第15話 ガバ勢ともう一つの顛末

 ルート0とルタの街の間を繋ぐ平原が、ルーキの視界をもう一時間以上も占拠していた。

 吹きさらしのオープンデッキの手すりに、ルーキは気がつけばこみ上げてくるため息を、もう何度も落としている。


〈悪夢城〉は攻略され、ルート0のレスキューも完了したとして、一門は帰路についていた。


 ルーキの初めてのRTAは、無事完走という悪くない結果を得た。いや、貴重な本走の経験を積んだという意味では、大成功とも言える。

 しかし。


「無理だろ、あれは……」


 洗濯物のように手すりに垂れ下がり、ため息の中に、今の瞬間まで背中に引きずり続ける本音を混ぜる。


〈悪夢城〉を攻略したオニガミは、「少しガバってしまったが、まあこんなものだろう」と朗らかに笑っていた。


 冗談じゃない。どこにガバる要素があったというのか。

 サグルマは、「ガチ勢は俺らが一回ガバっている間に十回はガバれるもんだ」と言っていたが、つまり彼らのガバというのは本当に一瞬でしかないのだろう。


 そんな怪物を相手に、せめて移動だけは食いついてやろうと意気込んでいたあの時の自分は、笑えるほどに身の程知らずでしかなかった。


 あれが、ガチ勢の走り。走者としての高みだ。

 その壁は圧倒的なほど高く広く、どこかに隠し扉でもない限りは、とても超えて行けそうにはなかった。それこそ、オニガミやスタールッカーのように壁をすり抜けられでもしない限り。


「絶対無理……」


 助けを求めるようにグラップルクローを掴み、ため息をついた時だった。


「弱気ですか。ルーキ君」


 背後からかけられた声に振り向けば、そこには、行きの列車で出会ったかつての同級生、リズ・ティーゲルセイバーの姿があった。


「委員長!」

「だから、もう委員長じゃないです」


 仕方なさそうに微笑む少女にルーキが目を見開いたのは、単に帰りの列車も同じになった偶然からではない。


「どうしたんだ、そのケガ!?」


 思わず駆け寄って、少女の頭に巻かれている包帯を見つめる。咄嗟に手足にも目を走らせるが、そちらに負傷は見当たらない。


「大したことはありません。傷自体はもうほぼ治ってますから」


 笑って返したリズの声に確かな陰りを聞き取り、ルーキはさらに言葉を失った。

 彼女は確か、あのスタールッカーとルート1・47・50という難所の試走に出ていたはずだ。


「そっちの試走、そんなに大変だったのか……?」


 恐る恐るたずねると、


「試走は中止になりました。駅に着いてすぐ、開拓地の侵略が始まってしまって」

「な……!?」


 開拓地の侵略は不定期だ。それでも、試走がそのタイミングとかち合ってしまうとは、よっぽどの不運としか言いようがない。


「まさか、そのまま本走に参加したのか?」

「いえ、スタールッカーだけがすぐにRTAを開始し、わたしたちは駅に残されました」


 コミュニケーション不能なスタールッカーの眼差しを思い出す。人を見る時のあの無頓着さなら、委員長たちをほっぽっても不思議はない。


「仕方ありません。わたしたちはまだ、足手まといでしかありませんから。ちょうど列車が出てすぐのことだったので、わたしたちはひとまず最初の町に向かって、そこで彼女を待つことにしたんです」


