第118話 ガバ勢とよわきす

 ルーキとカミュが同盟を結んだその日の放課後、早速、勉強会が始まった。

 私語厳禁の図書室とは違い、教室二つ分ほどの広さを持つ自習室は勉強の内容に限って会話が許されており、生徒同士の教え合いに関しては最適の場所だ。


 しかしその日に限っては、いつもと様子が違っていた。


「ルーキ……君はこの程度の問題も解けないのかい?」


 冷笑と蔑みのこもった声がねっとりと耳をなめ、ルーキは「うぐっ……」とうめく。


「こんなもの、公式に数字を当てはめるだけじゃないか。いけないなぁ……。さっきボクが教えたとおりにしてよ、ふぅ……」

「おい、カミュ……」


 恨みがましく隣席のカミュに目を遣ると、彼は尊大に鼻をそびやかし、氷のように冷えた目で見下ろしてきた。


「カミュ先生、だよルーキ? ダメだなぁ、君は……。先生の言う通りにしなきゃあ……」

「んぐぐぐぐ……! ここはこれでいいんですかねカミュ先生……!」

「ん……? ふふ……なぁんだ。できるじゃないか。いいよ、そうそう……その調子で口だけじゃなくてもっと手を動かしてよ」


 自習室の一角は異様な空気に包まれていた。


 カミュがこんな風になったのは、ルーキに勉強を教え始めてすぐだ。元々一緒に勉強する予定だったリズと三人で席に着いた後で、カミュから「人から学びを乞うにはまず上下関係をはっきりさせた方がいい」との申し出があった。


 つまるところ、教える側には絶対服従。また、教える側もそれなりに立場のある態度で接する。そうすることで双方気が引き締まり、勉強にも身が入るというのが、彼の意見だった。

 一理あると思ったルーキはそれを快諾したのだが……その結果がこれだ。


「じゃあ次はできるかな? これは、文章題の中では素直な方だ。ボクが教えたことがちゃんと理解できているのなら簡単だよ。もし間違えたらお仕置きするからね。ふふ……」

「…………」


 何というかカミュは、非常にねっとりした偉そうなキャラになっていた。

 よくわからないが、これが勉強を教えた年上のイトコに受けたらしく、彼女はめきめき成績を伸ばしたそうだ。


 口調だけでなく顔つきまで“入っている”あたり、むこうも真剣にやってくれているということなのだろうが……。


 ――あああああああああああああ^~…………っ。


 問題はカミュよりも、周囲の席にいる女子たちかもしれない。


 ルーキが問題を間違え、カミュがぶち込みすぎた片栗粉のようなねっとり嫌味を言いながらどこが間違っているのか指摘するたびに、桃色のため息が室内に吐き出されている。


 勉強を始めて三十分ほどだが、それまではそこらじゅうから聞こえていた鉛筆の音が今は完全に途絶え、空気中の乙女のため息濃度ばかりが上昇していた。


「はあっ……ショタの強気攻め……」

「ルーキさんたら、なすがままにされちゃって……」

「あんなに小さくて可愛い子に負けちゃって、恥ずかしくないのかしら? っていう視線を浴びて情けない顔になってるところが最高にいい……。ホントはしてないけどそう考えると最高にたっとび……」


 なとど、意味不明な供述が耳のあたりをふらふらと行き交って集中力を削いでくる。


「こ、こんなんでどう?」


 ルーキが紙に答えを書いて見せると、カミュはそれをチラリと見て冷たく笑った。


「そんなにお仕置きされたいのかいルーキ? ここを勘違いしたね? ここもだよ。式に使うのはここの数字。そして出てきた答えをこっちの式に当てはめるのが正解さ。これはもう一度、しっかりと体に教え込んであげないとダメだね……」


 言ってることはねちっこいが、カミュはルーキが間違えた部分を、その誤ったロジックも含めて恐ろしいほど的確に見抜いてきた。


 たとえば、バナナが二本、桃が三つ、あわせていくつ? という小学生向けの問題がある。それに対し、バナナと桃は違うものなのであわせられない、と考えてしまう子供がいる。そういう勘違いのロジックを見抜き、的確に矯正してくるのだ。


