第二十二話 マリとヒマリ
翌日、日曜日だが朝六時に起床する。八時に間に合うよう、引っ越し業者の制服や着替えの入った鞄を持って、T大最寄りの駅に集合する。今日も賢嗣が一番乗りだ。そのうち、同じ派遣バイトらしき茶髪の青年がやってきて、ぺこりと頭を下げた。
「ちわっす」
「おはようございます」
そんな挨拶を交わしていると、眼前に引っ越し業者のロゴ入りトラックがやってきて、ゆっくりと停車する。
今日の仕事は賢嗣を含めて三人だけの作業になるらしい。トラックに乗り込むと社員の男性が教えてくれた。彼は明智といって、以前にも一緒に仕事をしたことがあり、気さくに話しかけてくれた。
「今日はさ、荷物少ないんだよね」
運転しながら明智が教えてくれた。そろそろ秋も終盤になってきたというのに、Tシャツから剥き出しの腕は真っ黒に日焼けしている。
「二件、あるからよろしくね」
「はい」
トラックの座席に三人並んで座っている。賢嗣と青年はその場で制服を上からごそごそと被り始めた。
「そうそう、一件目はほんとにすぐそこなんだよ」
ハンドルを切りながら明智が言った。
「ほら、あそこ」
賢嗣も青年も、前方を見た。
眼前にはのどかな住宅地が広がっている。そこから少し離れたところにぽつんと平たいアパートが建っていた。各階の柵や階段の手すりの塗装が剥げ落ちているのが遠目にもわかるほど、かなり古びていた。目の前に遊具のない小さな公園があるが、人の気配がないので打ち棄てられたような寂しい雰囲気が漂っている。
「依頼主さん、来られるから、挨拶しっかりね」
「はい」
間もなくトラックはアパートの前に横付けに停車した。事前に明智が連絡を入れていたらしく、依頼主と思われる人物が建物の手前に立っている。
「おはようございます。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
明智が代表で挨拶を述べる。賢嗣も青年も、帽子を取って頭を下げた。
「よろしくお願いします……」
返ってきたのは、か細く小さな震え声。まるで幽霊のような覇気のない声に、賢嗣は訝しげに目を上げる。
依頼主は女性であった。白いブラウスに、褪せたような水色のロングスカート。腰まである長い黒髪。俯き加減で前髪も長めなので、表情がよく見えない。
「なんか、あの人、ユーレイみたいっすね」
荷物を運ぶ際、茶髪の青年がぼそりと呟いた。「絶対ヤバい人っすよ」
「そんな風に言っちゃだめだよ」
窘めながら、実は賢嗣も、依頼主の女性について頭の片隅に妙なひっかかりを覚えていた。その感覚がなんなのか、しばらく考えてもわからなかった。
明智の言ったとおり、荷物は拍子抜けするほど少なかった。布団が一組、冷蔵庫や電子レンジと言った家電と、一人暮らし用の小さなコタツ。そして、座椅子。
座椅子を運ぶとき、賢嗣ははっとした。それは背もたれの角度を自由に調節できる可動式だった。
――なつかしいな。
コタツの傍に置き並べながら、思わず口元が緩む。かつてヒマリと共にすごした図書室で、互いに背もたれを倒して星空を眺めたことを思い出す。
ふと、依頼主の女性の姿が脳裏に浮かんだ。そういえば綺麗な髪をしていた。立ち姿といい声色といい、確かに陰鬱で儚げな雰囲気をしているが、黒髪はまっすぐで艶やかだった。まるで、記憶の彼方の彼女のように……
――いけないいけない。
その場でぶんぶん首を振る。作業に集中しなければ。
荷物を運び終えたので、賢嗣と青年は養生テープや緩衝材を取り外していった。その間に、戸口では明智が書類の挟まったボードを女性に手渡していた。
女性が添えられていたペンを持ち、サインをしようとする。しかしその指はひどく震えていた。
「あっ」
小さな声が上がり、ペンが手から滑り落ちる。からん、と床に転がって、まさに床のテープを剥がしていた賢嗣の目の前でぴたりと止まった。
さっと手を伸ばし、ペンを手に掴む。同時に賢嗣は上を見上げていた。こちらを見下ろす女性の顔を、初めて真正面に捉えることができた。
どくん、と心臓が大きく跳ねる。
その一瞬が、まるで永遠のように思えた。長い黒髪の間から覗く女性の顔――血色が悪く青ざめているが、見開かれた大きな眼と、小さく隙間を空けた唇は――
「大丈夫ですか?」
賢嗣は努めて平然と立ち上がり、ペンを手渡していた。
「はい、すみません……」
女性は、かわいそうなほど申し訳なさそうに何度もぺこぺこと頭を下げる。
作業漏れや忘れ物がないか、最後の確認している間も、賢嗣の心臓は未だばくばくと激しく脈打っていた。不審に思われるのを承知で、ちらちらと女性の方を窺ってしまう。
肩身狭そうに丸められた背中と、常にうつむけられた顔。賢嗣の連想する女性とこの女性とでは、まったく雰囲気が違っている。こちらはまるで生気がない。賢嗣の知る女性は常にいきいきとしていた。いつも前を向いて、派手な衣服で胸を張って町中を歩き、人の目をものともしない、そんな女性だったのだ。
――見間違い、だろうか。
だが、見間違えることがあるだろうか。あれから八年、ずっと想い続けていた人の姿を……
やがて全ての仕事が完了し、賢嗣たちはもう一度女性に礼をしてからトラックに乗り込んだ。女性は律儀にも、トラックが走り出すまで見送るつもりのようで、アパートの前にぽつんと突っ立っている。
「ほんっと、ブキミっすね」
扉を閉め、声が外に漏れなくなってから改めて青年がこぼした。
「見てくださいよあれ、心霊写真みたいじゃないっすか」
「そんなこと言うもんじゃないよ」
明智が真面目な顔でたしなめる。それからトラックのエンジンを入れた。
「じゃ、その辺のコンビニで休憩ね。休憩終わったら次があるから」
「はーい」
明智の手が書類の入ったクリアファイルをメーターの上にぽんと置いた。賢嗣の目が、思わずそれを追う。
揺れるダッシュボードの上で非常に見づらかったが、賢嗣は、その下部にある蜘蛛の糸のように細い字を読み取っていた。
――中島真里。
「どうしたの横澤君。お腹でも痛い?」
は、と我に返る。気づけば、両側から心配そうな目を向けられていた。
「あ、すみません、ちょっと考え事をしていました」
「はは、そう。大学生だっけね。忙しいよね」
「いえ、まあ……」
「大学生なんすか。オレ、大学行ってないんで、わかんないっす」
そんなやり取りに挟まれながらも、賢嗣は今し方見た名前を胸の奥に刻みつける。
中島真里。
マリ。
――ヒマリ。
あり得ないことではない。もしかして、と脳裏に鋭い電光が走る。
これは、いわゆるペンネームではないだろうか?
