第116話 ガバ勢と帰宅へ。

 聖ユリノワール女学院の石畳は、夕日を浴びて茜色に輝いていた。

〈ときめきユリノワル〉初日が終わろうとしている。


 下町方面の学校からだろうか。《帰宅~しようランララン》という奇妙な歌が聞こえてくる。


《なんとなく帰宅、なんとなく帰宅!》


「帰宅って何となくするものか……?」


 不可思議な歌詞とそこにつぶやくルーキのことなど気にもせず、上品な「ごきげんよう」の挨拶がそこここで交わされ、少女たちがそれぞれの帰路についていた。

 ある者は正門へ。ある者は寮の方角へと、上品な歩幅で向かっていく。


「お待たせしました、ルーキ君」


 昇降口のところでぼんやりと下校風景を眺めていたルーキは、背後からかけられた声にゆっくり振り向いた。


 一回り膨らんだように見える鞄を両手で提げ、リズが歩み寄ってくる。


「教科書は受け取れたのか?」

「ええ。ルーキ君は?」

「俺の方も大丈夫だ。意外と少ないんだな教科書。もっと山ほど渡されるかと思った」

「教材の大半は学校側が持っているようです。お嬢様にあまり大荷物を持たせるわけにもいかないのでしょう」


 答えて前を向いた彼女に合わせるように、ルーキも正門へと目を移した。下校する生徒たちが大勢いる。


「何だか新鮮ですね」というリズの言葉にルーキはうなずき、

「訓練学校は原則全員寮だったからな」

「な、なかなかいいものじゃないですか? 一緒に帰るっていうのは……」


 どこか上擦るような問いかけに、「そうだな」と返しつつ、正門のところに停まっている馬車に気づく。


「あれは、貴族用の馬車ですね」


 リズがこちらの疑問を先回りするように言った。


「ルタは都市としては例外的に治安が良いですが、それでも不逞の輩や事故が皆無とは言えません。上流階級の中でも一部の生徒は、ああして自前の馬車で送り迎えしてもらっているんです」

「へえ……。さすが、一度ユリノワールに通いかけただけあって詳しいな」


 ルーキが褒めると彼女は苦笑を見せ、


「この学院では一種のステータスになっていて、家格が下の者は、上の者の車道を塞いではいけないというのが暗黙の了解になってるんですよ。朝なんかはあらかじめ相手の登校時間を把握して、重ならないようにして来るんです」

