「我思う、故に我あり」 心理学的に見るこの言葉の意味
タイトルにあるセリフは、おそらくほとんどの人が見覚えあるものだと思います。この言葉を発したのは『ルネ・デカルト』。フランス生まれの哲学者であり数学者です。彼の功績は図りしれず、現代の哲学の礎を築いた偉人であり、数学者としても現代の座標の基礎である『デカルト座標』を生み出しました。
デカルトの話題を取り扱うってことは『哲学』の話だな? と予想するかもしれませんが、今回も紹介するのは『心理学』です。心理学は大昔から研究がなされていたわけではなく、それまではもっぱら『哲学者』などが取り上げていた曖昧で神秘的な世界でした。なので『学問』という言葉に表されるかは定かではありません。
心理学が学問として認識されるのは『ジークムント・フロイト』とか『カール・グスタフ・ユング』とか『ヴィルヘルム・ブント』とかの1800年代からです。まあ、フロイトとかユングも心理学者じゃないんですけどそのへんは割愛。今回はまだ哲学者が己の心のままになんの根拠もなく語り合っていた時代の『心=魂』的な感性のもとで扱われていた時代の話です。
哲学者は、哲学という手段を用いて心を理解しようとしていました。心とはなにか? なぜ人間はものを考え、光を見ることができ、目の前で起きた事を認識し状況に対応できるのか? ――デカルトは『自分が目覚める夢』を見て、目覚めたときにその夢を思い出したことである疑問をもちました。
このとき彼は、まず『起きている時と夢を見ている時』をどのように区別できるか考えました。現在でも研究が続いてる"夢"ですが、これは最新の脳科学において、睡眠中に脳が覚醒中にさらされた刺激の整理、分別を行っていると予測されています。当時のデカルトにはそんな知識あるはずもないですから、この夢については深く考えに考えました。だからこそこの名言が生まれたわけですが。
彼は本当に必死に考えたようです。その結果として『それまでの人生が夢だったという可能性を捨てきれない!』という結論に達しました。ですから、当然ながら自らの感覚器官を疑いはじめます。見るもの、味わったもの、聞いたもの、触れたものそれらのすべては理解し難い感覚処理の産物でしかなく、実際に経験したものかどうかを疑わざるを得なかったのです。
ですから、自分がなんらかの魔力に支配され現実世界を誤って認識させられている可能性さえあり得る――彼の考え、みなさんはどのような感想を覚えましたか? 確かにと思った? バカバカしいと思った? 少なくとも、デカルト自身は本気でこの考えに行き着き戦々恐々としたようです。しかし、ここでデカルトはある事実に気づきます。すなわち――
「自分の存在を疑ってる心はたしかに事実としてここに在るなぁ……これって『自分がここにいる』ってことじゃね?」
哲学にはすべてについて疑うべしという『方法的懐疑』というものがあります。まあ、デカルト自身が生み出した概念なのですが、ようはほんの1パーセント、微粒子レベルでも否定できる可能性があるのであれば、その説は否定できるというわりと量子力学を敵に回す考え方なのですが、それらすべてを否定していく『意識・意志』が確実であるならば、そのように意識している自分だけは自分の存在を疑いようがないじゃないかということ。
もっとざっくばらんに言ってしまうと『自分自身を疑っているのなら、少なくとも自分を疑っているという"心"がここに存在している証明になる』ってことです。心が存在しなければ否定することもできませんからね。
だからこその『我思う故に我あり』なんですね。
まあ、なんらかの魔力やら魔物が自分を疑わせにかかっているという反論もあるでしょうが、それは哲学的に『そもそも存在しない魔物に自分の思考に疑いを抱かせられるわけがない』と一蹴されるようです。考えることができるなら、そこにはたしかに"心"があります。
自分を認識する"心"。それだけは真実です。ですから、肉体がどのような状態になっていようとも心まで否定することはできない。だからこそ心は魂と直結するのかもしれません。
あ、ちなみに『我思う故に我あり』の言葉は第三者の翻訳でなされたものであり、デカルト自身はもうちょい別の表現を使ったとあります。ただし、デカルトが校閲をしたらしい著作ではしっかりと日本語訳で『我思う故に我あり』だったのでまあ大した差異はないでしょう。このへんのトリビアを追求したいって方はウィキペディアを調べてみるか彼の著書を紐解いてみるしかありませんね。
感覚器官は心理学でも扱いますが、ここはもう『脳科学』の領域でしょう。各感覚器官は当然ながら神経を通して脳に信号が伝達されます。感覚を司る神経が電気信号を脳へ送り、だいたいは『視床下部』というところで中継され各々が担当する部位へと運ばれていきます。視覚だったら後頭の『大脳視覚野』に到達し、必要な情報処理を終えたら結果を運動野だったり側頭へ伝えたりします。それらの連携を通じて例えば『目の前にやってきたボールを掴む』という動作ができますので、つまり脳の神経伝達スピードよりボールが速ければ動く前に顔面にズドンという結果になるわけですね。ドンマイ。
心理学的な学びでいうと、この感覚には『限界』があります。例えば聴力では20~20000ヘルツまでの音を感じることができます。20以下ですと刺激が弱すぎて感じることができず、大きすぎるとそれは『超音波』という形に変化し人間には聞き取れない波長となります。理由は定かではありませんが、まあ人間がこの時代まで生き残るにはこのくらいの可聴範囲がちょうど良かったんでしょうね。
あと有名な感覚の心理学として『ウェーバー・フェヒナーの法則』というのがあります。刺激と感覚の関係が比例関係にあるといった内容ですが、ひとまず例を示してみましょうか。
まず手にダンベルでも持ってみましょうか。重いですよね? え、重くない? じゃあもうひとつダンベルを持ってください。そしたら「重い」くらいには感じるのではないでしょうか? これをどんどん繰り返すとそのうちアナタの手が耐えきれなくなり、最終的にズドンとダンベルを落としてしまうでしょう。
しかし、最後の瞬間に近づけば近づくほど『感じる重さ』に差がなくなってきます。0キロから1キロ、2キロ、3キロと少しずつ重りを載せていく場合は(ああ、また1キロ増えたな)と感じられるでしょうが、30キロから31キロになると(ああ、30キロから31キロになったな)とは感じません。もしかしたら、重りを足したと言わず隠れて重量を増やしても気づかないことさえありえます。そのように、人間には『感じ方』というのがあるのです。
心理学は近年になり始まった学問ではありますが、それまでにたくさんの土台や情報は揃っていました。だからこそ現代の心理学では学術的に検証を重ねてしっかりとした理論を構築しようとしています。まだまだ開拓しがいのある分野であり、これからの進路を決めかねている中高生にはぜひおすすめしたい分野ですね。
アナタはダンベル何キロもてますか? ちょっと限界の重さを教えてちょっと持ってみてください。で、目を閉じてください。わたしが隠れて少しずつ重量を足していきますから。
え、なんでって? ――自分の限界を突破するには良い手段だと思いませんか?
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