「ついたよ、あそこでお昼を買ってね」
明智の声に、またも思考が途切れた。
「いいっすね、お腹ぺこぺこっす」
青年もはしゃいでいる。賢嗣も一緒に笑みを浮かべた。浮かべつつも、頭の中ではぐるぐると考えを巡らしていた。
バイトは午後五時ごろに終了する。それから駅前の本屋に行くつもりだった。五フロアにもわたる大きな書店だ、改めて調べれば何か見つかるかもしれない。
予定通りに仕事が終わり、三人は駅前で解散した。賢嗣はその足で向かいの書店に向かう。自動ドアが開いて、たちまち密閉した空間特有のむっとする空気に包まれた。
書店の一階奥に書籍検索用のパソコンが置かれている。賢嗣は迷わずそこに向かい、キーボードでかちゃかちゃと文字を打った。
『作者名……ひまり キーワード……冒険』
何か、何か引っかかってくれ。賢嗣は祈るような面持ちで画面をタッチする。画面が切り替わり、カラフルな表紙が一面にずらりと表示された。ひまり、冒険、この二言だけでこんなにあるのか……と気後れしながらも、冷静に画面を切り替えていく。アニメタッチのイラストがふんだんに描かれた表紙が並ぶ中で、ふと、白と紺のシンプルな配色が目に留まる。指先でタッチしてみると、きらびやかな満天の星空の下、暗い海を漂う箱舟が描かれた美しい絵であった。銀色の字で『
雷に打たれたような衝撃が全身を貫く。指先がちりちりと熱い。震える指で作者名のリンクをタッチする。画面が変わり、その著作が一覧に並ぶ。
数はそれほど多くなかった。主なものは『白金の舟』のシリーズで、短編収録も多い。賢嗣は前画面に戻り、『白金の舟』の情報を印刷した。在庫はあるらしい。紙に従って本棚を移動する。そして、ファンタジー小説が並ぶ棚の下部、隅の方に並ぶ件の本を見つけた。
どうして今まで見つけられなかったのだろう。いや、もしかしたら今はあまり出回っていないのかもしれない。それに、暇璃、などという漢字は一見しただけでは咄嗟にヒマリとは結びつけにくい。
手に取ってみると、四六判サイズでずしりと重かった。美しい表紙の絵画といい、印字されたタイトルの厳かな書体といい、賢嗣の冒険心をくすぐる重厚な空気を醸し出している。迷わずそのまま、レジまで持って行った。
家に帰ると大学のレポートもそこそこに、机に向かって『白金の舟』を読み始める。
架空の世界で、騎士を目指す少女や錬金術師、亡国の王子など、様々な人物が登場し、大きな箱舟に集まって冒険する。やがて世界を陥れようとする災厄の存在に気づき、その打破を目指すという内容だった。それはまさに、賢嗣の好みにぴたりとはまる物語だった。
学生生活に忙殺され、近頃すっかり忘れていた感覚……果てしない海の向こうに待つ未知なる世界に胸をときめかせ、幻想動物や架空の種族との交流に思いを馳せる喜び。それが胸の内へと徐々に甦ってくる。賢嗣は文字を追いながら、全身で本の中の世界に没入していた。
気づけば午後十一時。本は最後まで読み終わっていた。深く息を吐き、表紙を閉じて、もう一度、星空と海と箱舟の絵に目を馳せる。そして、白く印字された作者名をそっと指先でなぞった。
この「暇璃」が、本当にヒマリなら。
かつて、剣と魔法の冒険譚が好きだと言った賢嗣に、彼女は心の底からの笑顔で、わたしも好き、と言ったのだ。わくわくした、と懐かしみ、自分も書いている、と打ち明けてくれたのだ。
この現代社会で、『白金の舟』のような冒険譚は古くさいステレオタイプと揶揄されるかもしれない。だが、それこそこの「暇璃」がヒマリである証にならないだろうか。自分と同じ世界観を愛した彼女が書いたものだと、裏付けられないだろうか。
賢嗣は、ズボンのポケットの細く小さな膨らみに触れ、中の物を取り出した。シャンパンゴールドに輝く女性もののリップスティック。もう中身は空になっているが、賢嗣は未だそれを持ち歩いていた。
中島真里と、暇璃。この二つの名前が自分の思う女性なら。希望の光であるならば。
リップスティックを握りしめながら、賢嗣は胸の奥深くに決意を刻みつけた。
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