第8話 ガバ勢とフィールドの賢い歩き方

 翌朝、レイ一門は何事もなかったかのように出発した。


 事実、夜のうちにモンスターや野生動物からの襲撃はなく、蒼紅姉妹がウルトラ上手に焼いてくれたヤマビコイヌの肉をたらふく食ったルーキは、自分でも驚くほど深く眠り、元気いっぱいに目覚めた。


「予定より三分の二日くらい遅れてるが、誤差だよ誤差!」


 そう言い切って先頭を行くレイ親父の白髪はしっとりと濡れている。


「サグルマ兄貴……」


 最後尾の物資班と一緒に歩きながら、ルーキは遠い目で言った。


「レイ親父って、胸にさらし巻いてるんですね……」

「……ルーキ。おめえ、見てしまったのか……」

「……はい。朝起きたら、近くで水音がしたんで見に行ってみたら、レイ親父が近くの池で服洗ってて。……ふんどしなんですね。あの人」

「水浴びした後、着流し肩に引っ掛けてその格好で歩いてくることもあるぞ……。まあ、慣れろ。何も考えるな。それがほよよの掟だ」

「やはりそうでしたか……」


 もっともレイ親父の胸部は極めて平坦だったので、あれが胸を小さく見せるための下着なのか、それとも、東方出身者がたまにつけている防御用のインナーなのかは、ルーキにはわからなかったが。


 そこからの前進は、昨日の特大ガバが嘘のようにスムーズだった。


 しばらく歩き、何度目かの小休止中にチャート表を確認したルーキははっとなった。


(かなり巻き返してきてる……。昨日の遅延を取り戻すほどじゃないけど、その半分はもうリカバーしてる……?)


 なぜなのか。行軍ペースは決して速いものでも、無理をしたものでもない。


 ルーキは遠くの茂みが揺れるのを見つけ、身構えた。しかし、何かが立ち去る気配があり、そこからは元の平穏な森に戻る。


 今日、似たようなことが何度もあった。モンスターの接近もあっただろう。しかし、戦闘にはならなかった。


「くんくん……。におう。におうぞ。やっぱ水洗いくらいじゃ血の臭い取れねえか」


 倒木に腰掛けたレイ親父が、着流しのにおいを嗅ぎながらぼやいている。


 血の臭い。

 まさか、昨日のモンスターの血がまだ、他の魔物を遠ざけているのか?


 あの狩り場で一晩明かした自分たちには、その臭いがしっかり染みついてしまっている。

 獣の嗅覚は優秀だ。臭いだけで、相手の強弱を計ることもできるという。

 それが、いわゆる“せいすい”の役目を果たしているのだろうか。


 ひょっとして、レイ親父はそれを狙って?


「くさい!」


 懲りずにまたにおいを嗅いで鼻にしわを寄せているレイ親父を見て、「それはないか……」とルーキは思った。そんな都合のいい話、そうそうあるものではない。


 しかし、チャート消化が順調なのは、その後も揺らがなかった。

 このままいけば、本当にチャート通りに開拓町に着けるのではないかと思い始めた頃。


 先頭の走者たちの足が止まった。


 何かがあったようだ。


「よし、みんな聞け」


 レイ親父が一門を集合させて言う。


「ここから先は恐らく、“クレーマービースト”どもの縄張りだ。さっきフンが落ちてた」


 クレーマービースト。

 ルーキはその名前に顔をしかめた。


 生物として強靭かつ、神出鬼没の魔獣。一度目を付けられると何日でも追い回してくる執拗な性質ため、レベリングにも向かず、苦労して倒しても得るものがないという特級のゲロマズモンスターだった。


 それが複数潜んでいるとレイ親父は言っている。一門の誰もが顔を見合わせ、渋面した。

 しかし、彼らの顔が本当の意味で歪んだのは、その次の言葉によってだった。


「そこで、これから“十倍ウォーク”を行い、ここを突破する」

「ヒッ……」

「ヒエッ……」


 十倍ウォーク。それはRTAの教本にも載る伝統的敵避け法である。


 やり方は簡単。まずパーティーを二つに分ける。


 そのうち一つは安全な場所を見つけて待機。そこを“安全地帯セーブポイント”として確保する。

 もう片方はフィールドを前進し、何もなければ後方の仲間を呼び寄せ、再び場を確保セーブ。もし敵がいるようなら安全地帯セーブポイントまで引き返し、別ルートを探す。


 これを繰り返しながらじわじわ前進するのが十倍ウォークである。


 ちなみに、十倍ウォークという名前をつけたのはレイ親父で、それまでは特に名前はなかったという。


 一門は早速十倍ウォークを実践した。

 感覚が鋭い走者を先頭にし、斥候班と待機班を何度も入れ替えながら、慎重に、気配を殺して前進していく。万が一にも戦ってはいけない。神経と体力を同時に削り取る、きつい行軍だ。


