④ 最悪の初対面 大喧嘩したアイツ
「また来るわね。時々、こちらには来ることになっているから」
「はい。お待ちしております」
「パンも美味しかったわね。あれ、お持ち帰りの購入ができると良いかもしれないわよ」
「そうでしたか……」
ちょっと意外な感想を聞いた。あのパンを買って帰りたい? 思うところがあり、すぐにはお礼を返すことができなかったが、気を取り直す。
「ありがとうございます。ベーカリー担当の者が喜ぶと思います。オーナーにも伝えておきますね」
「いまは咲き始めみたいね。小さな花が少しずつ色とりどり。かわいらしく揺れていて、向こうには羊の丘が見えて、まるで外国の絵本みたいね!」
わあ……、もう嬉しくて泣いちゃいそう。舞は本気で思った。父がここを選んだのはある意味正解であって、センスがあるということになる。そして自分の庭もこんなに褒めてくれて。
「これからはなにが咲く予定なのかしらね」
奥様の問いに、舞ははっとして思いついたことをすぐに告げる。
「この庭ですね。元々野生化した花が多くて、特に、あの森と庭の境目に、もうすぐ『リージャン・ロード クライマー』という小さめのピンクのバラが壁のように咲くんですよ」
「まあ、リージャン・ロード クライマーが!」
「ご存じなのですか」
奥様もバラの品種を聞いて、ちょっと興奮気に答えてくれる。
「私も庭いじりは好きなので、家でいくつか栽培を。でもリージャン・ロード クライマーは育てやすくてかわいらしいけれど、強すぎて大株になりやすいでしょう。そこそこのお庭では勇気がいるわね」
ガーデニングがお好きとのことで、さすがにご存じだった。だからこその奥様の興奮が舞にも伝わってくる。
「あ、昨年の夏に撮影したものがあるんですよ。よろしければ……」
自分のスマートフォンを作業エプロンのポケットから取り出し、その画像を奥様に見せてみる。奥様の目の色が変わった。
「すごいわね! 本当にこんなふうに咲くの?」
「いまカフェにしている建物は、元はスキー客などのためのペンションだったんですけど、当時のオーナーご夫妻がこの庭も元々お手入れされていて、そのときに植えたのでしょうか。それが野生化したようです」
奥様も言葉を失っている。舞が初めて、リージャン・ロード クライマーの壁に出会った時のように。
「咲くと、ほのかなローズの香りが漂います。よろしければ、その時期にも是非」
奥様が真顔でずいっと、舞に詰め寄ってきた。
「そちらのカフェ、SNSはされていないの? バラが咲いたらお知らせの投稿をしてくださるかしら」
怖いほどの真顔だったので、舞はうんうんと頷きたじろぎながらも『父が店の名で投稿しています』と返答し、そのバラが咲いたらお知らせの投稿をする約束もしてしまった。
奥様はお友達にも教えると張り切ったご様子で、舞にも激励をしてくれ、ご主人と共に庭の道を出て行く。舞もお見送りで、庭の端に立ち、車で花畑脇の道を去って行くご夫妻にお辞儀をして見送った。
そうしているうちに、ずっと黙ってそばにいたはずのカラク様がいなくなっている。
昨年の夏に土を掘って埋め込んだ石畳の道を急ぎ足で往くと、納屋の向こう、森へと続く小径に彼の背中を見つけた。
カラク様――。叫ぼうとして、出そうとした声を飲み込んだ。誰かに聞かれていたらどうしようと瞬時に思ったからだ。そして思う。どうして私は彼を追いかけているのだろう?
また来るよ。
彼の口元がそう動いたように見えたのは、舞の勝手な想像なのか。でも森の入り口で手を振り、彼はいつもの気品ある微笑みを見せ去って行く。
舞が森の入り口に辿り着いた時にはもう、その人はいなかった。
あなたは誰? 少なくとも二十年前からここにいるんだよね?
名前も思い出せないという彼は苦しそうだった。
調べた方がいい? そうしたら……彼はここで彷徨うことはなくなるの? それとも彼は好んでここで彷徨っているの?