 これは、単に頭がいいだけではできない、経験がものを言う技術だ。さらに、彼自身がいくつもの不得手を克服してきた証でもある。


 自習が終わる頃には、


「マジかよ……こんな呪文みたいな問題もわかるようになっちまったぞ……」

「ふふ、上手にできたねルーキ。でも、ボクはまだまだ満足してないからね……」

『おヌッ!』


 深窓の令嬢たちが汚い声で唱和した。


 ※


 夕方が近くなったあたりで、ルーキとカミュは運動場に出ていた。

 たっぷりと勉強したので、ここからはカミュを鍛える時間だ。


「体力をつけるには、まず走ることだ。走者がまず最初にすることだな。イクゾー!」

「お、お手柔らかにね……」


 素の状態に戻ったカミュが、ジャージの袖の余った腕を不安げに胸元に持っていきながら言う。ちなみに下はジャージの裾が合わなかったらしく短パンだ。

 クールダウン中の運動クラブや、たまたま運動場にいた園芸クラブ他の生徒たちが、何事かと視線を注いでいる。


 そして十分後。


「ひっ、ひい、ひっ、あっ、あひい、ひい、ひあ、あひぃ、ぴぎいいいい……」


 今回は出番なしの委員長が、運動場の端から体育座りでぼんやりと見守る中、ルーキのななめ後ろを走るカミュは誰がどう見ても死にかけていた。


「おーいカミュ。ちゃんと腕振らないと無駄に疲れるぞー」

「ひぐぅ……。そんら……そんらこと言ったてぇぇぇ……」


 北斗羅漢撃みたいに腕を振りながら走る――というか倒れる前に足を出す動作を繰り返しているだけのカミュは、息も絶え絶えになりながら声を上げる。


「はあっ、ひいっ、るーひ、もひかひてぇ、しゃっきの、しかえひ、あひぃ、してないかい……あグゥゥ……」


 さっきの仕返しとは、自習室でのことだろう。


「するわけないだろ賢くなれたんだからよ。とりあえず、グラウンドあと一周な」

「エうぅ!? まだしゅるのおおお……らめぇ……」


 水の中を歩いているようなもっさり加減で、カミュは何とかゴールにたどり着いた。


「しぬ……ひんじゃうううう……ヴエェ……エ゛ぅうっ……」


 つばを飲み込む力さえもなくなったか、粘つくヨダレを垂らしながらグラウンドに倒れ込む。

 糸が切れた人形のようにだらしなくノビる姿を見て、方々から声が上がった。まるで虐待を疑うような悲惨なしごきに対する非難――ではもちろんなく、


「エッッッッッッ!!」

「強気ショタの無様な涙目アヘ顔……最高……いただきます、おかわりください!」

「すううううううううううううううう(肺活量UP!)」


 走り始めた頃はいなかった生徒たちも、いつの間にか続々とグラウンドに集結してきていた。


「ル、ルーキ君!? 何をしているんですか!?」


 そんな人込みから慌てた様子で駆け出てくる人影が一つ。

 ローズカッチャマと組まされたせいで、いまいち不憫体質のある副担任のセシル先生だ。


「あ。セシル先生。カミュとジョギングしてました」

「ジョギング? い、いや、でも、その程度でこんな……ゴクッ……」


 顔を赤くしたセシル先生が生唾を呑むようにのどを鳴らした時、汗だくで倒れるカミュがうめいた。


「ゼエ……ゼエ……はひ、あひぃ……ゆるひてぇ……ゆるひてるぅきぃ……もう、もぉむりいぃ……ぼくこわれちゃうよぉ……」

「フニャ!?」


 ビクンと跳ね、「ほ、ほ、保健室に……」としどろもどろに言いかけた彼女の背後から、一つの影が飛びつく。


「セシルせ~んせ~。男子の友情を邪魔しちゃダメよ~」

「ひっ!? ロ、ローズ先生!? なぜわたしを羽交い絞めにするんです!?」

「だって~、先生も本心ではもっとあれを見ていたいでしょ~。みんなも見たがってるし~。正直になりましょうよ~」


 指摘された途端、セシルの顔から湯気が立ち始める。


「なっ、なっ、何てことを! それでも教師ですか先生! だいたい! 生徒たちがこういうのに露骨に興味を持ち始めたのローズ先生が来てからですからね!? それまで花も恥じらうような子ばかりだったのに、陰で一体何を吹き込んだんですか!?」

「知らな~い。あっ、あれの影響じゃないかしら~。ねっとり百合漫画描いてる中等部のリリリーナ~」

「あの二人に対する指導決議案を会議前にプレッシャーかけて破棄させたの先生でしょおおおおおおおおおおオオオ!??」

「あら~ばれてる~? セシル先生意外とで~↑きる~↓」


 ぎゃーぎゃー言い合っている教師二人をよそに、戸惑う足取りがルーキへと近づいた。


「ル、ルーキ。これは一体……? この男の子は?」


 この場においては、もっともカミュと関係性が深い少女。エルカだ。


「あれ? 会ってなかったのか? こいつがカミュだよ」

「え!? カミュ!? こ、この方が……」


 エルカは唖然としたようだった。イメージとだいぶ違っていたのだろう。ルーキも同感だった。


「そ、それで、早くも運動の勝負を……!? ということはもう決着は着いたんですの!?」

「あ、いや、違う。エルカお嬢さんにはちゃんと教えとかないとな。カミュは俺たち側だよ。今回の婚約話に反対してる。だから、同盟を結んだ」

「同盟ですって?」


 目を丸くする彼女にルーキはうなずき、


「カミュには、ちゃんと好きな人がいるんだってさ。だから俺に勝ってほしいんだと。つまり、カミュもお嬢さんと一緒で、家の決定に反逆しようとしているんだ」

「……そ、そうでしたの。この方も……」

「ただし、カミュも好きな人の前でみっともないとこは見せられないから、手加減するのはなしだとさ。ただ、俺が自力で勝てるよう、勉強を教えてくれることになった。これはそのお礼。運動苦手っていうから、体力作りに協力してる」

