第二十一話 八年後

   九


 賑やかな歓楽街の一角に、小さな居酒屋がある。自動ドアが開き、煙草のにおいとがやがやした騒音が塊のように溢れ出てきた。

 店員に、連れが来ていると伝える。名前を告げるとすぐに案内してくれた。カウンター席の端に、虎や龍の刺繍がでかでかと施された黒いパーカーの背中がある。染めた髪にそり込みを入れた横顔は見間違いようもない。

「よ、ケンジャ」

 桑島慎二はこちらに気づくと灰皿にたばこをぐりぐりと押さえつけ、椅子を引いてくれた。

「久しぶり」

「久しぶりだね」

 賢嗣は控えめな微笑で近づき、椅子に腰掛ける。

「ケンジャ様は何呑むんだ?」

「ウーロン茶でいいかな」

「んだよ、居酒屋来て酒なしとか舐めてんのか。すいません、生ひとつー」

「いいって。僕、そんなに呑めないし……」

「もう頼んだ。知らねーよ」

 慎二は変わらない。八年前から、何一つ。

 間もなくジョッキが運ばれてきて、慎二は自分のグラスを賢嗣のグラスに軽くぶつけ、ぐいと呑んだ。

「ケンジャ様、どうよ。大学生活は」

 賢嗣は、苦手なアルコールの刺激に辟易としながらも、肩を竦める。

「どうもしないよ。もう三年になるけど……大学よりバイトが忙しいくらいかな」

「バイト? おまえなにやってたっけ」

「この間メッセージで話したでしょ。引っ越しだよ。単発派遣の」

「ああ、はいはい。そういやそんなこと言ってたな」

 二人は中学卒業と同時にまったく別の道を歩んでいた。賢嗣は県内で有数の進学校に通い、慎二は不良の多い地元の高校へ行った。その後、慎二は父親と同じ土工の道を歩み、現在も仕事をばりばりこなしているという。

「おまえすげえよな。ほんとに行ったんだもんな。遠い大学。しかもT大って」

「たまたまだよ。たまたまうまくいったんだ。試験、鉛筆転がしたのもあったし……」

「運も実力っていうじゃねえか。じゃ、今は自由にやれてんだな? 口うるさい母ちゃんや兄ちゃんの監視下からは、逃れられてんだよな?」

「うん。それはもちろんだよ。引っ越しのバイトなんて、母さんが知ったら卒倒してただろうけど、こうしてやれてるし」

「そういやなんで引っ越しなんか選んだんだよ。もやし野郎のくせに――」

 慎二の言葉が途切れた。賢嗣の肩や腕をまじまじと見つめ、「おいおい」とこぼす。

「なんか、ちょっとガタイよくなってねえか? もっとよく見せろよ」

「ちょっと、やめてよ」

「うるせえ、なんだよいっちょまえに背も伸びやがって。へたすりゃ俺を越してねえか? おまえ何食って生きてきたんだよ」

「何も。ほんとに、何もしてないよ」

 慎二は遠慮なく賢嗣の腕を掴み、「すげえ、すげえ」とべたべた触り続けていた。

「こりゃ、もうケンジャ様と呼べねえなあ」

「そうだよ。というか、いつまでその呼び方をするつもりだったの」

「だっておまえ、顔色悪くて細っこくてちっさくて、いっつも根暗で本ばっかでよ」

 賢嗣は、もう以前のように細くたおやかな体つきではなかった。まず、高校二年生のあたりから急激に背丈が伸び、兄と肩を並べるほどになった。大学に上がり、引っ越しの派遣バイトを続けるうち、いつの間にか筋肉もついて、全体的にがっしりとしてきつつある。

 もう、ロリィタなんて、着られないな、と思う。

「こんな変わってると思わなかったぜ。ずっとチャットばっかで顔見てなかったしよ」

「そうだね。慎二も、だいぶ変わったよ」

「そうか?」

 少し照れくさそうに頭を掻く慎二。ファッションセンスは相変わらず個性的というか、桑島家らしい合わせ方だが、日焼けした顔はりりしく大人びていて、いち早く社会人として歩んできた貫禄が刻まれている。彼も彼で、苦労して生きてきたのだろう。