 賢明な判断だと思った。そのまま帰るわけにもいかないし、独自にRTAをするのも危険。開拓地によっては序盤が最難関になることもある。


「ですが、そううまくはいかなかった」

「え?」

「列車を降りた直後から森が広がっていて、町がどこにも見当たらなかったんです」


 駅と町が隣接していないことは、開拓地に限れば珍しいことではない。

 開拓町は一種の防波堤でもあるからだ。町と駅が離れていれば、襲撃者たちは町で人間の世界が終わっていると思って、駅まで攻撃してこないことが多い。


「地図は持ってたんだろ?」


 聞くと、リズは首を横に振りながら答えた。


「森の中に町があることだけしかわからない、大雑把なものでした」

「そうか……。でも委員長たち三人なら何とかなったよな」


 訓練学校ナンバーワンのリズに加え、トップクラスの二人――ザニーとルドウがいたのだ。いくら難しいルートとは言え、最初の町までなら難なくたどり着けるはず――。


「あの二人なら逃げましたよ」

「……は……?」


 リズの一言が完全に理解の上を滑り抜け、ルーキは素っ頓狂な声を上げていた。


「森で迷子になって三日目に、荷物と一緒に消えました」

「え? ちょ、ちょっと待ってくれ。なに? え? 逃げたって? あの二人が?」


 うろたえるルーキを尻目に、リズはデッキの手すりに肘をついて、流れる風景へと視線を投じた。


「最初のうちは、彼らにも問題はなかったんです。いえ、むしろ、自分たちだけで難しい開拓地を歩けることを喜んでいた節すらありました」


 ルーキは相槌を打つようにうなずいた。子供っぽいとは思われるだろうが、危険な場所を誰の指図もなしに歩くことには、ある種の冒険心が掻き立てられる。


「けれど二日目に、ルドウ君が敵から“かりう”を受けてから様子がおかしくなりました」

「かりう……!!」


 かりうは、スタールッカーが唯一イヤがる謎の物質だ。ルート1・47・50由来のものだったのか。


「かりうって何だったんだ?」

「何らかの肉体的異常を引き起こすものだったようです。ルドウ君の話によると、全身が極度にだるくなり、戦闘はおろか歩くことさえ困難ということでした」

「……それから、どうなった……?」


 先を促すと、リズは静かな声で続けた。


「ルドウ君が戦闘不能になったことで、戦いの負荷は一気に増しました。あの開拓地の敵は本当に強かったんです。それから一日森をさ迷い歩いても町は見つからず、わたしとザニー君は交替で見張りをしながら野営をしました」


 嘆息を一つはさむ。


「しかし朝、目が覚めると、二人の姿が消えていたんです。わたしの分の食料と道具類も一緒に」

「……!」


 身じろぎするルーキとは対照的に、リズの声は他人事のように淡々としている。


「思えば、前の日からザニー君の様子は変でした。ことあるごとに戦えないルドウ君を罵ったり、町が見つからないことに苛立ったり。恐らくですが、夜中に姿を消したのはザニー君で、ルドウ君は彼を追いかけていったのだと思います。ルドウ君はザニー君を慕っていましたから」

「委員長を置き去りにしてか……?」


 リズはうなずいた。

 信じられない話だった。いくら性格の悪いあの二人でも、荷物まで奪って姿を消すなんて。


「熟睡していたわたしが無事起きられたのは、ただ運がよかったからです。それから一日森を歩き、どうにか町を見つけられたのも、やはり幸運の賜物でしょう」


 リズは頭の包帯に手をやり、「そしてこれは、安堵のあまりぶっ倒れた時にできた傷ですね」と、苦笑いした。そこだけは笑い話で済む内容に、ルーキの頬も少し緩む。


「二人はどうなった? 合流できたのか?」

「……わたしが町で目を覚ました時には、すでにRTAを終えたスタールッカーがそばに立っていました」


 リズは再び話を戻す。

 目覚めた直後に、雑草でも見るような目でこっちの顔をのぞき込んでくるスタールッカーがいたら、どんな眠気も月の裏までぶっ飛ぶことだろう。


「二人で駅に戻りましたが、彼ららしき二人組が、ルタの街とは逆方向の列車に乗るのを見たという人がいました。本人たちかどうかはわかりません。まあ、元々プライドの高い二人ではありましたから、こんなことになって、とても街には戻れないと考えたのかもしれませんね」

(あれ……?)


 そこまで聞いて、ルーキはふと、リズの口調の変化に気づく。

 これまで淡々としていた声にようやく感情が垣間見えた。しかしそれは、


「ひょっとして委員長、怒ってる……?」


 ためらいがちにたずねると、リズはきょとんとした顔からブーッと吹き出し、今度は逆に笑いだした。


「当たり前でしょう。まったくあなたという人は、わたしを聖女か何かだと勘違いしていませんか。チャートの都合ならいざ知らず、寝ている間に荷物を取られて森の中に置き去りにされたんです。あの二人の今後が心配だ、なんて言うわけないでしょう。普通に二度と会いたくないですよ?」

「お、おう。そりゃそうだよな……」


 どうやら、怒りをこらえるために、あえて素っ気ない話し方をしていたようだ。


 もしルーキが同じことをされたら、同情の余地なく怒り狂っただろう。ただ、訓練学校時代、叱りはすれども怒気を見せることは滅多になかったリズの反応が、普通というか、ごく身近なものだったことが新鮮に見えただけだ。


