⑤ 一年半後の仲直り?
舞の言葉を聞いた優大が、がばっと頭を上げたかと思うと、クッキーを囓っている舞の目の前に詰め寄ってきた。
「違う! 断るんじゃない。むしろ……その、お願いしますと返事をしたいんだ」
「なんだ。それなら問題ないじゃない。お父さんもきっと喜ぶよ、早く伝えてあげてよ。あれでも断られるかもと、ヤキモキしているんだから」
優大が『そうなんだ』と、緊張していたような表情を少し緩めた気がした。
「嬉しかったんだよ。こんな俺をさ、一年半、根気強く向き合って、仕事の基礎みたいなのを教えてくれて。そのうえ、正式雇用だなんて。俺みたいに、どこにも馴染めなくて、実家でくすぶっていたダメな人間をさ」
「そうかな。そりゃ、最初に私に口悪い挨拶してきたのは、いまでも腹立っているけど。まあ、それも言われても仕方がないかなとは思っているし。優大君だってこの一年半、真剣にやってきた結果が出てきただけじゃない」
「あのときは……、最初の時は悪かったと……思っている。それで、その、今更だけどよ。舞に謝っておこうと思ったんだ」
今更、謝る? 舞は眉をひそめる。そんな一年半も前のことを、なんで急に。あれは舞自身の性格も上乗せ相乗効果で、年甲斐もなくつまらない衝突をしたのはお互いの大人げない痛い部分を触られていたからだ。いまこそ、そこは『大人として』判っているから、納得しているはずなのに。
「やっとわかったんだ。オーナーは娘を甘やかすために、金を出してガーデンを作ったんじゃないって。あのオーナーは自分のカフェのためなら、本当に投資をする商売人だったんだって。やっとわかったんだ。だってよ。俺専用の業務用オーブンを買うとか言い出すんだぜ! 俺、出来損ないの他人だぜ! なのに、そういう金のかけ方をする経営者だってわかったんだよ。それをさ……、俺は、うだつがあがらないプータローみたいな家事手伝いの次男坊でさ、就職もままならなかったのに、札幌の一等地に住んでいたお坊ちゃんなパパが、大きな土地を買って娘が好きな仕事が出来るようにって至れり尽くせりにお膳立てしてあげてさ。そんなふうに生きていける娘もいるんだなって……、その……嫉妬っていうか」
囓っていたクッキーをひとまず袋に戻したら、隣のカラク様が『ええ、もうお終いですか』と拗ねた顔をしているが、気にせずに舞は優大に向かう。
「そう見られるのは百も承知で、父についてきたよ。でも――、やっぱり私、あのとき、すごく不安だったんだと思う。こっちもいろいろ事情があって代々住んできた土地を手放して来たこと、もう帰る土地もないこと、ただ、父が、父が、終の棲家にするんだ、スミレが咲く家で死にたいとか……言うから……。おまえ贅沢とか言われると、ここに来るまでいろいろあったのに知らないくせにと頭にきちゃって……私も同じだって」
徐々にまた重苦しい気持ちになってきた。こんな時、カラク様は知らぬ振りをしているし、優大はあたふたし始めている。
「ええっと、そのことをさ、おまえとやり合った後すぐに俺の父親から聞いてさ、舞が五歳で母ちゃんと死別したこととか、オーナーが男手ひとつで舞を育てあげたこととか。オーナーから舞を無理矢理誘って連れてきたとかさ。娘は父親のわがままを聞いてついてきてくれただけとか……。あと、本当は家族の借金返済のために、札幌の土地を売るしかなかったとかいろいろ。俺ったら、本当に自分の感情だけぶつけて悪かったと思ったんだよ。人にはそれぞれ事情があるって、やっと身をもって知った」
まただった。父親同士ではきちんと情報交換が出来ているのに、事情をかわしあっているのに。結局、父親を通じてでしか、お互いの溝を埋め合うことができていない。自分のことは何一つ、自分の口から優大に告げていない。一年半経っても――。そう思った。
「だからさ。あのときは、本当に悪かった。ごめんな」
そんなふうに言われたら、舞も素直にならざる得ない。
「……大人げなく、仕事中にも無視をしたり、自分の生い立ちをなかなか言えなくて、誤解されても素通りして終わらせて来た私も悪かったんだもの。優大君にもそう。母親がいない父親に育てられて可哀想なやつだから、優しくしてやろうとか遠慮されるのが嫌なくせに、なにも知らない幸せなお嬢ちゃんだと言われるのも腹立ったり、そんな感情をまだ残しているから」
「でも。オーナーと二人で頑張ってきたんだろ。わからないヤツなんかほうっておけよ。俺を無視したみたいにさ。舞は、間違っていなかったよ。俺だよ」
えええ、本当に優大君? 違う男性と一緒にいるようで、舞は隣にいる彼をまじまじと見つめてしまった。カラク様はなぜか腕を組んで一人で『うんうん、優大君が言うとおりです』なんて、こちらもいつにない真顔で頷いている!
