第110話 ガバ勢 To Chart

 昼休みになり、リズ・ティーゲルセイバーはそっと教室を離れた。


 鐘が鳴ると同時に檻から脱走した犬のように駆け巡り始めるRTA訓練学校の生徒とは異なり、ここでは誰もが花が風に揺れるようにして席を立つ。

 正に、立てばシャクヤク座ればボタン、歩く姿はユリノワルといった風情だが、リズはこのどこか作り物めいた上品さが苦手だった。


 さっきの花にたとえるなら、芽の伸ばし方、花弁の開き方、開花の時期さえも矯正されたような立ち居振る舞いに感じられるのだ。しかもタチの悪い花泥棒に踏み荒らされれば、なすすべもなく散ってしまうほど純粋で、脆弱に。


 それは、誰かに守ってもらうことを前提とした育ち方。命を預けるという意志すらなく、すべからくそう在るべきものとして、目と耳を塞がれたことも意識しないまま生きている。


「非難するつもりはありませんが、やっぱり、合いそうもないですね……」


 しかしここでの授業がハイレベルであることは確かだ。

 特に数学は、飛び入りのこちらにはチンプンカンプンだった。国語に関しては、まあ何が書いてあるのかはわかるにしても、その内容を完全に受け止める感受性は一朝一夕ではまず身に付かないだろう。


 ただ、歴史。あれは退屈だった。


 血みどろの開拓史最前線の生き証人が家でゴロゴロしており、さらに、ヤリす……もとい慢性的な体調不良で寝込んでいる父や祖父を見舞って訪れる英雄や政治家たちの昔話を間近で聞いてきたリズからすれば、授業で教えられる内容など、歴史の中に落とされたごましお程度の情報でしかなかった。


 結局、〈魔王喰い〉を従える一族に高尚な学問など必要ないのだろう。必要なのは、生と死を見分けるだけの知識と、それを支えるものの考え方。それで十分。


 そう思いつつ隣のクラスへと足を向ける。


「さて、ルーキ君は生きてますかね……」


 訓練学校でよくわかっていることだが、彼はあまり勉強ができない。午前中だけで精魂尽き果てた彼には、何か助けとなるものが必要だ。


 そこで、授業の片手間に簡易チャートを作ってみた。

 シンプルな活動方針や今後のスケジュールを大雑把に組み上げただけのものだが、目隠しのまま海原に船をこぎ出すよりはマシだろう。


 少し得意げに目を細めたリズは、二年二組の扉を静かに開いた。


「それでは皆様のためにい~」

『きゃーっ!』


 そこには、多くの少女たちに囲まれて上機嫌なルーキの姿があった。

 手元からチャートの紙束がばさばさとと落ちていった。

 