「……何でそんなことしやがったんだろうなあ、あいつら」


 ルーキがため息をつくと、リズは視線を外に戻し、言った。


「きっと、ガバに動揺したんだと思います」

「動揺?」


 マッカの町長が言っていたことを思い出す。

 ガバった時、人はもっとも弱くなる。


「あの二人は訓練時代からガバったことがないので有名でした。しかし今回、スタールッカーがいなくなり、町は見つからず、仲間は戦えない状態に陥った……その不測の事態に、判断力を完全に失ったのでしょう」


 手すりの上に置いた腕に頬を載せ、リズはこちらをじっと見た。


「あなたなら、わたしを置き去りになんてしなかった」


 これほどまで信頼されているのも変な気分だったが、それより熱のこもった眼差しと声に一番戸惑いを覚えつつ、ルーキはあたふたと応じる。


「そ、そりゃあな。仲間を見捨てるなんてありえないさ。ガバなんていつものことだし、今回だってもう最初から最後までガバガバだったくらいだし……」


「それでも、こうして一門のみなと完走して帰ってきました。そこが、彼らとの大きな違いです」


 ルーキとは対照的に、リズの声は直線だった。


「あの二人は、訓練時代にもっとガバっておくべきだったんです」


 切り出されたリズの言葉に、ルーキは目をぱちくりさせた。そんな彼に柔らかく笑い、委員長は続ける。


「学校では、最初は簡単な課題を出し、徐々に難易度を上げていったでしょう。そうして成功体験を重ねさせる。つまりあれらは全部“あらかじめ用意された成功”なんです」

「ああ。でもそれって、普通のことだろ?」

「普通どころか、極めて合理的な教育方法ですよ。人は成功することでモチベーションを高め、より知識や技術を習得しやすくなるものです。しかしそうなると、今度は失敗させないようにする親心が、教師側に出てきてしまう」


 ルーキはうなずいた。それも普通のこと、のように思える。


「けれどその考え方が、失敗の経験を生徒から遠ざけてしまう。確かに、ガバは厄介です。ガバのダメージの受け方は人によって異なり、立ち直るにも時間がかかります。繰り返せば、やる気も失ってしまうでしょう。管理できないんですよ。ガバというものは」

「失敗なんて誰もしたくないしな。他人の失敗談を聞いて教訓を学ぶくらいが、ちょうどいいんじゃないか?」


 ルーキが言うと、リズは薄く笑って首を横に振った。


「わたしはそんな先の話をしているんじゃないです。ガバから学ぶのではなく、ガバった瞬間自体を学ぶんです」

「へ?」

「ガバった瞬間、自分はどうなるのか。立ちすくんで何もできなくなるのか、誰かに当たり散らすのか、泣き崩れるのか。その自分の反応を直に体験しておくことで、いざ窮地の中でガバった時に、負荷を軽減できる。これはその程度の話です」


 普通なら、わざわざ誰かが与えなくとも、人はどこかでつまずくものだ。


 しかし、彼らはそうはならなかった。

 ザニーとルドウは早熟だったのだろう。訓練学校に入らなくとも、そこそこのRTAができる人物だったに違いない。しかしそれゆえに、安全にガバれる機会を逃してしまった。


 一見して非の打ち所がない彼らの成績は、実は極めて危ういものだったということだ。


 誰もガバから逃れられない。

 失敗しなければいい、なんていうのは理想論どころかただの妄想。


 これはサグルマが言っていた。ガバったことがないヤツは、本気で勝負したことのないヤツだけだ、と。


「けど、さすがは委員長だよな」


 二人の新人走者のつらい結末を吹き散らすように、ルーキはわざと明るい声で話題を切り替える。


「一人になってもパニクらず、ちゃんと町を探し当てたんだからな。委員長だって、ガバの経験なんかなかったろ?」

「は? ……覚えてないんですか?」


 リズの気配が不自然に鋭くなって、続く言葉を飲み込ませた。


「しましたよ。訓練学校時代に、特大のガバを。あなたの目の前で」

「へっ……?」


 目を丸くするルーキに、彼女は静かに切り出す。


「学校で初めて登山RTAをした時のことを覚えてますか? その時、わたしはあなたと同じチームになったんですよ」


 六人パーティで山の中腹を横断する訓練だ。

 メンバーはランダムで選出され、リーダーや保険係といった役割分担もくじ引きで決まる。得意不得意度外視で、それぞれの役どころを理解するという趣旨も含まれていた。


「あの時、リーダー役だった女の子が、違う地図を持ってきてしまう大ガバをやって、大変なことになりました」

「ウッ……」


 自分のことではないのに、その時の少女の心情を思い大ダメージを受けるルーキ。


「すでに半日以上歩いた後で、体力も消費し、じき日も暮れるという状況。リーダーの子はパニックを起こして泣き出し、苛立った他のメンバーは進むべきか戻るべきかで揉めて、今にも殴り合いを始めそうでした」