「ど、どうしてそんなことを? 今の話を聞く限り、あなたはわたくしだけでなく、この方のためにも絶対勝たなければいけない立場になってしまったのですよ?」


 カミュがモヤシの方が勝利は容易くなる。それは確かだ。しかしルーキは苦笑し、


「悪いな。無理してもカッコつけたい相手がいるってのは、俺もわかるからさ。まあ、運動については走者の意地にかけて負けないから、これは大目に見てくれよ」

「……! ル、ルーキ。カ、カッコつけるって、そ、そそ、それって、ひょっとして朝の花のこと――」

「へ?」

「い、いえ! 何でも! 何でもありませんわ! いっ、いいい、い、いいでしょう。あなたがきちんと責任を持ってくれるというのなら、これは認めますわ」

「ありがとうよ。お嬢さん……!」


 どこかツンと澄ました態度を見せたエルカだったが、すぐカミュに目を戻し、心配そうな声音で言う。


「それはそれとして、これはやりすぎではなくて? もっと軽いトレーニングから始めた方がいいのでは」


 ルーキもいまだグロッキーな彼に目を落として、頭を掻いた。


「健康なのに妙に体力がないヤツってさ、実際に体力がないっていうより、自分が疲れてる状態に耐えられないってことの方が多いんだよ」

「それはつまり、根性がないということですの?」

「身もフタもないこと言うとそうだけど、それだとイマイチ抽象的だかんな。まずは、人間、結構疲れてても頑張れるってことを理解させるところから始めてみた」

「疲れてても頑張れましたか……?(小声)」


 しばしの黙考の後、ルーキは率直な感想を述べた。


「カミュにはマジで体力がないゾ」

「ですわゾ」

「でもまあ、限界ってのは無理した時に徐々に引き上がっていくものだから……」


 ルーキが言いかけた時、運動場に入ってくる人影が見えた。


「おーいルーキ。今時間あるかなあ? 急な頼みが入っちゃって……」


 ロコだった。また寮の修理だろう。

 勉強も捗ったし、カミュの状態を見ればこれ以上の運動は無理だ。ロコの頼みを聞いても何の問題もない、と思ったルーキが肯定の意思を示そうとした時、彼が何やらすごい勢いでこっちに向かって走ってきた。


「ル、ルーキ! 誰その男!?」


 息を切らしながら出し抜けに聞いてきたロコの剣幕に少し慌てつつも、ルーキは手短に事情を説明する。


「――そ、そういうわけで、これは協力の見返りってわけだよ」


 こちらがユリノワールに入学した理由については、すでにロコの知るところだ。それと今の話を合わせて考えれば、別にカミュをいじめていたわけではない、ということくらいは簡単に理解してくれる――と、ルーキは思ったのだが。


「どうだかね……」

「えっ……?」


 ロコは普段は人の好さそうなまん丸の目を少し尖らせて言った。


「気になる人がいる……そう言って警戒を解かせて近づいて、十分に親しくなってから、気になる人って実は……って白状してくるお決まりのパターンさ。卑劣な作戦だよ」

「ロ、ロコ? 何言ってるかよくわかんないけど最近黒いですよ!?」


 指摘するとロコは「うぐっ」とうめいてしかめっ面になり、


「ル、ルーキが悪いんだよ。ルーキがルーキだからっ……」

「えぇ……」


 ロコに何か悪いことをした覚えはない。

 いや、ひょっとすると、ロコは〈ランペイジ〉直後のあれをまだちょっと怒っているのかもしれない。


 職人はプライドが高い。それは傲慢という意味ではなく、自分の仕事に自信と責任をしっかり持っているということだ。口では謙虚なことを言い、真摯に学ぶ姿を見せていたとしても、その腹の底には、自分の技を高めるためにすべてを食らい尽くす獰猛な獣を飼っている。職人とは、そういう人々だ。


 その獣の機嫌を損ねてしまったとしたらロコの怒りはしばらく収まらないし、その原因を作ったこちらとしては、沈静化するまでただ誠実に向き合うしかなかった。


「と、とにかく、ロコの用事には付き合うよ。その前に、一応カミュを保健室に連れて行かせてくれ。ほっといても大丈夫とは思うけど……」


 そう言ってカミュを抱き起そうとすると、彼はビクンと体を震わせ、


「ひっ……ま、まだするのぉ? ぼ、ボク、し、しんじゃうよお……」


 懇願するような涙目でルーキを見つめてきた。

 隣にいるロコがこちらを見つめる目が、どんどん黒ずんでいくような気がした。

 

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