「めんどくさ……」


 リズが「ですね」と微笑みながら言った、その時だ。


「ごきげんよう」


 誰かと挨拶を交わす聞き慣れた声が、耳に飛び込んできた。

 それからすぐに『あっ』と、二人の声――ルーキとエルカの声が重なる。

 周囲からはっとするような気配が漏れ出る中、エルカはいたって平素の口調で、


「あ、あらルーキ。あなたも帰るところですの?」

「ああ。エルカお嬢さんもか?」

「そうですわ」

「そうか。じゃあまた明日な」

「ええ」


 澄ました顔でそう言い、エルカが横を通り過ぎたところで、ルーキはリズにわき腹を突かれた。顔を向けると、チャートのエルカのページをぺらりと示してくる。


 エルカお嬢さんは適度にかまわないと爆発する――。色々ガバガバな初日だったが、これくらいはチャート通りにやらないと明日から走者を名乗れなくなりそうだ。


 ルーキはエルカを追いかけ、


「なあエルカお嬢さん、一緒に帰らないか」

「……ッ!!」


 エルカはビクンと体を揺らすと約一秒ほどプルプルした後、肩にかかった髪をフワサッと払いながら振り返った。


「何を言いだすのかしらルーキ? わたくし、正門のところに馬車を待たせてありますのでそのようなことはできませんわ」

「あっ、そっかぁ……」


 見れば、門のところに家紋入りの一際立派な馬車が停まっており、入り口のすぐ下にユメミクサが佇んでいる。


「なら邪魔できないな。じゃあ、また明日、学校でな」

「ええ……」


 エルカが返事をした時だ。


「ルーキ、一緒に帰ろー!」


 寮へ続く小路から、ロコが手を振りながら歩いてきた。


「おー、ロコ! 帰ろうぜ!」


 ルーキが手を振り返すと、


「ルーキさん、途中まで一緒に帰らない?」


 ジェニルファーとロレッタも校舎から出てくる。


「ああ。帰ろう帰ろう」


 一気に大所帯になったルーキは、友人たちとわいわい話し合いながら正門へと向かう。


「ふふっ……。なんか、こういうの憧れてたんだ」


 ロコがくすくす笑いながら言った。


「あー、まあ、俺と帰る時は寮までだったしな」

「そうそう。帰り道すぐ終わっちゃう」

「えっ、二人はどういう関係なの?」


 ロレッタが首を突っ込むように聞いてくるのに答えつつ、ふと、少し離れた後ろを、どこか肩をしょぼくれさせたエルカが歩いているのが見えた。

 こちらの目線に気づいたのか、エルカはぷいっとそっぽを向く。


「へーっ。ロコさんとリズさんって、ルーキさんと同じ訓練学校だったんだ?」

「う、うん。僕は途中で辞めちゃったけどね」

「でも、そのおかげで俺はグラップルクローを譲ってもらえたんだけどな」

「あっ、それってあの爪のこと? わたし、あれでルーキさんに助けてもらったのよ」

「それで、俺はジェニルファーに何度も助けてもらった。ハサミマンから」

「そしてわたしは、親友のロレッタを助けてもらったの」

「フフ……面白い関係ですね」


 人懐っこいロレッタがどんどん話しかけてくれるおかげで、ロコやリズも会話が弾んでくる。ごく普通の、RTAでも何でもない、まったりとした楽しい時間が流れていた。


「…………」


 不意に獣の唸り声が聞こえたような気がしてルーキは振り向いたが、エルカが前を向いたまま素知らぬ顔で歩いているだけだ。

 ルーキが目で問うと、彼女は迷惑そうに眉をひそめた。


(気にしすぎか)


 あんまり構いすぎるのも問題だろう。むこうだってヒネくれた猫ではないのだから、してほしいことがあれば素直に伝えてくるはずだ。

 だが、なぜだろう。近くで、じりじりと何かが焼けるような音が聞こえてきている気がするのは。


 そうして正門に近づき、風景画の一部のように佇むユメミクサと会釈を交わした時だった。


「…………再走」


 ぼそりと。


「へ?」

「再走――――――ッ!!!」


 いきなりエルカが爆発した。


「な!? な、何だ!? 何だ何だ!? エルカお嬢さん!?」

「再走! 再走ですわルーキ!」


 エルカは地面をどしどし踏みつけるようにしながら詰め寄ってくる。


「今すぐ再走なさい! 初日の朝からやり直し! メガトン再走! ギガトン再走!」

「ファッ!? 何で!? 何で!? 何で!? 俺普通にしてたじゃん!?」

「速やかに退学手続きを取ります! 再入学の書類は筆記速度を考慮してほよという名前で提出しますわ!」

「やめてくれよ!」


 一体どうしたというのか。さっきまで普通に歩いていたというのに。

 ルーキは助けを求めるように友人たちを見回したが、みな困惑するばかりで助け船を出してくれそうもない。


 そこへ、小柄な影がそっと踏み込んできた。


「お嬢様。お取込み中のところ大変申し上げにくいのですが――」

「何ですのユメミクサ! 今わたくしはとても忙し――」

「先ほど段差を乗り上げた拍子に、馬車の車軸が歪んでしまったようです。お嬢様には大変申し訳ないのですが、今日は徒歩でお帰り願う他ありません」

「えっ!!!!」


 ぴたり、とエルカのかんの虫が治まった。

 ユメミクサはその場の全員に会釈をすると、改めてルーキに向き直り、


「ルーキ、できるのなら、お嬢様を御屋敷まで送っていただけますか?」


 その無感情の瞳に何らかの意図が滲んでいるのを読み取り、ルーキはすかさずうなずいた。こういう時は彼女に従うに限ると、すべての経験が語っている。


「あ、ああ! わかった! お嬢さんを家まで送っていけばいいんだな!?」

「ご学友の方々も、皆様方のご自宅の近くまででよいので、お願いします」


 メイド少女の要望を、みなすぐに快諾した。それから彼女はチラリと馬車の御者と目配せし、


「それとルーキ。今わかったのですが、馬車の故障は深刻なようです。大変心苦しいのですが、修理が済むまでの数日間、エルカお嬢様の送り迎えをお願いできますか?」

「えっ!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 大きく開いた口を両手で押さえるエルカを尻目に、ルーキはその頼みにも即答する。


「わかった! そうするよ! 朝迎えに行って、一緒に帰ってくればいいんだな!? お安い御用だ!」

「お願いします。それでは、わたしは後始末がありますので……」


 ユメミクサは深々と一礼すると、馬車の方へ戻っていった。

 エルカはそれを見送った後、しばらくプルプル震えていたが、やがて極めて涼しい澄まし顔でルーキに向き直った。


「こういうことになってしまっては致し方ありません。では皆様、途中までご一緒に帰りましょうか」


 太陽のコロナのごとき光背に、誰もが思わず目を細めた。


 その輝きは、エルカが家にたどり着き、扉が閉まるまで持続したという(夜近くまで部屋が光っていたという話もある)。


 ※


「ソワソワソワソワ……。ソワソワソワソワ……」

「お嬢様。あんまりソワソワするのはおやめください」


 巨大な扉の前で右往左往していたところをユメミクサに咎められ、エルカは足を止めて彼女へ振り返った。


「ソワソワなどしていません。ただ、ルーキがちゃんと時間通り来るのか不安なだけですわ。だってルーキなんですもの」

「時間通り来るのであれば、あと十五分は先のはずですが……?」

「そ、そういうところも含めて不安だと言っているのです。予定より早く来るのもマナー違反というもの。せっかちな走者ならやりかねませんわ。だからこうして気を揉んでいるのです。ソワソワソワソワ……アビラウンケンソワカ……」