「ま、俺もおまえも、たまたま都合ついたしよ。こうやって酒呑めてよかったわ。それに俺、T県来てみたかったんだよな。明日は適当に観光して帰るつもり」

「そうなんだ。まりんちゃんは元気?」

「おう。相変わらずなよなよしたアイドルのおっかけやってるぜ。ごてごてしたうちわ作って、ぶりぶりした鞄持って、ぎゃんぎゃんに化粧してすっげえミニスカ履いて、ライブ行きまくってんの」

「あはは。そうなんだね」

「そうそう。おまえに会うって言ったらすっげえ羨ましがられたぜ。今のおまえのガタイを見せてやりてえわ。ショックだろなあ」

 慎二は串揚げを一列、一気に口に放り込む。そして、ふと目を上げた。

「そういや、おまえ、まだ諦めてねえよな。ヒマリさん探し」

「うん」

 店員がナムルの盛り合わせと串揚げの追加を運んでくる。それをじっと見つめながら、賢嗣はうなずいた。

「諦められないよ。そう簡単には」

「だよな」

「本屋にも通ってみたんだ。どこかにヒマリさんの本がないかって、いろいろ、冒険小説を手当たり次第に買いあさって……でも、どれもしっくりこないんだ……」

「画集は? 絵とか描いてたんだろ」

「それはほんとにバイト感覚というか、それほど本腰入れてやってなかったみたい。個人で画集を出したりはしてないと思うんだよね」

 それでも、一応本屋を巡って確認はしている。賢嗣の知る彼女の絵は、あのスケッチブック数枚分のスケッチだけだが、これだと思われるものは見当たらなかった。

「まあ、がんばれよ。はやく再会して、俺をアリスに会わせてくれ」

 まだ諦めていなかったのか――賢嗣は内心驚愕する。それはできない、と喉まで出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。

「でも……ヒマリさんが今の僕を見たら、ただ幻滅するだろうな」

 ナムルをつまみながら、賢嗣は皮肉っぽく笑った。

「いろいろと、変わっちゃったし……」

「安心しろ。確かに変わっちゃいるが、それは成長だ」

 慎二が再びぐいと酒を呷る。

「おまえ、すげえ成長してんだよ。大人になってんだ。だから、堂々と会えばいいさ。迎えに来たぜって男らしく言え。絶対イチコロだから」

 そうだろうか。曖昧に笑いながら、賢嗣は自問する。

 自分自身、中身は八年前から何も変わっていない。変わったことと言えば、またスマホを触るようになった。だがゲームや掲示板に時間を費やすのではなく、イヤホンを挿して音楽を聴いていた。三大バレエ曲やピアノソロ、チェロの独奏曲、オペラなど、昔ヒマリと愛した音楽に常に耳を浸している。ロック画面は『聖母被昇天』、ホーム画面は、昔の鉛筆画だ。かつてあの館の寝室で描いた、ベッドに寝そべる美しいヒマリの絵である。

 そう、この心は何一つ変わっていない。相変わらずヒマリの存在でいっぱいだ。だが身体はどうしようもないほど変わり果てていた。もう、彼女の愛した「アリス」には到底なれない。姉妹ではいられなくなってしまった。ヒマリにもう一度会えたとして、果たしてこんな自分を受け入れてもらえるだろうか。あなたなんて知らない――そう言って鼻先で扉を閉められるんじゃないだろうか。

 この広い世界で再び彼女に会えるかどうかより、そのことが賢嗣を不安に苛ませていた。

「慎二……」

 慎二が、おう、とこちらを見る。もう何杯も酒を呑んでいるのに、その顔はまったく赤らんでいない。

 賢嗣は、なんでもない、と首を振った。

「ありがとう。こっちにわざわざ、会いに来てくれて」

「なんだよ気持ちわりい。やっぱ訂正だわ、おまえはまだ女々しいよ。ケンジャだケンジャ」

 ぶつくさ言うのを聞きながら、賢嗣は、もう一度アリスになれるならケンジャのままでもいい、とさえ思っていた。

 店を出たとき、時刻は夜の十時を回っていた。

「慎二は、どこか泊まるところ、あるの」

「馬鹿にすんなよ。ちゃんとホテルとってあんだよ」

「そう、良かった」

「ま、駅前だし、そこまでつきあえよ」

 二人して、夜の歓楽街を歩く。騒々しいネオンがあちこちにちらついて、もうすぐ訪れる冬の気配など跳ね返してしまいそうな熱気に覆われていた。ところどころで慎二が立ち止まり、「あの子すっげえかわいい」とか「うーわ、やらしいチチしてら」などと大声で下品なことを言うので、そのたびに賢嗣が赤面し、早足で歩いていくのをしばしの間、繰り返していた。