 ※


「なあにやってるんですかねえ……ルーキ君? ウハウハウハンジさんですか?」


 突然教室に入ってきた委員長は、落とした紙束を拾いながら、何かをこらえるように肩を震わせていた。


「あっ、委員長。なんか、みんなが俺の完走した感想聞いてくれるっていうから、すぐ終わるやつを――」

「ちょっと来なさい」

「あだだだ痛いッシュ!?」


 いきなり耳を掴まれ、ルーキは足が浮き上がる勢いで教室から連れ出された。

 そのまま暴風のように廊下を移動し、カーテンが閉じた空き教室へと放り込まれる。


「まったくあなたという人は……! 完走した感想を聞いてもらえるなら誰でもいいんですか!?」

「ま、待ってくれ委員長! 今回の皆様のためにぃ~は、一門に伝わるとっておきの小噺で、ちょうどタイトルも『学園都市ヴァラノワ――」

「やめないか!」

「オォン!」


 バシィと胸のあたりを何かの紙束で叩かれる。

 そのまま押しつけられるように渡された紙面をのぞき込んでみれば、そこには何かチャートらしきものが書かれていた。


「い、委員長……! これは!?」


 一枚一枚をめくりながら、ルーキは驚きの声で問いかける。


「今回のRTAのチャートです。大雑把な作りですが、まあないよりはマシでしょう」

「えっ……これを俺のために!? す、すげえ……今後のスケジュールまで! マジかよっ……! ありがとう委員長、ホントにありがとう!」

「そ、そうですか。そ、そこまで喜んでもらえるなら、こちらとしても嬉しいです」


 委員長は少し照れたようにシャギーカットの毛先をいじりながら、手近な椅子に腰掛けた。


「この空き教室なら他の生徒はまず来ませんし、ひとまずはここを拠点として作戦会議をしていきましょう。チャートは完璧ではありません。その都度修正が必要です」

「委員長……。すまねえ、何から何まで世話をかけて……。だけど、ありがたく助けてもらうよ」


 ルーキは申し訳なくなって頭を下げる。するとリズは薄く微笑み、


「何を言ってるんですかルーキ君。走者たるもの、利用できるものは何でも利用しなければ。それに、こういう変則的なRTAはわたしも初めてです。いい勉強になりますよ」


 この向上心。前回の〈ランペイジ〉を〈ファフニール〉縛りのまま突破し、それに満足することなくさらにその上へと駆けていく姿勢に、ルーキは強い憧憬と共に、さっきまでの浮かれていた自分への怒りも抱くことになった。


 RTA心得一つ。始めに走りありき。

 走者は語る者ではない。走る者だ。走り続け、そして語り続ける。語るだけの者になった時、走者は老

いていくのだ。そんなもの、百年先でいい。


「さて、まずはそのチャートについて補足しておきましょうか」


 リズの言葉にうなずき、ルーキは近くの椅子を引き寄せて座った。


「真っ先に注意することは、この学院においてルーキ君は“珍獣状態”だということです」

「……!? ち、ちんの数が適切!」


 思わず叫ぶと、リズは目をぱちくりさせた後、頬を少し赤らめて視線をそらした。


「ルーキ君……。ここはハイソなお嬢様たちが通う学校です。そういう品のない話は、わたしと二人きりの時だけにしてくださいね?」

「えっ……!? ちっ、違う! こうしないともっとひどいことになるって、プリム姉貴が……」

「言い訳はいいです。わたしはセクハラもちゃんと聞いてあげると言ってるんですから、それでいいじゃないですか」

「違うんだ、ホントに違うんです!」


 叫ぶルーキを「じゃあ話を進めますね」とあっさり流し、リズは漠然と教室を――というか校舎自体を見回した。


「今この学院は、ルーキ君に関する根も葉も芽も土もない噂が成長しまくって、手が付けられない状態にあります。成長したというのは、生徒たちが自分たちが好む話を好き勝手に付け足しまくったという意味です。好まれない部分や面白くない部分は勝手に淘汰されていきますからね。つまり、彼女たちの中で、ルーキ君はある種、理想の王子様に限りなく近い状態と考えられます」

「王子様ぁ……?」


 安っぽい王冠までしか想像できず、ルーキはかぶりを振って王子様な自画像を霧散させた。


「――なので、彼女たちの心の琴線に少しでも触れる行動を取ってしまうと、そこから王子様像が勝手に完成してしまう可能性があるのです。ちなみに、さっきの騒ぎは何が発端で?」

「ああ、あれは俺が授業で開拓地の話をしたら……って、そうだ。聞いてくれよ委員長。すげえよこの学校!」


 ルーキは話を切って身を乗り出していた。


「一限目が、『開拓群基礎』って授業だったんだけど、〈アーマードフロンティア〉の技術とか〈超ヤサイ諸島〉の植物が出てくるんだよ」

「それが何か? ルーキ君にとっては今さらな情報では?」

「それだけならな! でもさ、それの街での活用法とか、原理とか、そういう細かいところまで研究されてんだよ。それってつまりさ、俺たちがRTAで守った開拓地の特産品が、街でこういうふうに活かされてるって話だろ? 俺、今までタイムを縮めることしか考えてなかったけど、でもRTAって、本来こういうことのためにやってるんだよな? 俺もその一員なんだ。それを今日、初めて実感できたぜ……」


 ルーキがしみじみと感動していると、リズは「へえ……」と感心したように微笑み、


「謙虚な受け止め方ですね。まあ、何かを学ぶことができたのなら上々です。ここはルタでも有数の学び舎ですからね。吸収できることは吸収しておいた方がいいでしょう。それに……」


 微笑にわずかな妖気を含ませると、きっちりと膝を揃えて座っていた姿勢を崩し、ゆっくりと黒タイツに包まれた足を組む。


「せっかく学生に戻ったんですから、以前はできなかったことを色々試してみるのも……いいかもしれませんね……?」

「な、何の話ィ!?」


 狼狽えるルーキに、リズは妖しく笑った。


「フフ……まあいいでしょう。それで話を戻しますけど、今回のRTAもどき、ゴール地点はわかってますね?」

「お、おう。エルカお嬢さんと婚約予定の男より良い成績を出せばいいんだろ?」


 ルーキは気を取り直して答えた。リズはうなずき、


「これには期限らしい期限がありません。結果が出せなければ出せないだけ、だらだら日数が伸びることになります。しかし、下手をしたら、彼女の御爺さん――グスタフ・アトランディアがお相手の男性を認めてしまうかもしれません。そうなれば敗北です。再走もありません。わかりますね?」

