③ カラク様のささやき

 舞もガーデンに戻って手入れの仕事を始める。昨年からコツコツと石畳風の散策道を作ってきたが、そこをゆっくりとお二人で何度も立ち止まって、咲き始めた初夏の花を眺めている。スマートフォンを取り出し奥様はお花をいくつも撮影していた。お邪魔にならないよう気配を感じさせない離れた場所で、舞は雑草取りを始める。


 午後の爽やかな風が、青い空白い雲の下にあるガーデンにそよぐ。


「あなたが育てたものを慈しむ光景ですね」


 午後の仕事をする舞の側にずっといるカラク様が、長めの美しい黒髪を風に流して、ガーデンの向こうへと目を細めている。そこでは、誰の邪魔もない静かなガーデンで二人、北国の風と空気と自然を堪能しているご夫妻の姿があった。


「手入れを初めて二年、開店一年目の去年は散々だったので、開店二年目の今年にやっと全面に咲くような庭に整えられて良かったです」


 舞もほっとする。父の美味しい料理でお腹いっぱいになって、食後は舞が丹精込めて手入れをしたガーデンでくつろいでくれる笑顔が見られるのは、こんなにも格別だったのかと初めて感じている。花のコタンではなかったものだった。


「どうしてでしょう。私、初めてこの仕事をしていて良かったと感じています」


 こんな素直に人に気持ちを打ち明けたこともなかった。いまはすぐ側に、美しい男性が優しく舞の言葉を聞いてくれている。優美な微笑みで、静かに頷いて。


「それは舞が自分一人の力で初めて勝ち得たものだからではないのですか。僕はそう思います。きっと僕も、あなたが咲かせた花に惹かれて来てしまった気がします」


 なんだか。目頭が熱くなってきた。嘘だ、私また思わず泣いている。一昨年、二十七歳の夏に父がいきなり生まれ育った家を売らなくてはならないと言い出したあのときのように。素直に涙が出せるのは意外と『信じられる他人だった』というのを初めて知った時に似ていた。しかも今日一緒にいる彼は実態がなく、どんなに心根を吐露しても誰にも知られることはない。


「初めてです。私、自分でちゃんと出来たというの……初めてです、きっと」


 自立をしたいと肩肘を張っていた時より、父が与えてくれた下地があれど、この庭は紛れもなく、舞がいままで積み上げてきたキャリアがあればこその成果ではあった。そして初めて勝ち得たという実感……。まだ、本当に全てを自分一人でやったわけではないけれど。


「あ、こちらにやってきますね。あのご夫妻」


 青紫のネペタが密集している散策道にいる舞のところへと、奥様が近づいてきた。


「このガーデンもこちらのカフェでお手入れをされているのですか」

「はい。私がしております」


 急ぎ足で歩み寄っていた奥様の後を、ご主人がゆったりと追ってくる。青紫の花々が両脇に揺れる細い石畳の散策道をたどって、舞の目の前までやってきた。カラク様が舞のすぐ隣で、美しい黒髪を風によそがせ爽やかな佇まいで寄り添っているが、やはり奥様には見えていないらしい。


「素敵ですね。こんなお庭のカフェがあるなんて知りませんでした」

「昨年の春にオープンして二年目なんです。昨年はこの庭の半分しか咲かすことが出来ませんでした」

「お若いのにお一人で? それともあのハンサムなオーナーさんと……?」


 少し不思議そうに尋ねられる。父が二十代である女性の父親に見えないというのはよく体験してきたことなので、変な誤解をされてもと、舞ははっきり告げる。


「オーナーは私の父です。エルム珈琲で働いていました。私は札幌の花のコタンで園芸の仕事をしおりました。父がここに住みたいと言い出しまして、ついていくことにしたんです」


『まあ』と、奥様は感嘆の声を漏らし、なおかつ、舞と剛がどんな関係かしっくりしたようだった。


「どうりで。コーヒーが美味しかったのは、エルム珈琲さんで働いていたからなのね。そしてお庭も。花のコタンの職員さんだったのね。納得です。勝手に写真を撮ってしまいましたが、SNSに掲載しても大丈夫ですか」

「もちろんです! 紹介してくださると父が、いえ、オーナーが喜びます」


 お父様孝行ねとまで言われ、舞もまんざらでもない気持ちになってしまった。隣にいるカラク様も、にっこりと嬉しそうに微笑んでくれている。


「もったいないわね。ここだと車通りも少ないでしょう。私たちはたまたまこちらの地方に親戚がいて、今日もたまたま訪ねてきたところで、通りかかりにこちらのカフェに気がついたものですから」