 騒乱が目に浮かぶようだった。

 せめて実力で選ばれたリーダーなら、仕方ないと納得できることもあっただろうが、くじ引きではそうもいかない。


 リズは自嘲するように苦笑した。


「わたしは争う彼らの剣幕に驚いて、ただ立ち尽くすばかりでした。それまでは、本当に仲の良いチームでしたから。頭が真っ白になったんです。そのとき、あなたが――」


 大きなツリ目がルーキを見据える。


「リーダーの子からマップを取り上げると、びりびりに破いて捨ててしまったんです。間違った地図とはいえ、ここまでの踏破ルートが書き込まれていましたから、帰り道の手がかりにはなります。それを破棄してしまったので、みな血相を変えてルーキ君に詰め寄りました。しかしあなたは平然とこう言った。“RTAは中止だ。山頂を目指そう”と」


 ごう、と列車が短いトンネルをくぐり、話を区切る。

 その際も、リズの目の光はずっとルーキを捉え続けて動かなかった。


「山道を迷ったら、とりあえず山頂を目指せ――。これは、RTAというより登山の鉄則でした。山は当然、頂上に行くほど土地が狭まっていきますから、登山道を見つけられる可能性も高まります。けれど、ガバに動揺していたわたしたちはそのことを完全に忘れていました。あなただけが、普段と変わらなかったんです」


「そ、そんなことあったか?」


 ルーキが頭をかくと、リズはむっとした顔になった。


「本当に覚えてないんですか? あの時、何もできなかった無力感を思い出すと、わたしは今でもベッドの上でバタフライするくらい恥ずかしい気持ちになるんですが」

「暴れすぎだろそれは……」


 彼女はため息をついた。


「結果としてわたしたちは無事下山できました。訓練は失敗扱いになりましたが、それは学校側の評価でしかありません。わたしたちにとって最大の学びは、あなたの行動にこそあった――と、教官に説明したのですが、結局、地図を破ったあなたの減点が一番大きかった」

「よく覚えてないけど、まあ落ちこぼれだったし、多少はね」

「わたしは、死ぬまで忘れません」


 リズは至極真面目な顔で言った。


「訓練学校二年間で学んだ一番大切なことは、あの日、あなたから教わったことです」


 おどけるでもおだてるでもなく断言した口調が、ルーキの胸をむずがゆらせる。


 だから彼女は、不出来な自分にこうまでよくしてくれるのか。

 ルーキにとっては、覚えていないような些細なことだった。

 しかしリズは、彼女自身が優れているからこそ、忘れられない体験になったのだろう。その温度差が少し申し訳なくなる。


「だからルーキ君がレイ一門に行ったと聞いて、本当に良かったと思ったんですよ。あそこでなら、あなたは自分の強みを存分に磨けるでしょうから」


 自分にそんな資質があることは信じられなくとも、委員長が言うならそうなのかもしれない。そこで自分を磨いていけば、いつかは高い頂にも手が届くのかもしれない。

 あのオニガミや、スタールッカーのような超常の存在にも。


 いや、これは、さすがに調子に乗りすぎだろうが。


「ありがとう、委員長。実はちょっと、やべーやつらに見せつけられて弱気になってたんだ。元気出たよ」

「それはよかったですね」


 リズは風になぶられる髪を抑えながら笑った。ここで再会して初めて見る、心からの笑顔に見えた。


「一人前になったルーキ君と一緒に走るのがわたしの夢ですから。それまで、ちゃーんと見てますからね」

「その時は、人間らしい走りで頼むよ。まったくガチ勢はさ……あ、そうだ聞いてくれよ。ルート0に〈悪夢城〉ってのが現れてさ……」


 リズのケガ、同級生の逐電と、暗い話が続いていたが、この段になってルーキはようやく新米走者らしい明るい話題を振ることができた。


 レイ親父や一門のたくさんのガバのこと。RTA警察からの突然の討伐指示。悪夢狩りのオニガミのこと。他にも話したいことは山ほどあった。


 初めての本走は失敗だらけで、大成功だった。


 それから駅に到着するまでの数時間、ルーキは時間を忘れて話し続けた。リズは興味深そうにそれを聞いていた。

 それは、彼にとっての初めての「完走した感想」だったのかもしれない。

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