「サグルマ兄貴。レイ親父は何で、これを十倍ウォークって名付けたんですかね……」

「普通に歩くより十倍面倒くせえからだよ」

「何で十倍面倒くさいのに、俺たちはそれをやってるんですかね……」

「戦闘したら二十倍面倒くせえことになるからだよ」

「なるほど、理解しました……」


 ルーキは重い足を引きずりながら、斥候班と共にセーブポイントへと戻った。


「こっちの道はダメでさあ。ご丁寧に出したてが転がってました」


 サグルマが首を横に振って不首尾を伝えると、待っていたレイ親父は渋い顔をして荷物を背負い、走者たちを率いてルーキたちとは別の道へ出発する。


 ルーキは荷物を降ろし、凝り固まった疲労を吐き出した。

 このウォークで特に苦痛なのが、敵を発見して元来た道を戻らなければいけない時だった。これまでの苦労がすべて吹っ飛ぶ。体感的には、行きの疲労が二、帰りの疲労が八、といった配分か。


 しばらく安全地帯で休んでいると、レイ親父たちが戻ってくるのが遠く見えた。


「あちらもダメらしいな……」

「サグルマ兄貴。これ、もう進めるコースがないんじゃ?」


 敵避けに有効とされる十倍ウォークにも限界はある。

 それは敵を撃破しないため、今のように右回りも左回りも直進も、すべての経路が敵に塞がれてしまうことだった。


 こうなると戦闘は不可避。十倍の徒労の上にさらに戦闘の疲労まで重なって三十倍ウォー苦となり、大変つらい。


 十倍ウォークに求められるのはただひたすらに心を殺す忍耐である――教本にも載るこの言葉を残したのは、レイ親父当人だったか。


「ルーキ。親父が戻って来ても今の言葉は絶対言うなよ」

「へ?」


 サグルマは深刻な顔のまま、唇の前に人差し指を立てたまま小さな声で言った。


「このどん詰まりの状況はあの人もわかってる。もちろん、こういう時に取れる最善手が何かもちゃんと知ってる。しかしな、それも冷静でいられればの話だ」


 ルーキは、先の戦闘でイヌに対し走者たちが見せた錯乱ぶりを思い出した。


「レイ親父は十倍ウォークが嫌いなんですか?」

「好きなヤツは確実にいねえだろ。ルート8・24・51を知ってるか?」

「ええと、事務所の地図にそんなルートが書いてあったような。すいません、ルートの名前覚えるの苦手で……数字ばっかだし……」


 せめて意味のある名称なら、もっと覚えやすくもあるだろうに。


「この十倍ウォークの名を知らしめた、親父にとっても俺たちにとっても悪夢のような北方の開拓地だ。あそこでボスをブッ倒して得たトロフィーを、硫酸につけて捨てたほどだからな。雪山での十倍ウォークのリセットは千回を超えた。死者の行軍とさえ言われたよ。その他にもいろいろとひどかった。だから、十倍ウォークをやってると、思い出しちまうんだ。あの時の苦労を……」


 サグルマはふっと顔を上げ、


「まわりの走者を見てみろ」

「……これは……」


 周囲で休む走者を見て、ルーキは息を呑んだ。


「みな、ルート8・24・51の経験者だ。目つきでわかるだろう」

「FXで有り金溶かした目をしている……!」

「うむ」

「サグルマ兄貴まで! どうやってるんですかその顔!」

「わからん」


 サグルマと話しているうちに、遠くに見えていたレイ親父たちがセーブポイントに帰着する。

 見れば、彼に続く一門もみんな有り金溶かした顔だ。

 これまでの苦労が全部パアになったことを、どうしようもなく理解してしまったのだろう。


 斥候班とセーブポイント確保班、正対しているのに決して視線が交わらない顔同士が向き合う。


(なんて光景だ)


 妙に静かだった。不穏なほどに。

 ルーキはごくりとのどを鳴らした。一体これから何が起こるというのか?


