第106話 ガバ勢と旅する精霊人

「ロコ。今日もお疲れ様。今回は良いデータが取れたわね。明日からが楽しみだわ」

「はい、所長。明日もよろしくお願いします」


 ルタの街。竹林に囲まれたRTA研究所の廊下にて、元軍医とも脱走兵とも言われる銀髪の女性と一日の労をねぎらった後で、ロコは自室へと真っ直ぐに戻った。


 扉を開けて、すぐ。

 それが胸の中にすっと入り込んできたのがわかった。


「……っっ!」


 頭の中に突如浮かび上がった無数の情景と言葉たちに溺れかけ、立ち眩みにも似た状態で壁に手をつく。

 すぐ背後で扉が勝手に閉まった音を遠くに聞きながら、思わず押さえた目から、涙が一滴落ちていくのを止められない。


「そうか……〈ランペイジ〉は終わったんだね。おかえり、サマヨエル」


 竹林の隙間からもれる月明りだけが頼りの薄暗い部屋で、彼は小さくつぶやいて胸のあたりをさすった。


 楽しかった。

 寂しかった。

 でも、またすぐ会えるから、安心。


 たくさんの感情が、たくさんの顔と共に浮かんで、ロコの意識に染み込んで根づいていく。さっきまでここで働いていただけの自分を刷新し、新たな形を作り上げた。


「気分はどうですか。サマヨエル?」


 ロコははっとなって声のした方へと目をやる。

 作業机の横の隙間に押し込めたベッドの上で、星粒のような光がまたたいていた。


「サファイアス様。僕はロコですよ」


 彼は微笑の中で答えた。するとサファイアスの声も微笑み、


「そうでしたねロコ。今回が、あなたが外の世界に出て初めての〈ランペイジ〉。どこもおかしなところはありませんか?」


 優しい声音で聞いてくる、神にも等しい相手に、ロコはうなずいた。


「はい。ちょっと驚いたけど、何ともありません」

「それはよかった。サマヨエルにアレンガルドの外を旅する体を与えたのは、あなたが初めてでしたから。他に何か困ったことは?」

「何も。病気やケガもちゃんとしますし、治ります。他の人と比べて大きく違うところもないです。サファイアス様には本当に感謝してます」


 自分の正体は、サマヨエルだ。

 もっと言うと、彼と一緒に旅をした“あの”サマヨエルだ。


「感謝には及びませんロコ。あなたたちの頼みを聞くのもわたしの役目です。けれど、あなたには驚かされました。まさか、RTAのためにやってくる走者たちに憧れて、外の世界に行きたいと言い出すなんて」


 ロコは微苦笑を刻んだ。


 すべてのサマヨエルは、精霊サファイアスの元で、まるで地面から植物が芽生えるようにして自我を発生させる。

 誰もが生まれた土地とサファイアスを愛し、そこに定着して過ごす。

 姿かたちはほぼ同じ。性格も好き嫌いもほぼ同じ。ただ、自分だけは少し違っていた。


 案内しているだけでは物足りなくなった。もっと知りたくなってしまった。色々なことを。


「外の世界は楽しいです。毎日、新鮮なことばかりですよ」

「そういうところも、他のサマヨエルたちにはないところでしたね。あなたは」


 あの精霊人の体も、この人間の体も、どちらも精霊サファイアスによって造られた仮初の肉体だ。

 そこに、サマヨエルという核が宿って、一人のヒトとして成立している。


 ロコの中にいる時、サマヨエルは完全に眠っている。そして、その間の記憶や感情は、ロコである体の部分が預かっている。だから、〈ランペイジ〉の時期になって“彼女”がこの体から抜け出す場合、ロコであった時のことは何一つ覚えていない。


(それが、彼女の泡沫うたかたの夢……)


 ただし、その間もロコの体は活動を続ける。それはロコが社会的立場を維持できるようサファイアスが取り計らってくれたからであり、同時に、サマヨエルが抜けている間、この体が無防備にならないよう自分で面倒を見るためでもあった。


 サマヨエルが不在の時、ロコである自分がニセモノかと言えば、それは違う。

 ロコである部分はすべてここに揃っている。あくまで主な動力源が抜け、予備動力で動いているような状態。はたから見れば何も変わらない。


 そして彼女が戻ってきた時、ロコとサマヨエルは一つになり、経験と感情のすべてが人間の体に還元される。しかし……。


(少し、不公平かな)


