第二十話 ヒマリ 二
電車に揺られ、都心から離れた住宅街の景色を眺める。どんよりとした分厚い雲が空を覆っていた。憂鬱さと胸騒ぎとで、頭の中は混乱している。座椅子に深く座りこみ、ペットボトルのお茶を飲みながらなんとか状況を整理しようと試みる。
まず、わたしはあの館を離れなければならなくなった。子ども時代からお世話になっているあの別荘に戻りたかったのだが、いつからか別荘は知らない誰かのものになっていて、住めなくなっていた。好き勝手に家を出た不良娘のために別荘を残しておくのが嫌になって、両親が手離したのだろうか。
別荘がダメとわかって、仕方なく実家へ帰ろうとした。実家近くに倉庫を借りて、家具やお洋服など大切なコレクションたちを一時的に納めておき、改めて実家へ向かう。ところがいざ辿り着いてみると、パパとママの自慢の豪邸は売り家になっていた。一体どうなっているのか……静かな高級住宅地の真ん中で途方に暮れながら、久しぶりにスマホの電源を入れてみる。すると、ぽんぽんと立て続けに通知が入って、妹からメッセージが届いていた。実に二十通ほどあり、一番古いもので三ヶ月ほど前の日付になっている。
『パパの会社、潰れたの。家、引っ越したから、住所を教えておくね。このメッセージに気づいたら、とりあえず連絡して。頼みたいことがいろいろあるから』
初めにその文章を読んだとき、あまりに突然の情報だったので驚きはしたものの、不思議とショックなどはなかった。へえそうなんだ、そんなことってあるんだ、とぼんやり思っただけだった。パパの会社の行く末とか、家が変わったことなどは正直どうでもよかったけれど、最後の一文が気になった。頼みたいこととは、一体なんだろう。
電車を乗り継いで乗り継いで、ようやく辿り着いたのは、都心からずいぶん離れた寂しい町並みだった。小さな四角い駅と、寂れた看板。鈍行しか停まらないこの駅は、あのK駅の半分ほどの大きさもない。
妹のくれた住所をスマホに打ち込み地図を確認すると、ここから結構歩かなければならないことが見て取れた。面倒なのでタクシーを探し、呼び止める。
「こちらまでお願いします」
運転手はスマホ画面を一瞥し、眠たそうな目で「ああはい」と返事した。
アスファルトの盛り上がった狭い道路や踏切りなどを通過して、五分ほど経っただろうか、運転手が車を止めた。
「ここですかね」と、フロントガラスの向こうに見える建物を指す。ところどころ赤茶けた、二階建ての古びたアパートだった。正面の小さな看板にはアパート名が書かれているようだが、「荘」の前の字が掠れて読めない。スマホの地図を念入りに確かめる。目的地のマークはたしかにこの場所を指し示していた。
「はい、ここです。ありがとうございました」
運賃を払って外に降り立つ。頭上の電線に留まる雀の鳴き声以外、物音のしない寂れた道筋だった。妹のくれた住所には、二◯三号と書かれている。
錆びついた鉄製の階段を踏みしめ、重い足どりでなんとか歩く。かつてあの豪邸に住んでいた中島家の住人たちが、本当にこんな場所に住んでいるのだろうか。何かの間違いではないだろうか……迷いが頭の中をぐるぐると巡っている。だが、階段を上り切り、左から三つ目の扉の前に立ったとき、中島、と印字された表札の文字を目の前にして、ああそうなのか、と改めて納得した。
インターホンを押すと安っぽいブザーが鳴り、やがて「どなた?」と扉が開いた。出迎えたのは、くたびれたワンピース姿の壮年の婦人――わたしのママだった。
「真里……」
わたしの顔を見たママは、驚いたように目を見開き、口元に笑みを浮かべた。
「よかった、やっと連絡がついたのね」ため息混じりに呟く。胸を撫で下ろすようなその表情にわたしは戸惑い、玄関先で立ち尽くしていた。
母は中島家の恥であるわたしを軽蔑していたはずだ。こんな柔らかな表情を向けられた記憶はひとつもない。長い時間を経て娘の存在について思い直すことでもあったのだろうか。会社が倒産して、その後始末に追われる日々はきっと大変だっただろう。そんな折、いきなり帰ってきた娘の姿を目にして、安堵を覚えたとでもいうのだろうか。