 果たして、深い眉間ジワを伸ばしたレイ親父は、閉じていた碧目をカッと見開き、出迎えた走者たちに宣言する。


「ここでオリチャー発動!!」

『えええええっ!?』


 それを聞いた一門は、我に返ったように騒然となった。


「落ち着いてください親父! オリチャーだけはまずいです! 昨日のレベリングのこと忘れたんですか!?」

「うるせえ! もう十倍ウォークなんてやってられるか! 突っ込んで皆殺しにすればいいんだろ! 俺一人でやったらぁ!」

「一旦決めた方針は最後まで守らないと! それが走者の鉄則でしょ!?」

「みんな親父を取り押さえろ!」

「やめろォ! 何するゥ!」


 駄々っ子のように暴れるレイ親父を一門総出で押さえつける姿を見て、ルーキは教本にも載る有名な一文を思い出した。


 ――RTAはチャートがすべて。チャートをちゃーんと守れば完走できる。チャートを守るのではない。チャートに守られているのだ……(発言者レイ)。


「本人が一番守れてない……」


 オリチャー――オリジナルチャートというのは、即興でそれまでの計画を変更することだ。

 RTAのチャートは常に改良が求められている。そのきっかけを掴むタイミングは人それぞれ。多くは完走後だが、走っている最中にふと閃いてしまう走者も少なくない。


 ただし、RTA心得一つ。走者たるもの、オリチャーの誘惑に負けてはいけない。


 チャートというのは最下部から始まる精密な積み木であり、途中の一部を思いつきで取り換えた結果、最終的にどんな不具合を呼び起こすかわかったものではない。


 よって、いかなる腕利きだろうとオリチャーは厳禁。

 改善は次のRTAに活かすべしというのが走者の常識だった。


「やっぱりああなっちまったか」


 サグルマが大きく嘆息し、近くの岩に腰を下ろした。


「と、止めなくていいんですか?」

「ああ。今はいい。本当にやばいのは、それが正しいかどうか誰にもわからない時にオリチャー発動されることだ。何とかなるだろって試してみて、後で泣きを見た例は山ほどある。ルーキ、おまえも休んでろ。どうせ親父が落ち着くまでは動きようがない」


 サグルマはそう言うと、煙管のようなものを取り出し、口にくわえた。

 刻みたばこも何も放り込んでいないし、火もつけていない。それでも、何かの儀式のように思えた。


 しばらく、時間と、数人に取りつかれながらも平然と彼らを振り回して荒れるレイ親父の怒号ばかりが流れる。


 時間を持て余し、ルーキはサグルマに話しかけた。


「サグルマ兄貴は、どうして走者になったんです? 目標とか、何かあるんですか?」

「俺か?」


 彼は煙管を唇の端で傾かせた。香草のようないい匂いがルーキの鼻先に漂った。


「目標っつうなら……相棒を探してる」

「相棒?」


 サグルマの隻眼が、遠くを見た。


「ああ。あちらが俺をどう思ってたかは知らんが、俺からはそうだった。ずっと一緒に走ってて、あるRTAを終えた後に、ふっと消えた。別に住む場所まで一緒ってわけじゃなかったから、いついなくなったのか、正確なところはわからねえ。だが、それ以来、見てねえ」

「別の街に移ったんでしょうか……?」


 ルーキは恐る恐る聞く。


「かもしれねえ。走るのを辞めて静かに暮らしてるのかもしれねえし、もうどこにもいねえのかもしれねえ。だから探してる。RTAを続けてりゃ、どこかで何か手がかりを見つけられる気がするんだよ。今、目標があるとしたら、それくらいだ」


 サグルマは煙を吹くように細く息を吐いた。その横顔が妙に物悲しくて、ルーキは頭を下げた。


「あの、すいません……。何か、立ち入ったこと気軽に聞いちゃって……」


 彼の顔がニヤリと笑った。


「別にかまいやしねえよ。ただそういう目標ってだけだ。それより、おまえはどうなんだ? いっぱしの走者になるって目標はいいが、何か、明確な基準みたいなのはあるのか? 親父みたいになる、だと、かなーり長いぜ」

「ああ、それは、その」


 ルーキが慌てて手を振ったのを見て、サグルマの笑いが深くなった。


「お、その様子だと何かありそうだな。言えよ。俺も言ったんだからさ」

「いや、兄貴に比べるとウンコみたいな話なんで、ちょっと……」

「おいおい逃げるなよ」


 サグルマの腕がルーキの肩に回され、がっちりと固定された。


「ほら言えよ。こういうのは言わないとどんどん恥ずかしくなるんだぜ」


 ルーキは観念し、ぼそりと言った。


「……完走した感想で、店一軒埋められたら、です」

「…………」


 サグルマのきょとんとした顔にいたたまれなくなり、早口で付け足す。


「俺、訓練学校入る前に、一度だけレイ親父の完走した感想見たことあるんです。店の外を通りかかっただけで中は全然見えなかったし、声も聞こえなかったですけど……! でも、外の人が話してるの聞いて、レイ親父っていう走者だって。ガバ勢なのにすごい漢だって。それを聞いて、なんか、勇気が湧いて来て……俺も走者目指そうって……」

