② お名前は?
お茶の後、舞は先ほど切り取ったアリウムとオリエンタルポピーを、シンプルなガラスのフラワーベースに活ける。
父は厨房にてランチの準備を始めている。たまに遠出で来ている外回りのビジネスマンが寄ることがあるので、いつ来客があってもいいようにと支度を始める時間だった。
舞は店の中を整える。紫の丸いぽんぽんの花と、ひらひらとした花びらのポピーを活けている側にも彼がいる。
父が忙しそうにしている間に、舞は彼と話す。独り言を言っているように見られないためだった。
「お名前もわからないということでしたが、それでもなんとお呼びすれば」
敬語になるのは、おそらく彼が何十歳も年上だと思ったのと、彼の漂う気品が舞をそうさせていた。
側にある椅子に行儀良く腰をかけ、でも優雅にゆったりと、花を生ける舞を見守っている。その眼差しは優しく包み込まれるようで、舞は嫌ではなかった。
「うーん、なんて名前だったのか」
彼が顎に手を当て、首をかしげ考え込む。最初は唸っているかと思っていたら、その目が徐々に悲しげな色に変わったように舞には感じた。
「僕は本当に、どうしてここにいるのでしょう。どうしてあなたにだけ見えるのでしょう。どうしてオレンジティーが好きで、この家に住んでいた女性を知っていたのでしょう。彼女も僕が見えていました。僕が来ると何も言わずに優しい微笑みでお茶を入れてくれて……」
「その女性にはなんと呼ばれていたのですか」
「それも、……なんだったか……」
二十年前のことも思い出せないらしい。うんうん唸っている彼がふと呟いた。
「カラ? カラ……ク……、カラクでいいかな」
「え? 思い出したんじゃないんですか」
「うん? いまぽっと頭に浮かびました。では、舞にはカラクと呼んでもらいましょう」
自分の名も覚えていなくて苦し紛れに思いついた名前でいいなんて。舞は釈然としなかったが、アリウムの大玉の向きとバランスを整えながら思う。自分のことが思い出せないなんて辛いはず。その辛ささえも通り超してしまい、彼はただ花を見にやってきて、懐かしいお茶を楽しむだけで優しく笑っている。
「わかりました。カラク様、よろしくお願いします」
「そんな仰々しいでしょう。様なんて」
「いえいえ。当カフェとお庭をお気に召してくださった、大事なお客様。それに。なにやら随分『お兄様』の雰囲気をお持ちなので、念のためです」
もしかしたら何十年どころか、百年ぐらい前の人かもしれない、となると爺様かもしれないけれど、そんな美しい爺様いないだろうから、お兄様にしただけ。
そこでカラク様が珍しく『ぶはっ』と豪快に笑った。
「随分お兄様って! でも、確かにそうかもしれない。うん、わかりました」
『随分』の意味がカラク様にも通じたらしい。あなたは爺様かもしれませんが兄様としておいた舞の意図すらも彼は見抜いて笑っている。あまりの高らかな笑い声だったので、父に聞こえるのではないかと思い、テーブルで花を生けていた舞は焦って、厨房カウンターへを視線を向けた。
やはり父も何か不審に思っているのか、舞を見ていたようで目線が合った。
「舞、どうした。ぼんやりして。やはり疲れているのでは? なんか外でカラスがずっと鳴いているなあ」
カラス? 舞には聞こえなかった。窓の外を見ても鳥の影も見えなかったので、父が言うことに舞は訝しむ。
カラク様は相変わらず、楽しそうにして店の中を歩き回っている。
窓の向こうには、サフォークの羊たちが丘の牧場で悠々を過ごしている姿が見える。その丘には『サフォークの丘 ひつじ館』がある。そこで飼育している羊はサフォークだけではなく羊毛種もいて、その館の中では昔ながらの手紡ぎで羊毛を生産している。
その羊毛を染めて編んで衣料品にして販売もしていた。そこの工房の商品を父のお店にも置いてくれることになり、ついでだからと父が地元の老人会や手作りサークルの作品も販売しましょうと、ちょっとしたクラフト商品も置いている。
田舎のカフェや道の駅でよく見る『手作り品コーナー』そのものが、レジカウンター付近に設置されている。カラク様はその商品もいつも物珍しそうに眺めている。時には手に触れそうにしていて、でも触れないからそっと指先を置いて眺めているだけ。そんなふうにして、彼は舞のところにやってくると、一時間ぐらいカフェと庭を散策して楽しそうにしている。
花を活けるのを終え、舞はカラク様の側に行く。
彼も舞の手が空くのを待ていたようで、近くに来てくれたことで嬉しそうに微笑んでくれるから、舞も悪い気がしない。
「これ。なんでしょう。白くて、チョコレートという菓子に似ていますね。これはオレンジ? 剛さんが私が飲むお茶に入れていた乾かした皮みたいなものでしょうか」