「ただいま、ママ。なんだか、大変だってメールがあったけれど……」
「真里、今どこに住んでいるの?」
唐突に母が訊ねる。ぱたん、と背後で扉が閉じられた。
「どこって……M県の方にいい家を見つけたから、そこに住んでいたんだけど、ちょっと事情があってこっちに戻ってきたところなの」
「そう。じゃあちょうど良かったわね。それであなた、お金に余裕はあるの?」
「余裕?」
胸騒ぎがして、眉をひそめる。
「どうして」
「お父さんの会社のこと、聞いたでしょう。借金があるのよ」
「そりゃ、会社が倒れたなら、そうなるでしょうけど……あの豪邸を売ったんでしょう。家財も何もかも」
「そんなので足りるわけないじゃない」
その時、奥の襖がすっと開いて、姉が険しい顔を覗かせた。
「ママ、もういい。あたしが言うわ。真里、あなたの持っている資産を一切合切よこしなさい。それで借金を返すから」
言葉を失った。
まだ、居間にもあがりこんでもいない、狭く寒々しい玄関先で、妹のメッセージの「頼み事」の意味が、じわじわと頭に染み渡っていく。
家族の言い分はただひとつ。今まで世話してやった恩を、ここで返せということ。母の安堵の表情がわたしの心に杭を打つ。それは愛娘との再会を喜ぶ顔ではなかった。ああ、ここへきて、わたしは未だこんなふうに落胆することがあったのか。期待なんてするだけ無駄だと、とっくの昔に理解したはずなのに。
それからわたしは、全てを失った。
長い時間をかけ、苦心して集めたかわいいアンティークたち。わたしを幻想世界へ誘ってくれる美しい洋服たち。価値あるレコードも、細々と貯めていた貯金も、何もかも、わたしの手から中島家へと没収された。
「いいじゃない、売れっ子作家なんでしょう」
姉は憎々しげに言う。
「あんたにだけ一人暮らしを許してやってるんだから、感謝なさい。小説書いて稼いだら、その都度こっちによこすのよ。あなただって一応はうちの家族なんだから」
わたしは少し離れた場所に安アパートを見つけ、とりあえずそこで暮らすことになっていた。あんな家でぎゅうぎゅう詰めになっていては仕事にならないからだ。だけど、母も姉も本当はわたしと同じ空間で暮らしたくないというのが本音なのだろう。体よく追い出され、お金だけを無心される都合の良い存在にされてしまったのだ。
かつての中島家の栄光を捨てきれないのか、母と姉は未だ上等なワンピースに身を包んで見栄を張っているが、よく見ればあちこちほつれて、くたびれいてた。姉は夜のラウンジで働いているらしい。母は、今まで高級エステだのパーティーだので忙しい身だったので、なかなか職につけないらしく、家でヒステリックに叫び、昼間から酒を呑んでいるようだ。父は新たな職を探す傍ら、まだ倒産後の処理が追いついていないらしくほとんど家を空けている。今や、地方公務員として堅実に働く妹の肩に家計のほとんどがのしかかっている状態だった。
昔から気性のおとなしい妹だけは、まだいくらかわたしに優しかった。彼女の苦労を思うと気の毒になり、わたしも協力しなくては、と思い直す。さっそく、気まぐれに保留していた執筆の案件を出版社に問い合わせた。
しかし、返ってきたのは「もう、別の方に回しましたので」という一言だけだった。今までしつこいくらいに仕事をくれていたのに、まるでわたしを避けるように、何の連絡も寄越してくれなくなった。それをおかしいと思う余裕はわたしにはなかった。突然の仕事の不調を妹に謝らなくてはと焦って、夜中、彼女に電話をかけた。
「もしもし、遅くにごめんね。実はね、このところ全然仕事が入って来なくって……お金の協力、ちょっと時間がかかるかもしれないの」
するとスマホのスピーカーの向こうで、はっと息を呑む声がした。それからは浅い息遣いが微かに聞こえるのみで、なんの返答もない。
「どうしたの。もしもし、聞こえてる?」
やがて、小さな嗚咽が途切れ途切れに聞こえてきて、わたしは思わずぎょっとした。
