第二十五話 その名を呼んで
その瞬間……おそらく一、二分ほどだっただろうが、賢嗣にとっては永遠にも思える時間だった。
ようやく、かちゃりと鍵の開く控えめな音がして、扉がほんのわずかに動いた。焦れったいような動きだったが、賢嗣は自分が開けたいのをぐっと我慢する。彼女自身に開けてもらわなければ意味がないのだ。彼女の本心を確かめたいのだから。
ぎぎ、と軋んだ音と共に隙間から暗闇が見える。ちょうど、賢嗣の背後、頭上高くに昇った月が光を伸ばして、その闇を淡く照らし出した。そして、小さく身体を丸めた彼女の青白い顔と、乱れた髪が足下に見えた。その姿を目にするだけで胸がはちきれそうになった。
「……ああ」
感に耐えかねたように地面に膝をつき、愛おしい彼女の顔を真正面に見た。
「やっと、会えましたね」
彼女は応えない。不安そうに、怯えたように眉を寄せて、目を伏せている。痩せた身体は雨に濡れた猫のように震えていた。思わず抱きしめたい衝動に駆られるが、こらえて、賢嗣は羽織っていたカーディガンを脱いだ。
「寒そうですね」
と、褪せた色のワンピースの肩にふわりとかける。彼女ははっと顔を上げた。目を見開き、何か言いたげな顔をしたが、すぐにまた顔を伏せてしまう。
二人の間を夜風が通りぬけていく。もうすぐ十一月に入ろうとしているので、涼しいと言うより、肌寒かった。
「もしよかったら、玄関だけで構いませんから、入れてもらえませんか。その方が、扉も閉められますし」
そう提案してみたが、彼女は頑なに首を振った。
「だめ。すごく、汚いの……狭いし、何もないし……」
「すみません、僕、この間見ましたけど、良い部屋ですよ」
苦笑しつつ、賢嗣は頭を掻いた。
「僕の借りてる部屋の方が狭くて、物が多くて汚いです。忙しいって言い訳して全然片付けられなくて」
「そういうことじゃないの」
さきほどまでよりいくらか鋭い声が返ってきた。彼女は顔を上げないまま、低く呟く。
「本当に、何もないの。何もかも、なくなってしまったのよ。あの館にあったものが、すべて。そんなみっともない部屋を、あなたに見せたくない」
この間バイトで入ったので、運び込んだ家具が必要最低限のものだけだったことは覚えていた。思い返してみれば、執筆に使うパソコンさえ見当たらなかったように思う。
「何かの事情で、手放してしまったんですか」
「……そのとおりよ」
自棄になってしまったのか、自身を嘲るような皮肉めいた声で彼女は続けた。
「元々、すべてわたしの力で手に入れたわけじゃないの。父が会社を持っていて、毎月たくさんのお小遣いをくれていた。それを使って買い集めていただけだったの。だけど、会社が倒産してから借金地獄になって……」
そこで彼女の背がぶるりと震えた。本当に寒そうだ。
「お話の続きを聞きたいんですが、このままだと風邪を引いちゃいますよ」
と、努めて優しく声をかける。
彼女はぎゅっと唇を引き締めて眉を寄せ、おずおずと立ち上がった。
「……玄関までで、いいかしら……?」
消え入りそうな声に、賢嗣は微笑を浮かべてうなずいた。
「はい。ありがとうございます」
彼女は賢嗣に背を向け、急いで奥の襖を閉めてしまった。そして、ゆっくりと振り返る。
「どうぞ」
「失礼しますね」
中に入るのはバイトの時以来だ。小さな玄関と、すぐ隣に狭いキッチン。コップとお皿が一つずつあるだけで、ガスコンロさえ置かれていない。借金地獄、と彼女は口にしたが、この八年の間に一体どんな目に遭っていたのかと考えるだけで胸が痛んだ。
彼女はつっかけに足を入れて玄関の段に腰掛けた。賢嗣もそれに倣う。扉も襖も閉めてしまった玄関は真っ暗闇で、咄嗟に彼女との距離感がつかめず、肩と肩がわずかに触れあってしまった。
「あっ」
小さな声が上がる。彼女がはっと息を呑み、恥ずかしそうに俯くのが気配でわかった。