「そうですね。そちらはドライフルーツです。オレンジを輪切りにしたものを乾燥させ、それを食べたり、そうして飾りに使うこともありますね」
カラク様が見ているのは、手作りサークルの奥様方がこしらえた『ワックス・サシェ』だった。
蝋を溶かして、そこにアロマオイルを混ぜ、好きな形の型に流し込む。飾りにドライフラワーやドライフルーツも乗せて、冷やして固まると香りがする固形の蝋ができあがる。アロマオイルを混ぜているので、良い香りが続く。ドライフラワーやドライフルーツで飾るとインテリアにもなる。紐やリボンを通して部屋の壁に飾っても良いし、洗面台やトイレの芳香剤にしたり、タンスに入れて香りを楽しんだり使い方はいろいろだった。
カラク様にそのまま説明すると、彼がまたわくわくしているかのように、黒い目を煌めかせている。
「蝋で作ったワックス・サシェ。香りがするのですね……、えっと……」
彼がそっと白い蝋のバーに鼻先を近づける。そっと目を閉じ、彼が息を吸い込む。目を閉じると、美しく長い睫も虹色に艶めいていて、舞は見とれてしまった。やがて、はっとしたようにその目が開く。
「オレンジの香りがします」
「だからオレンジの輪切りが飾ってあるんだと思います」
「なるほど。良い香りです。持って帰りたいです」
「どうすれば、持って帰ることが出来ますか?」
舞が飲めば食べれば彼に通じるように、舞のものになれば彼のものにもなるのではと思ったのだ。だが、彼が寂しそうに首を振る。
「いえ、持って帰れませんので。このままでよいのですよ」
寂しそうに言われた。舞もどうしてか胸が痛んだ。
「カラク様は、どの香りが好きですか。ラベンダーなんかもおすすめですよ」
よくあるアロマオイル数種でいくつか作られている。ひとつひとつ香りをかいだ彼が選んだのは『ローズマリー』だった。舞はそれを手にして、キッチンにいる父に声をかける。『オーナー、これ私が欲しいから買います』と。父も快く受け入れてくれ、レジで会計をしてくれた。それを舞はカラク様がよく座る窓席の壁につるした。
「はい。これで私とカラク様のものです」
彼が目を丸くして、でもすぐにあの麗しく優しい笑みを見せてくれる。
「ありがとう、舞。申し訳ない」
「いえいえ。いつもカラク様が、やっとの思いで咲かせた庭を、誰よりも嬉しそうに見て歩いてくださるから」
「ずっと昔から、花が好きなのです。花が好きすぎて。花を見ているとなにもかも忘れてしまうのです」
また哀しそうに眼差しが伏せられた。綺麗な虹色の睫が少し震えている。
もしかして。今年になってやっと敷地全面に花が咲きそうだから、この人が庭に現れるようになったのだろうか? そのガーデンに惹かれたがために、彼はなにかがあって大事なことを思い出せないのだろうか。思い出させるなら、花を見なくてすむように庭から追い出さなくてはならないのだろうか。こんなに好いて来てくれるのに? 舞は複雑な気持ちになる。きっとそれは、自分自身も訳もわからずここに居着いているカラク様も、もどかしく思っているのだろう。
「ですが、いい香りです。またここに来る楽しみができました」
白い蝋の板に乾燥させているローズマリーが飾りに埋め込まれているワックス・サシェ。チロリアン風の赤いリボンで吊したそこで彼がずっと見つめて、香りを楽しんでいる。そうして彼がうろうろしていても、舞も父もそれぞれの仕事に没頭する。
今日は幸い、ドライブで『サフォークの丘 ひつじ館』へ立ち寄ったという年配夫妻が、麓の道を走っていたら、『スミレ・ガーデンカフェ』の看板を見つけたとかで来店してくれた。
父が準備しているランチメニューはひとつだけ。『サフォークのジンギスカン鉄板焼き』のみ。士別市の代名詞でもある顔が黒くて体毛が白いサフォークという羊の肉を使ったジンギスカンだった。ラム肉と野菜を一緒に焼いて、ざっとタレをかけて鉄板プレート皿ごとお客様に出す。それだけの料理だが、ラム肉が特産である士別市らしい一品でもあった。父としてもそれほど手間もコストもかからないため、ランチメニューとして選んだという。あとはベーカリーコーナーから惣菜パンやスイーツ系のパンをバイキング的に選んでもらい、父お得意のドリンクを足してもらうのが『スミレカフェ・ランチメニュー』になっている。
そのご夫妻が『おいしい、おいしい』とお互いにほくほくとした笑顔で会話を交わしている。コーヒーも美味しいとわざわざ伝えてくれ、父も嬉しそうだった。
そんな数少ないお客様のランチが終わると、今度は『素敵ね』と奥様とご主人が共にガーデンの散策を始めた。
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