また明日、その次、来るとも限らない。そして舞はいつの間にか待っている。虹の黒髪をもつ美しいカラク様を。
「誰かいるのかよ?」
その声に舞の心臓がドキリと跳ね、そっと納屋から庭へと振り返る。そこには白いコックコート姿の男が立っていた。
「
舞にしか見えないはずだから、カラク様を見送る姿が不思議に見えたに違いない。
彼もカラク様が見えない。父と彼が来週の焼き菓子メニューをカフェ店内で話し合っている時に、舞とカラク様はお茶をしていたことがある。そのときに、父以外の人間にも見えないことは確認済み。
茶色に染めた短髪頭をしている優大。彼の人を睨むような目つきは、いつも舞を苛立たせる。優大は、カフェの焼き菓子を作るようにと父が見つけてきた青年。地元パン屋の次男だった。そして彼はいつだって舞には口悪い。
「さぼってねえで、庭ちゃんとしろよ。父ちゃんと二人三脚でやらねえと、この店、成り立たねえだろ」
さぼってなんかいない。でも彼はいつも、おまえは真剣味がないとか、仕事を真面目に考えていないとか、偉そうに舞を
だいたい風貌も態度も元ヤンぽい。休日に父と打ち合わせにと店にやってくる時なんか、金のラインが入っている黒ジャージとか、厳つい派手な模様が描かれているパーカーを着てたりして、どうにも舞とは人種が違いすぎる。
「見ればわかるでしょ。誰もいないから。そっちもさっさとカフェに行って、オーナーと仕事をしたら」
自分がひとつだけ年上だからって、いつだって兄貴面で口うるさい。だから舞はいつも心が穏やかでなくなる。それはきっと優大も同じだと思っていた。舞を見る目が、彼も同じように苛ついている。決して、同世代の社会人としての敬いを感じさせない。それは舞も同じだった。
特にこの店に父が彼をスカウトしてきた頃、野生の草花で荒れていた庭を少しずつ、時間をかけて片付けている舞に彼はこう言ったのだ。
『いいよな。優しい父ちゃんが、働く場所も住む場所もなにもかも用意してくれて。お嬢ちゃんは、のんびり庭の手入れしをしていればいいんだもんな』――だった。
当然、舞の頭には血が上り、『なにも知らないくせに、ちょっと見ただけでそんなこという人間と口はきかない。二度と話しかけないで!』と突き返したいきさつがある。
しかも初対面の会話がこれだったのだ。その後から、舞は優大を徹底的に無視した。向こうもそのたびにムキになって、舞に聞こえるように嫌みを言ってきた。
しかし、父親が経営しているとはいえ、このカフェは現在、舞の職場で、優大は後から来たとはいえ、同じ職場の同僚ということになる。その険悪さを見かねた父が、二人の修復に乗り出す。
何事も穏やかに流す父が気の強い娘をいつになく厳しく説き、パン職人である優大の父親も息子を叱責し、どちらの父親も『親が関わっているからとて、仕事としての心構えが甘い』と舞と優大が揃っている場でも説教。いい大人になったはずの娘と息子も、父親が揃って厳しく迫ってきたので、互いに心から反省をし、その場を収めることが出来た。
正直、三十歳を目の前にして、父親同士が間に入らないといけない喧嘩なんて情けなかった。きっとアイツもそうだと思う。だからそのときは互いに気持ちを収め、同じカフェで毎日顔を合わせ、黙って仕事をすることに徹した。そこはまあ、大人でいられたのだろうが、大人げなかったのはお互い様だった。
優大との関係のはじまりは最悪で、だからいまでもお互いに構えている。
その後になって舞は知る。優大は口で損をしてきたらしい。父親や兄に倣って、自分もパン職人を目指したが、実家は父と兄が切り盛りするだけで充分とのことで、次男坊の彼は旭川市内の大手ベーカリー工場に就職させたとのことだった。しかし、子供の頃から気性が激しい悪ガキだったらしく、成人しても威勢がよすぎて人と衝突ばかり、一カ所の職場で長続きをしたことがないんだと、彼の父親が悩ましげに舞の父にこぼしていたのを聞いてしまったことがある。現在は致し方なく、彼を実家のベーカリー店に置いて、手伝いをさせているとのことだった。
「来週分の試食を持ってきたから、おまえも食えよ」
「いま休憩を済ませたばかりだから、後でいただきます」
舞はつんとした横顔を見せて、優大とは目を合わせないようにした。舞の素っ気ない態度などいつものことだから、優大のため息だけが耳に届き、黙って去った気配を感じて、やっと彼の姿へと振り返る。パン職人の白いコックコート姿の男の背。茶色の短髪頭の彼が青紫の花畑の中、一人歩いてカフェに戻っていく。
素直になれない舞だが、優大のことを見習いたいと思っていることはある。
優大は舞と違って何事にも感情的になるが、それはとても真剣だからだ。行きすぎる感情は彼にとっては『情熱』なのだ。そう、舞に足りないといわれた『情熱』を優大はこれでもかというぐらいに、あからさまに見せつける。すぐに大声ではりきるし、ムキになって怒鳴るし、ガンガンとものを言う。そんな彼を、父がいつもソフトに受け止め、時にはがっつりと向き合って静かに諭して、熱血な青年の荒れる心を鎮めてきた。父にコントロールされながら、優大は食事用のパンに、スイーツの焼き菓子を作り続けてきた。開店二年、優大はついに客に『買って帰りたいパン』と言わせたのだ。つまり、結果がついてきた。
それを――、舞はさきほどすぐに優大に伝えるべきだったのに、言えなかった。嫉妬じゃない。教えたい。でも、素直になれないのだ。つい口が強くなって……。彼はいま、舞にとっては『同僚』なのに。
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