キッチンの正面にある小さな磨りガラスが月明かりに淡く光って、目を慣らしてくれる。そのおかげで、背中を丸めた彼女が賢嗣のカーディガンの胸元をぎゅっと掴んでいるのが見えてきた。それだけで、胸がきゅっと甘苦しく痛んだ。
「さっきの続きですけど」
と、一呼吸置いて様子を窺う。彼女は俯いたまま反応しない。続けても大丈夫だろうか。
「お家が今、大変なんですね。それで、もう小説を書かなくなってしまったんですか」
「ちがう」
「じゃあ……」
「さっきも言ったでしょう。デビューできたのは、わたしの実力じゃないの。父の権力と根回しよ」
苦々しげに彼女は吐き捨てた。
「そんなことも知らないで、わたしには才があると長年勘違いしていたの」
「勘違いじゃないと思いますけど」
彼女の卑下する言葉が悲しくて、賢嗣は思わず身を乗り出していた。
「僕、自慢じゃないですが本を読んだ冊数だけはかなりの数なんですよ。昔は冒険物ばかり好んでいましたが、だんだん視野が広がってきて、いろんなジャンルに手を出しているんです。だからいいもの悪いもの、ささるものとささらないもの、はっきりとわかります。そしてあなたの本は、僕の琴線に深く触れました。あなたに才がないなら、僕を感動させるなんてできるはずありません」
さっきも言ったじゃないですか、と付け加える。彼女はぐっと詰まったようになったが、でも、だけど、と未だぶつぶつ呟いているので、とうとう焦ったさに限界が来て、
「あなたが認められないなら、認められるまで何度だって言いますよ」
と、彼女の手をとってしまった。
自分でも思いがけない行動だった。久しぶりに触れた彼女の手は氷のように冷たく、荒れてかさついていた。今一体どんな生活をしているのか、苦労が滲み出ているようで、賢嗣の胸が痛む。
「はな、して」
弱々しい声で彼女が首を振る。しかし賢嗣は離さない。ぐっと力強く握り直す。
「何度でも言います。僕はあなたの物語が好きです。あなたのつくる世界が好きです。あの館も、あなたのこだわりが溢れていたから好きだったんです。アンティークの家具があったからとか、ロリィタがあったから、じゃなくて、……そこに、あなたがいたから」
言いながら、鼻の奥がつんとしみた。脳裏にあの頃の映像がフィルムのように流れ出している。
「あなたがいたから、特別だったんです」
小説について言いたいだけだったのに、気づけば彼女への思いの丈をぶつけてしまっていた。案の定、彼女は呆気にとられたような顔をしていたが、
「……ずるいよ」
と蚊の鳴くような声で呟いた。見開かれた大きな眼がみるみるうちに潤みだし、大粒の涙が頬をつたって滴り落ちる。
「そんな風に言われたら、信じてしまう」
「嘘なんかつきません。信じてください」
「……わたしだって……わたしだって……」
しゃくりあげて、言葉にならない。しかし賢嗣には、そこに続く言葉が見える気がした。さっきも彼女は言ったのだ。昔から、賢嗣自身を見ていたと。
「でも、だめなの。やっぱり、こんなわたしが、今もあなたの隣にいるなんて、許されない……」
「あなたのコレクションが、全部なくなったからですか? お金がないからですか? もしそうなら、僕に手伝わせてください」
「何を言って……」
「あと丸一年かかってしまいますけど、僕も就職するので。そしたらまた、一から集めていきましょう。一緒に」
――あ、しまった。これじゃまるで……
賢嗣が気づくと同時に、彼女もまた戸惑った顔つきになる。
「……からかわないで」
「からかってなんかいません」
改めて、彼女の手を握り直す。冷たかったその手は賢嗣の熱に染まるように温かみを帯びていた。
「真剣に、言いました」
「どうしてなの。借金地獄で出版社からも見放されたっていうのに。そこまでする価値がわたしにあるの」