 自分のことながら、そう思う。


 ロコになりたい。


 彼女はそう叫んでいた。自分がロコだとも知らずに。


 自分が特別な存在ではなく、その他大勢の一部であることを思い悩んでいたのは確かだ。でも、その感情の奥の奥には、また別の感情もしっかりとあった。


(まさか、自分で自分に嫉妬するなんてね……)


 少し苦笑する。

 それは、ロコとサマヨエルが一つに戻った今からすれば奇妙な感情でしかなかった。


 けれどサマヨエルがそれを理解することはない。再び彼女が目覚める時、ロコであることは何一つ覚えていないのだから。


 もっとも、覚えていないだけで今この瞬間も夢としてしっかり知覚はしている。むしろこうして考え、手足を動かすことさえも彼女じぶんの意志なのだから、さほど可哀想だと感じることもないのだが……。


(それにしても……)


 ロコは新鮮な、そして懐かしい旅の記憶を瞬時に振り返る。

 すでに自分の良き思い出となったそれらに、強い感慨はない。


 旅の中で、サマヨエルはいつも見ている。

 いつも、同じ人を。


(やっぱりあの人なんだなあ……)


 思わずにやける顔を戻すに戻せず、ロコは微熱を帯びた頬を手で覆った。


 そしてあの人は、いつまでたってもサマヨエルとロコを間違える。

 それは、もしかすると……。


「あら……楽しそうですね? ロコ」

「はい……。そう言ったじゃないですか。確か、ロングダリーナの洞窟の前で」

「そうでしたね。突然質問してしまったので、サマヨエルは少し驚いていたようですが」


 サファイアスの声は朗らかだった。


「サファイアス様が、彼女をあのパーティに入れてくれたんですか?」


 ロコはたずねる。


「偶然と言ったら、運命を感じますか?」

「……。そこそこ」


 返事は、くすくすと笑う声だった。


「どうなのでしょうね。そうだったかもしれません。あるいは、あなたの中のサマヨエルが、わたしにそうさせたのかも」


 サマヨエルたちはサファイアスのことを威厳と慈しみに満ちた女神のような存在だと思っているが、実は案外おちゃめであることをロコは知っていた。

 だからこそ、アレンガルドの外に行くなどという酔狂も許してもらえたのだ。

 ただし、案内人の義務は果たすことを条件に。


「まだ、帰る気はありませんか?」


 サファイアスが問いかけてくる。


 走者たちに憧れ、走者になろうとして、外の世界に飛び出した。

 今の両親は、アレンガルドからの帰郷者たちだ。事情を知って親代わりになってくれている。彼らと過ごした時間は、一分一秒たりとも偽りのない事実。工房で教わったことだって、それ相応の時間と努力を費やしたもの。


 しかし結局、当初の目的は果たせなかった。


 精霊サファイアスから力を借りて案内人をやるのと、人間として個人の力でRTAを走るのでは全然違った。ガバ勢だって、あの彼だって、こっちから見れば十分に超人だ。


 けれども。


「まだ、帰りたくありません」


 ロコは胸を張るようにして答えた。

 これはわがままだ。走者になれなかったのだから、潔くアレンガルドに戻れと言われれば、返す言葉はない。――いや、なかった。もし、彼に会えなければ。


「やりたいことが、あるんです」


 外の世界の見物でも、異文化の鑑賞でもない。

 もっとしっかりと。それこそ、人生をかけるくらいの覚悟でやりたい――やり続けたいことがある。たとえどれだけ糾弾されても、真っ直ぐに言い返せるものが、今はある。


「そうですか」


 ただただ愛情に満ちたサファイアスの声は、それ以上、何も聞いてはこなかった。

 次第に光が小さくなっていく。


「では、精一杯生きてみなさい。あなたのやりたいように。もし困ったことがあったら、いつでも相談に乗ります。……ただし……好きな人のことは自分で何とかするように。それでは、また」