『はあ、そのとおりなんですけれど』と、舞も言葉を濁してしまう。


「札幌にお住まいだったのなら、あのあたりに幾らでもお客さんが集まりそうな場所があったでしょうし、あれだけ美味しいお料理とコーヒーと、素敵なセンスのお店ならすぐに人気のカフェになった気もしますよ。エルム珈琲でお勤めだったとお聞きして、なるほどと思ったほどです。また、お父様はどうしてこちらに……」


 どうもこのような地方に、それだけ気に入っていただけるカフェがあるのが腑に落ちないと奥様は言いたそうで、悪気がないのだと舞もわかっているが、根掘り葉掘り聞かれるので戸惑った。そのせいか、追いついてきたご主人が奥様を窘める。


「こら。人様のご事情をそんなにお聞きしてはいけないよ」


 穏やかで柔らかな雰囲気のおじ様だった。六十代ぐらいだろうご夫妻が並ぶ。ご主人の言葉に奥様が少しむくれつつ、でも舞を見て頭を下げてくれる。


「ごめんなさいね。本当に思いがけず、素敵な時間を過ごせたものだから」


 もうそのひと言だけで、舞の心が嬉しく沸き立つ。その瞬間だった。ずっと隣で黙ってニコニコと奥様の話を聞いているだけだったカラク様が、舞の耳元に囁いた。


『素直に理由を話してみるのも良いのでは』と――。意味がすぐにわからなかった。


『剛さんがなぜ、ここをスミレカフェと名付けたか、ですよ』


 耳打ちをされたが、その進言に舞は戸惑う。父がここを選んだ話をすると、死んだ母のことを話さねばならず、ともすればお客様なのに同情を引くような『まあ、可哀想なお話』と気を遣うだろうから言いたくなかった。いままでも、とにかくそうだった。


『このお店の売り込みにならなくてもよいのですか』


 カラク様のささやきに、再度、舞は首を振る。まだ彼も諦めずに、徐々に抑揚のない言い方で、舞に迫ってくる。


『同情とか可哀想と思われるのは、舞の勝手な意識では?』


 いつも穏やかで優美な微笑みを見せている彼が、初めて笑っていない目を見せた。しかも、そんなはっきりと『同情されるのが嫌、私は可哀想じゃない』という、いつのまにか染みついていた自分の『意地』を晒された気持ちにもなって、舞は一瞬呆然とした。可哀想と思われることをはねのけておいて、本当は可哀想を思われると決めつけていたのも、舞自身だったのだ。それはある意味『傲慢ではないか』とすら自覚してしまったのだ。だから――。


「あの、」


 奥様に舞は、思い切って告げてみる。


「このカフェの建物の周りに、春になるとスミレの花がびっしり取り囲むんです。父がそれを見て一目惚れしてしまい、この土地を買うことに決めたそうです」

「それはまた素敵な光景ね。見てみたくなるわ」


 奥様もカフェを遠目に見て、春先のカフェの姿に思いを馳せてくれているようだった。


「私が五歳の時に他界した母が『すみれ』という名でした。父はそこに、母を見たんだと思います。再婚もせず、私を男手ひとつで育ててくれました。私が独立して、父がやりたいと言い出したのは、この土地でのカフェです。たぶん、父はあのスミレが咲くのを毎年眺めていきたいんだと思います。そんな父の好きなことに付き合いたいと思って、娘の私もついてきました」


 それが都市部の札幌での好条件立地を選ばなかった理由だと告げた。

 奥様も、後ろにそっと控えて花と羊の丘をじっと眺めていたご主人も、なんとも言えないとばかりに、眉尻を落とした。


「ごめんなさい。やはり主人に言われたとおり……、興味本位で私ったら……」


 そうこんなお顔をされると、相手も気遣うばかりなので、舞は言いたくないのだ。しかもお客様にそんなこと……。舞は黙って側にいるだけのカラク様を睨みたくなる。でも彼がじっといつにない真顔で、奥様を見据えている。なにか念じるかのように?


「でも、やっぱり素敵なお父様だわ。いまでもお母様のことがお好きなのね。しかもお嬢様を立派にガーデナーになるまでお育てになって、いまはこうして一緒にお仕事を。きっとお母様とお嬢様と一緒にいる感じられることが、お父様のお幸せなのね」


 奥様の言うとおりなのだろう。舞もそっと頷く。


「私もそう思っています。父の好きにさせてやりたいと思っています。このカフェが少しでも長く続くよう、私は父が見つけてくれたこの庭を育てていきたいと思っています」


 奥様とご主人が『頑張って』と、まるで娘か孫でもみるかのように、感傷的な眼差しで励ましてくれた。舞は複雑な気持ちになったが、カフェと父に対する思いは素直な嘘偽りないものだから、間違っていないことを伝えられたと思いたい。

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