③ 彼とひとつ屋根の下

 まだお仕事ですか――と、こんな日暮れに声をかけてきたのは、カラク様。


「もしかして、このクッキーの匂いで来ちゃいましたか?」

「香ばしい匂いですね。さては、もう食べてしまいましたか。舞の口元に菓子のかけらがついていますよ」


 驚いて口元に触れると、慌てて頬張ったせいか、本当に小さなクッキーのかけらがついていた。うわ……。そんな顔を優大に見られていたのかと思った。そんな顔で『優大君のおかげ』なんて、しおらしく告げていたらどんなに滑稽になったことか。


 そんな舞を、納屋のランプの光に今日も虹色に光る黒髪の彼がそっと慈しむように見つめていた。


「少し、彼と話せるようになったみたいですね」


 カラク様はいつも我関せずのふりをして、舞と父の関係、舞と優大の関係、優大と父の関係性をよく見抜いていた。


 話さなくても、お見通しのようにして、この人はスミレ・ガーデンカフェを見守っているのだ。舞と優大が素っ気ない関係で始まったことも。それでも、舞が優大の情熱的な信念に敬意を抱いていることも。


「このクッキー。今度は、カモミールミルクティーに合わせて作ったそうです。仕事も終わったので、ご一緒にどうですか」


 なのに、その日のカラク様は麗しい黒髪を揺らして首を振った。

 うつむくと長い前髪に、睫が長い目元も隠れてしまう。


「いいえ。今日はお父さんと、ゆっくり休んでください。お二人とも、ここのところ休養が足りないように思えます。特に剛さん。若い貴方たちが頑張れるので、その若い気持ちに引っ張られて気持ちが舞い上がっている気がします。いままでを取り返そうと躍起になっていませんか?」


 舞もはっとする。確かに父はここのところずっと働きづめだった。急に客足が増えたせいで。舞はいい、きっと優大も、どんなに働いても少し眠れば頑張れる力と体力がある。でも父は……?


「あの、カラク様。それを私に伝えてくださるために?」

「いえいえ。朝も人が少ないうちに散策しているんですよ。ほんとうに見事なガーデンになりましたね。毎日少しずつ表情を変えていて、そのうちに季節が移っていることを感じるのも楽しみで毎日訪れていますよ。でも舞は忙しそうにしていて、私に気がついてくれなかったのですよ」

「え! お側にいらっしゃったのですか!?」

「離れていましたけれどね。邪魔をしたくないので。ただ、そろそろ美味しいお菓子とお茶が恋しいですね」

「そんな、お声をかけてくだされば、いつだって――」


 そこまで言って舞も気がつく。そういえば、今まで規則正しかった休憩時間が取れたり取れなかったりにはなっている。だから、彼も近づけなくなっていた?


「明日はきっと、いつもの午前中の……」


 前と同様の時間に一緒に休憩しましょう。そう伝えようとしたのに。……そこにはもう誰もいない。ランプの明かりがある納屋の入り口を離れ、舞は森の入り口へと向かい、そこに立った。夜の重い暗闇がたれこめる森の小径。そこにも誰もない。


 遠くフクロウの鳴き声が聞こえてきた。

 見上げると、空に伸びているアカエゾマツの枝先に、カラスが止まっているのが見えた。首をかしげている彼の真上に、きらきらと星がきらめいて、彼も舞を見下ろしていたがさっと森へと飛び立っていく。


 カラク様ともゆっくり話したかったのに。

 この土地に来て、もうすぐ二年が経つ。がむしゃらに、必死にやってきたそれまでのことを気易く話せるのはカラク様しかいなかったから。


「このクッキー、一緒に食べたかったな」


 ため息をついて舞はエプロンのポケットに『パン屋さんのクッキー』をしまった。


 納屋のランプの灯りをおとして、ドアに南京錠をかける。

 ひとり、両脇から豊かに伸びて揺れる花々の散策道をゆく。


 白のカンパニュラが星と月の明かりを吸い込んで、ほんとうに光っているように見える。穂のように水色の花をつけて揺れているデルフィニウム。マゼンダ色のエキナセアも、星の瞬きと一緒にくすくすと囁いているようにそよいでいる。


 ここは緑の丘と森林の国。夜は満天の星と囁く花々の秘密の園がここにある。

 夏の夜風と花と土の香りを吸い込んで、舞は父が待つ煙突の家へと帰宅する。





 ラベンダーの花が一斉に開花した最盛期を迎える。

 夏の鮮やかな花々もいまが盛りで、特に様々な品種のバラがガーデンを彩っていた。


 舞が選ぶバラは、ころんとしたイングリッシュローズに、オールドローズが多い。

 蔓のバラは元々あったリージャン・ロード・クライマーや納屋の彩りに植えたマダムハーディなど。華やかなローズはガーデンの敷地を彩る小花の中で、ひときわ艶やかに目立つ。


 ところどころで、小花ばかりで飽きないようはっとした演出をしようと、艶やかな紅色で深いクリムゾンの『ダーシー・バッセル』や、ほっとする優しいアプリコット色とピンク色が混在するバラ『ロソマーネ・ジャノン』がグラデーションの群生をつくったりしたが、それらが美しさを競うように目立つ季節でもあった。