「ああ」


 なるべく早くに圧倒的大差で勝利し、その事実を周知させること。それ以外のことには執着する必要はない。


「聞きますけど、『開拓群基礎』以外の授業はどうでした?」

「さっぱりちゃんだった」

「でしょうね。わたしでも難しかったですから。そこのところはこれから底上げしていかなければいけません。そのために必要なのは何よりも勉強時間です」


 きっちりとこれ以上ないほどの委員長的発言に、ルーキは顔を歪めた。


「勉強……かぁ」

「わたしも付き合いますから、一緒にやりましょう」

「う、うん……はい……」


 渋々言うルーキにリズは微笑みかけ、


「しかし、まずはその学習時間の確保が第一の関門となります」

「え? 確保? 別に放課後とかにやればいいんじゃないのか?」

「さっきも言いましたが、今のルーキ君は存在するだけで色んな生徒たちに気にされる立場です。もしうっかり彼女たちの興味の対象になってしまったら、それだけ時間を奪われてしまうと思っていいでしょう。それは何としても避けなければ」


 そう言って、リズはルーキが持つチャート表を裏側からぺらぺらとめくった。ページの並びも、書いてあることも、すでに頭に叩き込んであるのだろう。ぴたりと手を止めたページには、特定の生徒の情報らしきものがずらりと書き連ねてあった。


「こ、これは……!?」


 リズの声にわずかに熱がこもる。


「いいですかルーキ君。生徒たちにはみな、男性の気になるポイントというのがあります。大まかに分類して、文系、理系、開拓系、体力、性格、流行、容姿、ガッツ、デリカシー、そして走力! まず、これらの評価が彼女たちの要求値を満たさないよう――すなわちトゥンク値を上げないよう、日常生活を慎重に立ち回ってもらいます!」

「な、なんとぉー!?」


 しかし、のけぞった後で、すぐにルーキはこの計画の問題点に気づく。


「ま、待ってくれ委員長! この要素って、高い方が女子に気にされるわけだよな? 俺はエルカお嬢さんの婚約者候補を打ち負かさないといけないんだけど、そこは!?」


「問題ありません」とリズは動じないまま眼鏡のフレームを指で押し上げた。


「彼女たちが最初に興味を持つには、評価点の他に“場”と“タイミング”が重要です。場は、シンプルに彼女たちの行動範囲。ここに近づかなければ出会いそのものがありません。そしてタイミングに関しては、ルーキ君の珍獣補正の有効期限です」


「期限?」


「ええ。最初は物珍しくとも、そのまま何事もなければ人の興味は薄れていくものです。そうして一旦評価が落ち着いた後にどんなアッピルをしようと、再び関心を引くことは難しい。つまり、フレッシュな時期をルーキ君がクーキとなって乗り切ってしまえば、よほどのビッグイベントでも起こさない限り、彼女たちのトゥンク値が満たされることはないというわけですね」

「学校生活にはそんな秘密が隠されていたのか! とするとこのチャート、何て冷静かつ的確な方針なのだ……! いける。これさえあれば、最速完走できるぞ!」


 ルーキが感嘆の叫びを上げ、リズが満足げにうなずいた時だった。


「さすがっす……と言いたいところっすが、アマイゾーいいんちょ!」

「なに!?」


 どこからともなく不敵な声が響き渡り、リズに目を剥かせる。

 教室の奥で薄闇がべろりとめくれ、暗色の布を小脇に抱えたサクラが登場した。


「か、隠れ身の術!? おまえマジいつもいきなりだな!」

「ここはサクラの庭っすよ? いつでも見られてるという覚悟を持ってほしいすね。ルーキセンパイ?」

「うっ!」


 得意げにルーキに言い返すと、サクラは至って真面目な眼差しに切り替え、その場の二人に向け直した。


「いいんちょさんのチャート、基本は十分押さえてるんすけど、ある重要な要素が欠けているっす。これを無視すると大きな落とし穴にはまることになる。それは――エルカお嬢様についてっす」

「何? ま、待てよサクラ。エルカお嬢さんなら、さっき確か要注意リストにちゃんと……ほら、あったぞ」


 ルーキはサクラにそのページを示そうとして、その出会いのための要求値にぎょっとした。


 文系:80(MAX100)

