゃげる小気味よい音と、巨大な物体が倒れる轟音が鉄兜の中に滑り込んでくる。
あちらは勝負がついた。仲間たちの勝利だ。
だが、なぜだ。少しも安心できないのは。胸のすく思いがしないのは。
オーンステッドの攻めが激しくなる。仲間を討たれたことへの激情か、あるいは、防壁を突破した敵戦力がこちらと合流するのを防ぐための冷静な判断か。
自身の身を危険にさらす大胆な技が増える。
どのみち、こちらがレイ親父たちと合流すればさらに危険になるのだ。思い切るところだった。
だが、その攻めさえも――。
日ごとに陰っていく。
彼がまだ槍そのものであった時代の技は、こんなものではなかった。顔のない記憶がそう思う。
「もう、追い越してしまったな……」
大きな踏み込みからの刺突にタイミングを合わせ、前に出る。
兜ごと頭蓋骨を突き抜く風の音を耳元に聞きながら、私は槍の間合いを完全に殺した。
ここから彼の驚異的な後退。しかし、幻のように下がっていく竜の鎧の動きを、私は完全に追跡し、追従し、追随した。
依然としてこちらの間合い。万全の態勢からの渾身の一撃を、彼の首筋に叩き込む。
首の骨と肉と筋と血管が砕けて混ざり合う感触。
壊れた人形のように肩の上の頭部を傾かせた彼は、人間でいえば頸部を完全に損傷して即死の状態にあった。
膝から崩れ落ち、しかしその腕は最後の最後に、槍を地面に突き立ててその体が地面にくずおれるのを支える。
不敗。崩れえぬ王と王への忠義を象徴するこの鎧を、決して地に着かせぬ、騎士としての最後の務め。脳との神経を断たれ、すでに何の意志も通わぬはずの体は、それを忠実に果たして停止した。
骨の髄まで、とはここまで至った者のことを示す言葉なのだろう。
「……そうか……」
私はその亡骸を見て、また一つ自らを知る。
手の震え。胸の揺らぎ。詰まったのど。笑う膝。呑んだ息。しばたたくまぶた。冷たい背中。体から滴っていく何か。石床を掴む足の指。それらすべてが、かつて私と彼らの間に大切な何かがあったことを教えてくれる。
苦痛の中で生を実感し、病の中で健康の大切さに気づき、怒りの中で平穏を懐かしみ、不幸の中で幸福だったことを知り、裏切りの中で友情に思いを馳せる。
真逆の世界から真逆の世界を眺め、ようやく私は五感に受け取れる。
私が、そういう誰かであったと。
しかし、それも一時のこと。徐々に鮮明さを失っていく感覚が、在りし日の記憶を再び霧の奥へと連れ去っていく。
もう、どこを探しても見当たらない。
「ああ……」
また殺しに来ないと。
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