「ありますよ。というか、昔、あなたが僕を……僕の価値を見いだしてくれたんですよ」
賢嗣は、懐かしむように目を細めた。
「当時の僕には、本当に何もありませんでした。ただ本を読むしかできない、何の取り柄もない僕は、いつも母から兄と比べられて生きていたんです。気づけば諦め癖ばかりついた、根暗で陰気な人間になってしまっていました。そんな僕を光で照らしてくれたのが、他ならぬあなたでした」
今でも鮮明に思い出せる。屋敷に招き、たくさんの芸術に触れさせてくれたこと。図書室の本を好きに読ませてくれたこと。普段は見ることができない奇跡のような星空を見せてくれたこと。ロリィタを着せ、姉妹だと言って大切にしてくれたこと。絵の描き方を教えてくれたこと。
「あなたがいたから、僕は今、こうして前向きにひたむきに生きてこられました。だから今度は僕が、あなたの力になりたいんです。あなたに甘えてばかりで無力だったから、頼ってもらいたいんです」
そこで一呼吸置いた。次の言葉を発するべきか、迷う。だけどきっと、彼女には十分に伝わっているはずだ。自分の中の、この想いが。
「もう、ロリィタは着られませんけど……姉妹にはなれませんけど……別の形になら、なれます」
彼女が、再び顔をうつむけた。
決意はしたものの、言い過ぎてしまったか、と自身の言葉を省みる。その惑う賢嗣の手を、ぎゅ、と細い指が握り返した。
「どうしたら、そうなれるの」
思いがけない返答に、賢嗣は口元をほころばせる。
「簡単です」
背をかがめ、涙に潤む彼女の瞳を覗き込みながら、優しい微笑を浮かべる。
「あなたのこと、真里さんと呼ばせてください」
彼女の呼吸が一瞬止まったのがわかった。だが賢嗣はもう、ひるまない。
「嫌なことを思い出す名前なんですよね。でも、ヒマリさんも、作家の暇璃さんも、全部あなたから生み出されたもので、僕にとっては特別で素敵な名前です。だから、上書きしましょう。思い出を変えてしまえばいいんです」
彼女は黙って目を伏せた。それから、意を決したように、震える唇を小さく開いた。
「呼んでみて」
か細い声に応えるように、賢嗣はその手を握りしめたまま、「真里さん」と口にした。彼女が肩をびくかつせ、ぎゅっと目を閉じる。
「真里さん」
怯える彼女を優しく包み込むように、温かい声で、賢嗣は繰り返した。
「真里さん」
その時だった。彼女が手を振り払い、その身体ごと賢嗣の胸元に倒れ込んだ。
「真里さん、どうし――」
彼女は賢嗣の胸に額を押しつけ、うわああ、と幼子のような声をあげて泣きだした。初めて自分を頼ってくれた喜びと、その姿の愛しさで、賢嗣はたまらず彼女の背に腕を回していた。
かつて、何度か彼女の腕に抱かれたことがあった。あの時は身体が小さくてそうなるしかなかったけれど、今ならこうして彼女を包み込むことができる。それが心の底から嬉しかった。
「よかった」
しゃくりあげる彼女の背をさすり、長い髪を梳くように頭を撫でる。
「ずっとこうしたかった……」
かつて未熟だった自分の姿が脳裏に甦る。彼女をエスコートしたい、と強く願ったときの自分。その小さな頼りない背中に、賢嗣は心の中で語りかける。
やっとできるようになったよ。今までいろんなことがあったけど、今こうして、彼女を腕に抱けている。もう、絶対、離したりしないよ。
その朧気な映像に靄がかかり、いつしか、青いロリィタを着た白銀の髪の少女の姿になっていた。
アリスはこちらを見つめて、美しく微笑んでいる。そしてくるりと背を向け、スキップするような足取りで、部屋の暗闇から窓の外へすうっと抜け出ていった。
さよなら、アリス シュリ @12sumire35
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