② 舞は、マダムハーディ

 薄暗い納屋のランプをつけて、舞は仕入れた秋の苗を確認してから、自宅に戻ろうとした。


 夏になり日が長くなってきたため、森の木々の上はまだ薄紫の空。宵の明星がさんさんと輝きを増すと、森にも夜のとばりが降りてくる。


「おう、お疲れさん」


 優大が納屋のドアをノックして開けていた。


「あれ、帰らなくていいの。また明日の朝もパンを焼くのに早いんでしょう」

「おまえは大丈夫なのかよ。昼間めいっぱい庭仕事をしてホール接客までしてくれてさ」

「ぜんぜん平気だけど。外仕事は慣れているし」

「ふん、そうなんだ」


 素っ気ない返答をするぐらいなら、わざわざ聞かなくてもいいのにと、舞はややムッとしてしまう。


「これ。焼いたから、よかったら食ってくれ」


 差し出してくれたのは、きちんと密閉包装されているクッキーだった。


「パン屋の業務用オーブンで焼いたクッキーの美味さを知らないだろ」


 え、私のために? 舞は一瞬呆然とした。どうしてわざわざ――と思った。


「試作品だから、また感想をくれよ」


 ああ試作品ね……。少しでも自分のために気遣ってくれたと思った自分を、舞は悔やむ。そんな期待のような柔らかな感情を持った自分にも呆れてしまう。


「うん、わかった。食べてみる。またオーナーに提案するのこれ」

「おう。この前、おまえが作ってくれた『カモミールミルクティー』が、すんげえ美味かったからさ。今度はそれに合わせたやつな。あれも商品化しようぜ」


 また舞が飲んでいたお茶からの発想らしい。


「でさ、美味かったら、味方になってくれよな。この前みたいにさ」


 味方になった覚えはない。


「あれは優大君が思いついた組み合わせを試しただけだよ。私、なんにもしていない」

「いや、舞が試してくれたから、父親のオーナーも少し心に隙を作ってくれたんだ。……えっとさ、ありがとな」


 彼を見上げ、舞は目を丸くする。優大にそう言われたのは初めてな気がして。しかも、いつも避け気味の彼との視線がかっちり合ってしまった。なのに、彼がその視線を外さず、じっと上から舞を見つめて真顔のまま。いつにない視線に、うっかり囚われそうになり、舞は慌てる。


「えっと、ちょっと食べてみよう」

「いや、だからさ、カモミールミルクティーと試してくれって」


 だが舞はパッキングされている袋を無造作に開けて、すでに一枚手に取っていた。

 まるでその場を誤魔化すようにクッキーを頬張る。なにやってるんだろう、私、なにを焦っているんだろう? こんなんじゃ味なんて……。


「美味しい!」


 カリッとした焼き上がりに、サクッとした小気味よい歯ごたえ。そして香ばしいバターの香りに、ローズマリーのハーブの香り!


「焼きたてってかんじで、歯触り最高! 香りもすっごくいい! わー、これ一気に食べちゃうよ」


 二枚目も手にしてサクサクと頬張ったせいか、驚いた優大に慌てて袋を閉じられる。


「だ、だから。それはお茶と合わせて試したのを教えてくれって!」

「あ、そうだね。そのほうが絶対にぜーーーったいに美味しいよ。今夜のおやつにもらうね! へえ、そうか、業務用オーブンだからこんなにカリッと焼けるんだね。確かにこれは美味しい!」

「そっか。よかった。おまえに、美味いって言ってもらえて」


 彼のほっとした笑顔さえ、見たことがないものだった。


 普段からヤンキーぽい雰囲気を醸しだしている優大だから、目つきが悪くて口も悪くて、いつも舞を睨んでいたのに。あれ。こんな優しい笑顔をする人だったのかな。舞は初めてそう感じていた。