「はい。さようならサファイアス様」


 ロコの声を最後まで聞き遂げると、光は部屋の薄闇に溶けていった。


 ※


 数日後、ルーキがやってきた。

〈ロングダリーナ〉の過酷な走りを耐え抜いたグラップルクローの修理のために。


 ロコは何食わぬ顔で、彼が語る完走した感想を聞く。

 サマヨエルの寝顔が、幸せそうに微笑むのを確かに感じながら……。


 

 デレデレデェェ(キャンセル)



「あのさあルーキ……」

「えっ、何?」

「何でその、サマヨエルって子のことばっか話すの?」


 ロコは腹の底からムカムカしていた。同じ場所で、サマヨエルがニヤニヤしている気がしてならなかった。


「えっ、そ、そうかな。いや、サマヨエルとロコがマジそっくりだったからさ。それに、サマヨエルとはRTA中ずっと一緒だったし、自然と話も……」


 ルーキは困ったように頭を掻く。確かに、彼の言うことは事実だ。戦闘以外ではことあるごとにサマヨエルが出張ってきたことも知っている。自分のことだし。しかし、しかしだ。


「それより、僕に何か言いたいことあるんじゃないの?」

「ロコに?」


 きょとんとした顔にさらにムッとする。

 どうしてそういう反応をするのか。あの日、あの晩、サマヨエルにはああ言ったじゃないか。


「ほら、あれだよ。グラップルクローをそのサマヨエルって人が使った時のこと。そこで、このツールの秘密について何か気づいたんじゃないの?」

「あっ、そうそう、そうだった! ……っつうか、何でそのこと知ってんだ?」

「……そ、それは、さっき言いかけてやめたからだよ。そういうミス、僕はいけないと思うなあ。これがお店とかでの完走した感想だったら、他のお客さんはきっと不満に思うだろうなあー」


 ルーキは「うっ」とうめき、反省した様子で首をすくめた。ロコは少し罪悪感を抱いたものの(いや、やっぱりルーキが悪い)とすぐに開き直った。


「確かに、ロコには言っとかないといけないことあったんだよな。このグラップルクローがすげえ使いやすい理由。今まで、俺自身がたくさん練習したからだと思ってたけど、そうじゃなかったんだ」

「うんうん」


 ロコはワクテカしながら続きを待った。


「あの夜、サマヨエルがグラップルクローを使った時、すごく使いにくいって言いだしてさ。それで、うっかり操作を誤って、ケガしそうになったところを――」


 そこで言葉が途切れた。


 不思議に思って、ロコはルーキの顔をまじまじと見た。いつの間にか少しうつむき気味になっていた彼の顔は、少し赤くなっていた。


「…………?」


 何を照れているのかと考え、その時の記憶をたどったロコは、すぐに答えに行き着いた。

 あの時、サマヨエルが下敷きになったルーキに迫ったのだ。


 しかも、ルーキはほとんど抵抗しなかった。ていうか、ちょっとその気になってた。

 それを思い出しているのだ!


「…………帰って」

「へ?」

「グラップルクローの整備終わったから、もう帰って」


 地を這う声に、ルーキは戸惑ったようだった。


「どうしたんだよいきなり。まだ続きが……」

「いいから、帰れーっ!」


 ロコはグラップルクローを押し付けると、ルーキを部屋の外に押し出した。

 その足音が、ためらいがちに遠ざかっていくのを扉越しに聞き届けてから、ロコはベッドに倒れ込んだ。


「ああっ、もう、何で僕がサマヨエルに嫉妬しないといけないんだよ!」


 枕にバシバシ八つ当たりしてから、窓の外を見やる。竹林の外へと通じる長い長い一本道には、もう誰の姿もない。


「ルーキもなに素直にさっさと帰ってんの!? もうちょっと、立ち止まるとか振り返るとかしててよ! しろ!」


 我ながら悪質な八つ当たりとわかっていたが、そう言わずにはいられなかった。

 大きくため息をつく。


「ルーキ、ホントに帰っちゃった……。せっかく来てくれたのに。ああ……もう……ルーキが悪いのに、どうして僕がこんなに自己嫌悪しないといけないのさ……」


 わかっていたはずだ。彼が器用な人間ではないと。

 上手くやれずに、泥にまみれる側だと。

 しかし、だからこそ、彼に救われた。


 ルーキは、イヤな奴を全部ぶっ飛ばしてスカッとさせてくれる力もなければ、何かすごいアドバイスをくれて、こっちを成功させてくれたりもしない。そんなことができるなら、まず彼が自分自身のために使っている。