 東方の神仏まで巻き込みつつ、再びソワソワし始めるエルカ。

 その足取りが三十往復目に入ったところで、扉の外側に取り付けられたノッカーが屋敷内に音を響かせた。


「ルーキ、なんて人! まだ約束の時間より十分も早いというのに! こちらはまだ準備が――」


 ハヤテのごとき勢いで扉を開けたエルカは、その先で目を丸くしている老紳士と顔を見合わせ、思わず絶句した。


「あ、あなたは……!」

「これはエルカさん。ごきげんよう」

「ご、ご機嫌麗しゅう、フェルディナンド様……」


 エルカは恐縮してこうべを垂れた。


 帽子を軽く持ち上げて挨拶をしてきたのは、フェルディナンド・ロキシナ・スパダ。エルカの祖父グスタフの旧友だった。


「御爺様はおいでかな?」

「いえ……申し訳ありません。祖父はすでに勤めに出ております」

「そうか。いや、突然訪ねたこちらが悪い。気にしないでほしい。時に、孫が――カミュが聖ユリノワールに入るのは、今日からだったね?」


 フェルディナンドがにこやかに語る言葉に、エルカは体がみしりと圧縮される気分を味わった。


 カミュ・ロキシナ・スパダ。

 自分の婚約者になるかもしれない男。それも限りなく高い確率で。


「忙しい両親に代わって、わしが男手一つで育てたせいか――というと世話役に怒られそうだが、少々甘やかしすぎたきらいもあるかもしれない。しかし、根はしっかりとした男のはずだ。気に入ってもらえると嬉しいよ。それではね……」

「はい。フェルディナンド様……」


 確かな期待を言葉の端々に匂わせ、フェルディナンドは去っていった。


「エルカお嬢様」

「……大丈夫よユメミクサ。わたくしもアトランディア家の女。その時が来たのなら……」


 気遣うように呼びかけてきたメイドに蛍火のような弱い微笑みを返すと、エルカは自分の肩を抱き寄せるようにして小さく息を吐いた。


「うぽーつ。おはようございまーす」


 能天気な声が響き、ゴンゴンとノッカーを鳴らした。

 間違いなくルーキだった。


「なんて人! どうして後五分早く――」


 文句を言いながら開けた扉の隙間から、鈴のような形の白い花がすっと入ってきた。


「――!? ル、ルーキ、これは……?」


 心を落ち着かせる清涼な香りが、直前まで胸の内で渦巻いていた暗雲を溶かしていく。

 いきなり花束を突きつけてきたルーキはきょとんした顔で、


「ああ。そこんところで庭師さんに渡された。お嬢様に届けてくれって。あれ? 時間遅かったか?」


 エルカは小さな花束を受け取ると、目を閉じて再びその匂いを胸の奥へと取り込んだ。

 体の底から清らかな泉が湧き出るような、清々しい気分になる。

 ハーブに少し似て嗅ぎ慣れない不思議な匂いだが、もちろん嫌いではない。


(嗅ぎ慣れない……?)


 エルカは、はたと考える。

 屋敷の花壇に自分が知らない花などあっただろうか?


(これは、うちの花壇の花ではない……? まさか!?)


 エルカははっとした顔でルーキを見つめた。彼は一瞬だけユメミクサと何かを確かめるような目配せをしたようでもあったが、そんな些細なことはどうでもいい。


(なんて人! わたくしと一緒に登校するためにわざわざ花を持参するなんて、カッコつけちゃってもう……。……し、しかしここで露骨に喜んでは、ルーキの振る舞いに水を差すというもの。ここはあくまで、すべて知っていながらさりげなく受け取るのがレディの鑑というもの……!)


「きちんとリカバーできたので再走はなしとしましょう。では、参りましょうか」


 エルカはおしとやかに微笑み、花をユメミクサに渡してそれだけを言った。


 額にはドラゴンによく似た形の紋章が輝いていた。


 ※


 徒歩での通学は実はそれほど珍しいことでもない。

 御者が体調を崩した時、急用で馬車が出払っている時など、まれにではあるが歩いて通学している。その際はユメミクサか他の使用人が同行するが、今回は特例。両親からの了承も得ている。学友の一人、としてだが。


 今日から婚約者候補が学校にやってくる。そのことをのぞけば、特別な話をするでもない通学路は、いつも下町に降りる時のようにあっという間に終わった。


 まだ生徒もまばらな早い時間帯に教室に到着し、ルーキが席に着くのを見届けたエルカは、彼が机の中をのぞき込みながら奇妙な反応を示すのを見て眉をひそめた。


「ルーキ?」


 呼びかけると、彼はニヤリと笑って、机の中から取り出した白い何かをこちらに見せてきた。


「どうやらむこうもやる気らしい」


 折り目のついた真っ白い紙には、こう書かれている。


 ――昼休み、体育館裏に一人で来られたし。カミュ・ロキシナ・スパダ。

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