 よく見れば、大人の男の匂いを持ってる人だったんだな……と。初めて。


 そんな優大を不思議に感じていると、ランプのほのかな明かりがこぼれる納屋の扉を開けたままそこにいる優大が、森林の夜空を見上げている。


「俺もさ。舞の花とガーデン、マジですげえって、最近は思っている。今年の庭は壮観だ。それに俺、この納屋の白いバラ、好きだな。小ぶりなのに花びらがびっしりの八重咲きで、真ん中がグリーンで夏らしくて、小さいくせに香りがすごい」

「真ん中の緑に見えるところは花心の部分だけど、園芸ではグリーンアイと呼んでるの」

「ふうん。なんか、清楚な白なのにクールで生意気って感じだよな」

「生意気って――。でも、なんかわかる。納屋の側にと選んだそのバラと鉄仙は、私が好きで植えちゃったんだ」

「なんだ。舞の好みだったのか。いや、合っている」


 合っている? それほど深く話したこともない距離がある同僚なのに、どうして舞の好みがわかるのかと首をかしげた。


「合っているよ、おまえに」


 また、優大が見せたことない大人っぽい眼差しをしていて、いつものやんちゃな面影がない。


 花鋏を舞は手に取る。


「内緒だよ。少し分けてあげる。お母様に持っていってあげて」

「いや、いいって。せっかく育って咲いているんだから」

「ちょうど盛りで、もうすぐ咲き終わりになる花を摘むだけだって」


 開花したばかりの、数日で花びらが落ちそうな咲き頃の花と、紫のクレマチス(鉄仙)も一緒に摘んで、納屋に保管している英字新聞に包んで優大に持たせる。


「小さな棘が多いから、ぎゅって握ったらだめだよ。おうちでも軍手をしていても刺さるからね。大事な職人の手なんだから、気をつけてお母様に渡してよ」

「うるせえな。わかってるって」


 ほら、いつもの優大君に戻った。そのほうがどうしてか舞はほっとする。


「あと、接客中に舞さん舞さんと呼ばれるの、すんごく笑っちゃう」

「だってよ、上川さんなんてそっちのほうが言えねえって! しかもこの前、そう呼んだら、オーナーと舞が揃って返事しただろ。紛らわしいから、おまえのこと名前で呼ぶしかねえじゃん。舞だって、俺のこと野立さんって呼んでくれるの、こっちも笑うわ!」

「そんな、お客様の前で、優大君なんて馴れ馴れしく呼べないじゃん。優大さんて呼んで欲しい?」


 急に彼が恥ずかしそうに顔を背けた。


「優大さんって、なんだそれ。そっちのほうがよそよそしいわ。野立でいい!」

「でしょう。野立さん」

「あああ、もうわかった。それ食って、早く寝ろよ! それから、うちの母ちゃんがカモミールの入浴剤つくってくれて喜んでいたから、その礼も伝えておけって言われていたんだよ」

「わかった。また日干ししているのがあるから、ガーゼに包んで渡すね」

「だから、催促じゃねえって。お礼だって! んじゃあな。お疲れ!」


 せっかく大人の男でもあるんだなと感じることができたのに、いつものやんちゃでつっけんどんな優大らしさで、さっと納屋を出て行った。


 薄暗くなった散策道を行く優大の背を、舞も納屋から出てそっと見送る。

 空にはもう満天の星、夜風の中、そよそよと宵闇の中で揺れる花々。そして、バラの香り。マダムハーディの白い花びらも優しくそよいでいる。


 優しい夜の始まりに溶け込む柔らかな草花のささやきの中、彼の背が遠のいていく。


「ううん。お礼はこっち。野立ベーカリーさんの協力がなかったら、うちのカフェ立ちゆかなかったもの。特に、優大君の信念みたいなチャレンジ精神がここまでしてくれたんだよ」


 あのまま、その納屋の扉に寄りかかって舞とまだ話し続けてくれたなら、そう言えた気がしてたのに。



「まだお仕事ですか。すっかり日が暮れましたよ」



 また。森に背を向けていた舞の後ろからそんな声。舞はいつもどおり笑顔で振り向く。

 そこにカラク様がいた。


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