「おまえほんっと、そういうところ変わんねえよな」

 もう何度目になるか、他人のフリして歩いていく賢嗣を追いかけながら、慎二が苦笑している。

「ちょっとは女慣れしろって。せっかく見た目は男らしくなったんだからよ」

「余計なお世話だよ。というか、大声であんなこと……恥ずかしいからやめてよ」

「ほんっと、つまんねー奴だなおまえは」

 二人で歩いていくうちに、歓楽街の終わりが見えていた。忙しない駅前の光景が向こうに見える。

「なあ賢嗣」

 唐突に、慎二が口を開いた。

「俺さ、おまえのこと、見直してんだよ」

「なに、急に……」

「おまえのことだから、一人暮らしでバイトしながらT大なんて、絶対すぐ音を上げるんじゃねえかって思ってた。でも、違った。ちゃんとやれてんだな」

「そりゃ、やっていかないと生きていけないからね」

「すげえよおまえは。ほんとに」

 賢嗣は思わず慎二の顔色を窺った。変わらず平然として見えるが、やはり酒が回っているのではないだろうか。

「なんも心配すんじゃねえぞ。いつ会えるかわかんねえけど……ヒマリさんに会ったらさ、もう大人なんだから、大人の包容力ってやつをだな……」

 言いながら、慎二も途中でわけがわからなくなったらしい。言葉に詰まり、こほん、と咳払いする。

「まあ、とにかく、幻滅なんかされるかよ。もしされたら、そんときはそんときだ。さいしょから縁がなかったんだ。でも、絶対ない。俺はそう思うね」

 驚いたことに、彼は賢嗣が居酒屋でこぼした言葉について真剣に考えていたらしい。賢嗣は目をぱちくりとさせ、すぐに俯いた。

「でも……」

「じゃあおまえは、ヒマリさんがもし変わり果ててたら、幻滅すんのかよ」

 思わず足を止める。ちょうど歓楽街の果て、雑踏と道路の境目の薄暗い陰であった。

「……どういうこと」

「ヒマリさんが、例えばもう、ロリータをやめて……ただやめるんじゃねえぞ。そうだな……親が変なのに騙されてエグい借金を背負う羽目になって、夜の街に身を落とさなきゃいけなくなって、可愛かった外見も歳と苦労でやつれて面影すらなくなってたとしたら」

「そんな!」

「たとえばの話だ。もしそうだったら、おまえ、幻滅するか? あんたなんて知りませんって言うのかよ」

 賢嗣の脳裏に、慎二の言葉通りのヒマリの姿が浮かんだ。痩せてやつれてぼろぼろになって、何もかも失った彼女を想像する。そんな彼女が目の前に現れたら、自分は……

「決まってるよ。僕は何も変わらない。ヒマリさんはヒマリさんだから」

 彼女が彼女である限り、たとえ環境や境遇が変わっていたとしても、この想いを失うことはないだろう。

 慎二は、ふっと笑った。

「だろ。たぶん、あの人も同じだよ」

 ――つっても俺、会ったことも喋ったこともねえけどな!

 慎二の屈託ない笑みを見つめながら、賢嗣は初めて、彼をかっこいいなと思った。昔から粗野でガサツではあるが、自分には決してなれないかっこよさが彼にはある。

「不思議だね。昔はただのいじめっこだったのに――」

 賢嗣がしみじみと言いかけた瞬間、慎二の顔色がさっと青ざめた。くるりと後ろを向き、口から地面に向かってぼとぼとと盛大に吐き出した。酒臭さの入り混じった汚臭がただよい、賢嗣は思わず鼻を押さえる。

 げほ、と咳き込みながら慎二が振り返った。

「すまん。なんだって?」

「なんでもない。君、やっぱり酔ってたんだね……」

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