 彼がしてくれるのは、ささやかなことだ。


 悩んで、道の途中で立ち止まっている時に、少しだけ背中を押してくれる。そういう言葉を、かけてくれる。

 それは別に、あっと驚くような意外な道でもなければ、唯一無二の正解への道でもない。その人が進むのを躊躇していた、ただそれだけの道。


 今までと同じ道かもしれないし、違う道かもしれない。

 そこに進んでいいと、言ってくれる。


 その時の彼の言葉は、ちょっと身勝手で、ちょっと自分勝手だ。

 けれどそれでいい。だって、彼の言葉は、他人を感化させるためのものじゃないから。


 人が、自分自身にかける言葉だから。


 彼も、誰かと同じ悩みの中で答えを探してもがいている。

 だから他人事じゃない。自分の言葉を伝えてくれる。一番ほしい言葉を。今この瞬間の悩みの中から生み出された、前を向くための言葉を。


 そういうところは、本当に、すごく××なのだが。


「だけどさあ……!」


 どうしても許せないところは許せず、ロコは窓から叫んでいた。


「ルーキの、バカヤロー!」

「わあっ、ご、ごめん!!」

「!?」


 ぎょっとして背後を振り返った。今、扉のむこうから彼の声がしたような……。


「あの、開けてくれるか? ロコ」

「ルーキ!?」


 本当に彼だ。ずっとそこにいたのか? いや、確かに遠ざかる足音を聞いたはず。


(帰ってきた?)


 思わず扉に駆け寄り、すぐにドアノブを回そうとした手を、反発する意志が止める。


 ここで嬉々として開けたら、何だか無性に負けた気がしてならない。何に負けるのかは、全然わからないが。ついでに言えば、ここでまた彼を追い返してしまうことの方が真の負けのような気がしてならないのだが。


 数秒のためらいを怒りの表れと受け取ったのか、扉の奥から神妙な声がした。


「悪い。ちゃんとグラップルクローのお礼言えなくて……。ホントごめん。機嫌直してくれよ。お詫びにシナモンロール買ってきたからさ……」

「は……!?」


 ロコは驚きのあまり扉を開けていた。そこには、いきなり開いた扉にびっくりするルーキの顔と、その胸に抱えられた小さな紙袋があった。


「な、何でルーキが僕の好きなもの知ってるの……!?」

「え? 訓練学校の初日に言ってただろ。みんなで自己紹介した時に」

「し、したけど! 何年も前のことだよ!? それにあの時は、みんなどんどん勝手に自己紹介してて、僕の話なんて誰も……」

「たしかにみんな好き放題話してうるさかったけどさ。俺には何か聞こえてたから……」

「……っっっ!!」

「ほら、これ。……であってんだよな?」


 差し出された紙袋には、街の人気店のロゴが入っている。

 アレンガルドから初めて人間の街に来て、最初に食べたお菓子。メーカーまで、あの時話したものと完全に一致。


 あんな些細な、ある意味どうでもいいことを。あの日以来、一度だって話題にしなかったことを、ずっとずっと覚えていて、今、こんなタイミングで持ってくるなんて。そうして、ごめんって謝るなんて。


「もうっ……。もおおお~っ……」


 ロコは受け取った紙袋で火照った顔を隠し、その場でじたばたと地団駄を踏んだ。そうしなければ、精霊サファイアスからもらった大切なこの体の大事な何かが、熱で壊れてしまいそうだった。


「ロコ?」


 怪訝そうに聞いてくるルーキの背後に回り、背中を部屋に押し込む。


「許すよぉ……。こんなことされたら、もう何でも許すしかないじゃないか……」

「そ、そうか……。よかった……」

「ほら座って座って。ルーキも食べなよ、このシナモンロール。おいしいよ」

「いや、それが一個しか買えなくて……」

「いいんだよ半分こすればさ。大丈夫、これ結構大きいから――」


 サマヨエルが、胸の中でにこにこと笑っている。

 ロコも笑い返す。


 やっぱり、僕たちには、この人だよねと。



 デレデレデェェェェェェェェェェェェン。


(尺がないので中略)


           AND YOU!!


 

 ドゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン。




           THE END

           ― 完 走 ―

 

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