 そんな頃、父が言い出した。


「よし。度外視シリーズにしてみようかな。優大君、思い切って作りたい物を提案してみて。度外視ばかりはできないけれど、やってみよう」


 予算度外視でもそれはお店を軌道に乗せるための『投資』にはなったようだった。

 もちろん、優大はまるで自分の夢が叶ったかのように驚き、そして張り切って夜のミーティングに企画をこれでもかと持ち込むようになった。


 そのため、ミーティングが定休日か平日の夜にするようになったのだ。平日は人もまばらの来店だが、以前の閑古鳥が鳴いていた時のように『どうせ人がこないから、店内でゆったりと昼下がりのミーティング』なんて、出来なくなってしまったのだ。


 父が終の家として娘と新しく暮らすその住居に、ついに優大が招かれるようになる。ミーティング室と化したのは、やはりダイニングだった。


 新しく作り直した住居用のキッチン、そして食卓を整えたダイニングがある一室。そこで父と優大が向き合って『度外視シリーズ』の話し合いを始める。


 だがこの日、いつも試食以外は担当外で、庭の仕事に出ているか、夜ならば二階の自室で既にくつろいでいるはずの舞も同席することになった。それには娘である舞が先に報告を受け、そして今日、この席で父が優大に伝えたいことがあったからだ。


 カフェ閉店後、掃除もレジ締めも終わり、いつものようにカフェホールから上川家へと繋がるドアを開けて住居区へ戻る。ドアから向こうは、奥まで続く廊下がある。それほど歩かず、最初のドアがキッチンダイニングルームだった。


 キッチンの窓にも舞が植えたヘリオプシス(姫ひまわり)が、黄金色に照らされ日暮れの風に揺れている。


 ダイニングテーブルには、父が入れたアイスカフェラテが置かれていた。

 優大はいつもそれを『オーナーのお茶が俺の一日の楽しみ』と喜んで味わっている。


 父と舞が並んで座っている目の前で、優大が冷えたグラスを手に取った。ストローを口に含んで、よほど美味しいのかにんまりと顔がほころんでいくのも毎日のことだった。それをまた父が、息子でも見るように嬉しそうに眺めているのも、毎日のこと。


「それでね、優大君。ここで君に専属でパンを作ってもらったり、ホールの手伝いをしてくれたりしてアルバイト雇いだったけれど。どうだろう。正式にうちのスタッフとしてアルバイトではない正式な雇用をしたいなとオーナーとして思っているんだ」


 すっかり気を緩めて父のドリンクを楽しんでいる優大の表情が固まった。彼の喉元がごくりとゆっくり動いて飲み込んだのが舞にもわかった。


「あの、正式雇用……って」

「社員とは呼べない個人経営の店だから、つまり時給ではなくて、月給にするというのかな」

「え!?」

「もちろん。うちの店がいつまで上手くいくかはわからないよ。優大君が他に大手のベーカリーに行きたくなることもあるだろうし。でも、開店から一年半、このカフェのために真摯に勤めてくれた事に対しての、正当な対価として受け取って欲しいし、これからも、一緒に頑張っていきたいと思っているのだけれど、どうだろう」


 優大はまだ呆然としていた。


「さらにね。良ければ、うちで業務用のオーブンを設置して、優大君にはそこで焼いてもらおうかとも考えている。いつまでも野立ベーカリーさんの、優大君の実家のご厚意に甘えて場所も機械も借りっぱなしではと思っていたんだ。目処が立ちそうだからどうかな」

「お、俺、専用の……?」


 彼がまた本当のことなのかと、舞に聞きたそうな目線を向けてきた。

 舞はふっと手を挙げてみせる。


「娘として、父親の提案に、或いはオーナーの提案として賛成しました」

「そうなんだ。娘ともきちんと話し合ったことだよ。親子で是非と思って、今日は舞にも同席してもらっている」


 まどろっこしいので、父が提案した『まだある提案』も舞から優大に告げる。


「パンを焼く仕事は朝が早いんでしょう。実家とここを行ったり来たり大変だと思うから、一階の空いている部屋を優大君の仮眠用、または休息部屋として使ってもらうというのも父と話して、私も賛成しているから」


 それには、優大がさっと表情を変え、眉をひそめた。


「いや、それは。ここはオーナーと舞の、いえ、舞さんの住まいだし」


 今度は父が割って入ってくる。


「まあ、いい年齢の娘もいるからこそ、舞とも話し合ったんだよ。一階は私たちのリビングとダイニングがあるが、住居部分はほぼ二階にある。そこは私たち上川父娘の住まいとして出入りは許可がいるという約束でどうだろう。いま休憩に使っている倉庫をベーカリーの厨房にしたいんだ」


 喜びいっぱいに感情を爆発させてくれると予測していたのに。今日の優大はいつもと違い、戸惑っていた。しかも俯いて思いあぐねている様子を見せている。つまり即答できない何かがあるのだ。


 落ち着いた大人の男の風格を醸しだし、彼がそっと静かに頭を下げている。


「嬉しいです。ほんとうに。ありがとうございます。ですが……、少し考えさせてください」


 そのまま頭を上げなかった。逆に父があたふたしている。


「いや、もし――私の独り善がりだったら、はっきり言ってくれていいからね。優大君はまだ先があって若い職人なんだから」

「そ、そういうことじゃないんです! めっちゃ嬉しいです!」


 やっと彼らしい崩れた口調で顔をあげてくれた。


「だからこそ、きちんと考えさせてください。オーナーが出資してくださるからこそです」


 それはもう、一人前の男の姿だった。『実家でも持て余している、問題児の次男坊』という、いつもふて腐れたような気怠さを見せていたヤンキー気質の彼ではなくなっていた。


 理想の仕事を手に掴んだ男が真剣に取り組むようになると、こんなに変わるんだと舞は目の当たりにした気持ちになっている。


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