 理系:80

 開拓系:80

 体力:80

 性格:80

 流行:80

 容姿:80

 ガッツ:80

 デリカシー:80

 走力:80


「な、何だこれ!? 他の人は二、三個しか要求項目がないのに、全部!? しかもどれもめっちゃ高え!」


 恐らく、リストアップされている生徒の中では最高難度。常人には遭遇さえ不可能なUMAだ。

 驚愕するルーキに、リズが腕を組むような姿勢のまま補足する。


「ルーキ君は思い違いをしているようですが、エルカ・アトランディアは学年グレードを代表する生徒の一人ですよ。品行方正、学業優秀、容姿端麗。他の少女たちの憧れの対象と言っていいでしょう」


 そしてその言葉の流れのまま、「この情報に誤りが?」と目線でサクラに問いかける。

 リズの眼鏡のレンズ面に宿った鈍い輝きに動じることなく、サクラは言い切った。


「エルカお嬢さんは、“爆弾”を持ってるんす……!」

『爆弾!?』


「そっす。エルカお嬢さんはかまってちゃんすから、放置しておくと爆発して勝手に妙な噂を流し始めるんす。たとば、ガバ兄さんはしょっちゅう違う女の子を連れ歩いてるとか、釣った魚に餌はあげない放置男だとか」

「な、何だと! 根も葉もないことを! ……ま、まあ、川で釣った魚はすぐ食べるから確かに餌やらねえけど。……放置?」


「…………。ま、今のはあくまでたとえっす。それから、ルーキセンパイに対する女子からの評判が悪くなっても爆発するっすね。センパイの評価は、お嬢様の評判とほぼ直結するっすから。そうなった場合、チャートに不確定要素が紛れ込むならまだ温情。最悪、強制的に退学させられるかもしれないっすね」

「えぇ……」


「そういう意味では、まず出会いもしないといういいんちょさんのチャートは正解っす。話す機会もなければ、評判が落ちたり、そのフォローに奔走させられるってこともないわけっすから」


 一体誰のためにここにいると思っているのか、と口から出かかる言葉を、でもエルカお嬢さんだしなあ、の一言が塗り替えていく。

 ワガママはいつものことだ。


 つまり、エルカを適度にかまい、自身の評判にも気をつける。それに加え、苦手な勉強をしつつ、他の生徒たちからの強い関心を買わず、最終的にエリート男子に勝つ――。

 全部やらなきゃいけないってのが走者のつらいところだ。


 しかし!


「俺だってあの危険な〈ランペイジ〉を完走した男だ。普段命がけでやってることに比べれば、こんな学校生活なんてどうってことない。やってやるさ!」


 自らの弱気を蹴散らす言葉と共に、ルーキは拳を握って見せた。

 リズとサクラが安堵の表情でうなずきかけた、その時。


「あっ、ルーキさんがいたわ! みんなー」


 教室の扉のむこうから明るい声が響いた。

 振り向いてみれば、そこには大勢のお嬢様方の姿。


「ルーキさん。早くさっきの続きを聞かせてくださいな」

「約束通り、放課後はわたしたちのクラブに完走した感想を話しに来てくださいね」

「あのう、よければ開拓地の素材のことでお聞きしたいことがあるのですけれど。明日の放課後のご予定などいかがでしょうか――」


 戸口のところでわいわい賑わう少女たちの中から、シスターの格好をした人物一人が歩み出て朗らかに微笑んだ。


「ルーキさん。さっきお話した通り、食堂まで案内しますわ。さ、こちらへ」


 一際親し気で優しげなオーラを放つミサリだ。その後ろでは、ジェニルファーとロレッタ、あるいは他のクラスメイトたちも「わたしも行くー」と口々に言い合っている。


 ――委員長チャートの方針その一、他の生徒たちから強い関心を買わず。


 他 の 生 徒 た ち か ら 強 い 関 心 を 買 わ ず 。


 ぎぎぎぎ……とルーキは、サポート仲間二人に向き直った。


 リズとサクラはニコッと微笑んだ。

 ルーキもニコッと微笑んだ。


 次の瞬間、恐ろしい冷風が彼の顔に吹きかかった。


「今日からルーキ君の生活は我々が管理しますから――」

「――楽しみにしててくださいっす」


 あまりのプレッシャーに意識が遠ざかる中、二人の目だけが、次第に濃くなっていく闇の中でいつまでも光っていた。

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