第二十三話 あなたを知らない

 週明け、この日の大学は午前で終わる。賢嗣は終了してすぐにT大を出ていた。いつもなら図書館で課題や勉強をしてから帰るのだが、今日は違う。

「横澤、午前で終わり?」

 門前で同期の男子たちと鉢合わせる。彼らとつるんでいる女子たちも一緒にいた。

「うん、そうだけど」

「なら、どっかいかね? こいつらがおまえも呼びたいってうるさくて」

「あーっ、なんでそういうこと言うかなあ。違うんだよ横澤君、別に呼びたいっていうんじゃなくって……」

 慌てふためく女子たちに、賢嗣は申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめん。僕、これから用事があるから」

「そう……」

「おまえいっつもそれじゃん。どうせ勉強勉強なんだろ? たまにはぱーっとしようぜ」

「今日は本当に、用事なんだ」

 賢嗣は眉を下げ、再度「ごめん」と言ってその場を去った。

 彼らの誘いは勉強やバイトを理由に基本的には断っているが、たまについていくときもあった。というのも、それをきいた慎二が「おまえ友達いなくなるぞ馬鹿野郎」と怒り、「今のうちに交友関係広げとけ。その方が人間的に成長するし、おまえのためになる」と大まじめに説得してくれたので、しぶしぶ従っていたのである。そのおかげか、大人数でわいわい騒ぐ空間にもなんとなく慣れてきて、昔に比べたら苦手ではないな、と思い始めている。

 だが、今日だけは、どうしても。

 アスファルトを彩る赤茶の落ち葉を足早に蹴散らしながら、駅の方へ向かう。そのまま駅には入らずに反対側へ迂回した。書店の前を素通りし、一昨日のバイトで通った道のりを辿っていく。

 こんな近くに……と歩きながらしみじみ思う。車窓から見た景色を思い出しながら住宅地の中を行く。時折、小さな子どもがカラフルな三輪車に乗って母親を先導しているほほえましい光景があった。道ばたで立ち話をしている女性同士の姿もあった。駅前の喧噪とはかけ離れた、のどかで温かな光景。そこから切り離されたように、寂れた小さな公園と、古びたアパートがぽつんと建っている。

 部屋番号は覚えている。階段を上るたび、薄い鉄板がかん、かん、と乾いた音を立てるのを聞きながら、賢嗣は浅い呼吸を繰り返していた。胸に手を当てる。心臓の脈動が激しさを増している。頬が熱い。緊張で背筋が汗ばんでいる。そして、ついに、扉の前に立った。

 ごくり、と唾を呑む。インターホンはすぐ目の前だ。焦れったいほどじりじりと、賢嗣は腕を持ち上げた。心臓が痛いくらいに脈打ち、指先が震えている。だが、思い切って、指先をボタンに押し当てた。

 ビー、と安っぽいブザーが小さく聞こえた。一秒、二秒……緊張が極限まで達したとき、スピーカーからざざざと砂嵐のような音がして、「はい」とか細い声が聞こえた。

「すみません、あの――」ひどく上ずった声が飛び出て、慌てて唾を呑み込む。「あの、この間伺った引っ越しの者で……」

「……ああ」小さな声が困ったように呟く。「お忘れ物、ですか」

「あ、いえ、そうではなくて」

 賢嗣はもう、半分自棄になりながら、勢いのままに口を開いた。

「僕、賢嗣です」

 スピーカーの向こうで、はっと息を呑んだような気配があった。その反応に胸がじわりと熱くなる。スピーカーに飛びつきたい衝動を必死に抑える。

「覚えてますか、僕のこと。僕はずっと、覚えていました。ずっと、あなたに会いたくて――」

「帰って」

 突然、すべてを断ち切るような鋭い声が発せられた。

「どうか帰ってください」

「待って!」

 必死の表情でくらいつく。焦りと当惑で頭がかっと熱を帯びている。

「ヒマリさん……ですよね。本名は、中島真里さん……」

 不気味なほどの静寂が降りる。それでも、賢嗣はめげずに続けた。

「ごめんなさい、昨日、あなたのサインを見てしまいました。あなたの顔を一目見たとき、すぐにわかったんです。僕の知っているヒマリさんだって……」

「なんのことか、わかりません。どうか帰って」

 スピーカー越しでもはっきりとわかるほど、その声は震えていた。

「わたしは、あなたなんて、ヒマリなんて、知りません」

 賢嗣は目を見開き、唇をぽかんとさせてその場に立ち尽くしていた。

 あなたなんて知らない……その言葉が頭の中にわんわんと反響している。

「うそだ」

 締め切られた扉に向かって、囁くように呟く。

「あなたは、僕を知っている……あなたは、ヒマリさんだ」

 奇しくも慎二の言ったとおりだった。彼女の容姿は八年前と比べてずいぶんと変わっていた。全体的に痩せてやつれて、頬からは艶も血の気も失せ、その佇まいも話し方も生気がなかった。それでも、賢嗣にはわかる。彼女が彼女であると、確信を持って言える。

「……もしかして、僕のこと、恨んでいますか」

 握りしめた両手は汗ばんでいた。噛みしめるようにして、心の内の恐れを口にする。

「あの頃、僕はまだ幼くて、何の力もありませんでした。だから、あなたを傷つけた……あなたの大切なアリスも、館も、何もかもを奪ってしまいました。嫌われても仕方ないと思っています」

 返答はなかった。辺りはしんと静まりかえっている。

「もし、嫌いになったなら、恨んでいるなら、そう言ってください。そしたら、二度と来ません」

 ぶつり。スピーカーの雑音が突如途絶えた。

 これは、一体どちらだろう。

 彼女の気持ちが、わからない。

「……また、来ます」

 扉の向こうに届くように、はっきりとした声で告げる。

 それからゆっくりと踵を返す。どれだけ拒絶されようと、賢嗣の中に諦めの言葉はなかった。彼女の口から直接、あなたが嫌いと言われない限りは。

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