「ハッハッハ!」

「笑わないでくだ……いや、笑い話なんで、笑っていいです」


 ルーキが半ば諦めの境地で言うと、サグルマは手刀を振るようにして謝った。


「悪ィ悪ィ。バカにしたんじゃねえんだ。あんまりにもおまえさんの基準が的確すぎてな。完走した感想で店一軒。確かにそれができりゃあ一人前以上だな。だが、あれは難しくてなあ……。ルート選びはもとより、話し上手の盛り上げ上手でないとうまくいかない。誰かの完走した感想を見に行ったことあるか?」

「いや、RTAを知ってすぐ訓練学校に行ったんで……」

「そうか。なら、このRTAが終わったら、俺の完走した感想で相方やれ」

「え!?」


 ルーキは驚きの声を上げた。


「完走した感想を複数人でやる走者は少なくない。対話形式になるから話しやすいし、役割分担もできる」

「い、いや、でも、俺何も知らないんですよ?」

「別にかまいやしねえよ。走ってる時のことを思い出して、普通にしゃべればいい。最終的に、客はそれを聴きにきてるわけだからな。演出やら何やらのことは考えるな」

「でも……いや、わかりました。よろしくお願いします」


 ルーキは頭を下げた。不安は大きいが、慎重すぎて前進のチャンスを逃すのもいやだ。


「レイ親父」


 顔を上げたルーキの耳に、いつの間にかまた森に出ていた別の斥候隊の声が届いた。


「モンスターどもが移動しました。正面から行けますよ」

「でかした! よしおまえらすぐ出発だ!」


 今の今まで暴れ続けていたレイ親父は、それまでの不機嫌さを一瞬で打ち消すと、少女のような明るい顔で指示を出した。


 その様子を見て、ルーキは一抹の不安が鎌首をもたげるのを感じた。


 チャートを立てにくいルート0とはいえ、この大雑把さ。

 RTAの腕は確かにせよ、レベリング相手の性質を知らなかったり、十倍ウォークの隠密中に騒いでいたりとやることなすこと滅茶苦茶だ。


 よく言えば破天荒で、悪く言えば圧倒的ガバ。

 ここまで結果オーライだっただけで、再走案件級のガバが起こるのは時間の問題にさえ思えた。ガバ勢を見下した同窓生の嘲笑に抗う力がほんの少し削れた気がして、踏み出した足がいやに重い。


 だから、


「よく待てたな」


 そんな時にかけられたサグルマの言葉を、ルーキは即座には理解できなかった。


「敵が動くまで待つこと。これが、十倍ウォークで行き詰った時の対処法だ。覚えとくといいぜ」

「ああ、なるほど……」


 モンスターもいつまでもじっとしているわけではない。こちらを意図して包囲しているのでなければ、必ずどこかで行動し、包囲に穴を空ける。今回のように。


 しかし、「よく待てた」とはどういう意味なのか? 自分はただ待っていただけだ。

 サグルマは続けた。


「RTA中の走者が一番苦手なのが、何もせずに待つことだ。特に新人のうちは、こいつに耐えられないで無駄に体力を消費するヤツが多い。だが、おまえはちゃんと休めた」


 ルーキはその言葉にはっとなった。


「あ、ああ、いや、その、サグルマ兄貴と話をしてたし、それに親父さんを見てたら、それどころじゃなくて……」

「確かにな。あの人を見てると飽きない」


 サグルマはニヤリと笑うと、数歩先を歩いていった。


「…………」


 虚を突かれた思いで、ルーキは自分の胸に手を当てる。

 確かに普段の自分なら、何もせずにじっとしてはいられなかった。列車の時そうだったし、さっきサグルマと話をしているのさえ苦痛だったかもしれない。


 十倍ウォークのリセットに焦って、苛立って、レイ親父の強硬突破論に諸手を挙げて賛成していた可能性すらある。

 絶対に悪手だとわかっていても、何かせずにはいられなくなるのだ。


 RTA心得ひとつ。焦ってもガバるな。ガバっても焦るな。


 その単純なことが何より難しい……はずなのに、先頭のレイ親父に続く一門の誰にも、しびれを切らして焦りを見せている者はいなかった。

 自分もそうだ。一瞬たりとも。


 なぜ?


 ガバ勢なら、こんな時、真っ先に失敗しそうなものなのに。


 わからなかった。


 この時は、まだ。

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