「それで。オーナーに返事をする前に、確認しておきたいことがある。舞、おまえは? ちゃんと報酬をもらえているのか。娘のおまえより、もらうわけにはいかねえよ」
そんな遠慮をしていたんだと、舞は驚く。もうすぐに喜んでもらえると父と予測していたのに、そうでなく謙虚に『考えさせてください』と言ったのは、舞のことを気にして?
「もらっているよ。それに私は、父と共に暮らして父が生計を立ててくれているから、アルバイト程度の収入で充分なんだって。元々、札幌にいた時も、友人と食事ぐらいは行くけれど、あれこれ物がほしいわけじゃなかったし、いまも充分楽しく暮らしているよ。それよりも、優大君のほうこそ、父と娘とか家族じゃないからこそ、きちんとした報酬をもらうべきだよ」
「ほんとうにいいのか、それで」
「いいよ。優大君に報酬を横取りされると思っているなら、既に父に文句を言っているし、反対している」
「俺なんか……」
どうして。あなたは情熱的で真っ直ぐすぎて時にはやり過ぎるけれど、真摯な職人だよ――。また言えずにいる。自信がなさそうな彼を、舞はもどかしく見つめるだけ。
『舞、ここですよ。いつも心に隠していること、ここですよ』
隣からそんなささやきが聞こえてきた。ふと見ると、もうカラク様がいない! どうして? でも舞も強く頷く。いつも心に隠して、わざわざ伝えなかったこと、いや素直に伝えられなかったことを。
「私、優大君のまっすぐな情熱が羨ましいと、ずっと思っていた。その一生懸命さは本物でしょう。一生懸命すぎて、いままで理想どおりにならなくて、いろいろな先輩と衝突してきたんでしょう。すぐに反発してしまうのも、優大君にとって、ベーカリーの仕事がそれほど必死なことだったんでしょう。パンの仕事はやめず、職人の基礎はきちんと身につけてきたから、うちのカフェで、初めてその実力を発揮できるようになった。そんな優大君の目に見える情熱が……、私は羨ましいし、こうなって当たり前だと思ってたの。だから、正当な評価と対価を受け取って」
と、彼の顔を見たら、優大の目に既にうるうるとした涙が滲んでいて、舞はぎょっとする。
「え、なに、また泣いているの?」
彼が涙を拭って、いつもの舞を睨む顔になる。
「うるせえ! 初めてそんなこと言われたからさ。なんだよ、情熱が羨ましいって。舞だって、すげえガーデンを作ってるじゃないかよ。あれは情熱じゃないのかよ」
「別に私、花が好きでこの仕事についたわけじゃないし。たまたま採用されたから、この仕事をしてきただけだよ。早く自立して、父を自由にしてあげたかったから、どんな仕事でも良かったの。頑張ってきたのは、一人で食べていくために、この仕事を全うしなくちゃいけないと思っていたから」
「それだって情熱じゃないのかよ」
舞も初めて言われた言葉に、固まる。
「花に対してじゃなくて、自立するための情熱だろ。それって。たった一人のオヤジさんのための情熱だろ」
「ああ、そうなんだ……。うん、花のコタンの上司に『植物に対する情熱がない』と言われていたんだけれど、そういえば、お父さんのため、自立のための情熱だったかもね」
ああ、そうか。私の情熱はそこにあったんだと、舞も初めて他人に言われて気がつく。
「でも、それってさ。おまえ、父ちゃんがいなくなったら、なんにもなくなるんじゃないか」
「でも。いまはガーデンを頑張ることしか思い浮かばない」
優大もそれ以上は何を言って良いのかわからなくなったのだろう。『そっか』と呟くと、また大きく開いた足の膝に手をついて、下を向いたまま黙ってしまった。
今度は優大とふたりきり。三つあった椅子の片側二つに寄り添って座っている。
「あ、マドレーヌも大好き。ありがとう」
「あ、うん。実家のベーカリーでさ、母親がオーブンの火を落とす時の余熱で、俺たち兄弟のおやつをよく片手間に作ってくれていたんだ。それの真似」
「じゃあ、優大君のお母さんの味なんだ。なるほど」
「そんなんじゃねえよ……。いや、きっとそうなんだろな。自分でも気がつかなかった」
「いいね、お母さんの味」
そう言うと、優大がはっと慌てた様子で、舞に向き合ってきた。
「だから、その、」
「ね、そうして気を遣うでしょう。うちはね、『最強の父の味』があって、そんじょそこらのママたちも敵わないんだからね。負けてないんだから」
優大はほっとした表情に頬が緩んだ。ほんとうにわかりやすい人だなあと舞は思う。
「母ちゃんの味で俺のお気に入りは、甘食。今度、作ってくるな」
にこっと見せてくれた笑顔が、いままでに見たことがないような……。本当に知らない男性がそこに急に現れたかのようで、舞は錯覚かなと目をこすりたくなった。
その日のうちに、優大は父に『精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします』と、正スタッフになる返答をしたようだった。
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