「も、もしかして泣いてるの? ごめんなさい、必ず何とかするから……あなただけに苦労はさせないから……」
『ちがうの、真里姉さん』妹は小さくしゃくり上げながら、言いづらそうに浅い呼吸を繰り返していた。
『ごめんね、前、パパとママが話しているのを聞いてしまったんだけど……』
その次に発せられた言葉を聞いた瞬間、わたしの手からスマホが滑り落ちていった。
――真里姉さんの小説のお仕事、パパの根回しがあったんだって。
絶句するわたしの足元で、スマホはなおも妹の声を発し続けている。
『デビューも、その後のお仕事も、何もかも……パパの口利きがあったんだって。それで、パパはもう、会社がないから……』
それ以上は聞いていられなかった。
わたしの手元にはもう、何も残っていない。愛するお洋服や、お人形たちや、お気に入りのレコードも全部売り払ってしまった。だけどそれができたのは、また仕事をすればいいと思っていたからだ。姉のように夜の街に繰り出すこともなく、母のように肝心な時に役に立たない人間でもなく、わたしには小説という強い武器がある。わたしには、彼らにない才能がある……そう、長い間信じて生きてきた。わたしは美の鑑賞者でありながら、創作者でもあるのだと。才を持つが故にこの世の中で「普通に」生きていくのがつらいのだと、持てる者のさだめなのだと、そう思い込んでいたのだ。
それは、長い間ずっと抱き続けていた幻想だったというのか。なんて恥ずかしい思い違い……わたしは初めから、何も持っていなかった。かき集めた宝物たちは父のくれたお小遣いから、仕事は父の根回しから。今はそのどちらも、ここにはない。文字通り、すべてを、失ってしまった。からっぽになってしまった。
ショックを受けている暇などなかった。わたしは「中島家の一員」として時間の限りに働き、借金を返して家を支えなければならなかった。しかしわたしは、社会の歯車として「普通に」生きていく術を知らない。今さら会社務めなどできないし、姉のようにお客に囲まれながら女を売り込むようなまねもできない。求人広告とにらみ合いながら、デパートやスーパー、ビルの清掃人の仕事を点々とした。けれど生来の不器用が邪魔をしてどこも長続きせず、職探しと就労を繰り返す日々に、精神が容赦なく削り取られていった。
仕事から解放されるわずかな時間――道を歩いているとき、何かを食べているとき、電車の車窓からぼんやりと景色を眺めているとき、眠りにつく瞬間――頭の中に、ふと記憶の彼方の懐かしい姿が浮かび上がる。布団に潜って瞼を閉じれば、もっと鮮明に思い出すことができる。あの美しい少年の顔を。しなやかな手つきを。繊細な心を。
『これからも本を読み続けます。いつかヒマリさんの作品にたどり着けるように』
あの、きらきら、眩しい瞳。「ヒマリ」をまっすぐ慕ってくれる混じり気のない瞳を思い出すだけで、罪悪感に胸が押し潰されそうになる。
――ごめんなさい。
わたしには、なんの力もなかった。あなたをときめかせる物語を生み出せるような、素晴らしい才なんて本当は持っていない。
賢嗣くん。あなたの眼には、「ヒマリ」はきっと、優雅なお金持ちの才能あふれるお姫様に見えたことでしょうね。何でも持っていて、何でも知っている、そんな頼れる大人だと思って、あんなにも素直にすべてを受け入れてくれた。「アリス」だのペルソナだのなんて言葉で煙に巻いて、ただのずるい、悪い大人だったのに。
あなたがみんなに連れられて肝試しにやってきた夜のことは、今でも鮮明に胸に焼きついている。初めてあなたの姿を間近に眼にした瞬間、わたしの中に強烈な欲求が湧き立っていた。その大きな黒い瞳と、柔らかそうな頬の線。お人形みたいに華奢な体つき。伏目がちな長い睫毛。何もかもがわたしの心の琴線を引き裂くように掻き乱した。無意識のうちに、脳内であなたの身体にロリィタを着せていた。想像するだけで美しかった。それを実現したくてたまらなくなった。だからわたしは、あなたの中の、何者にも染まらない純白の魂を利用した。芸術は素晴らしいでしょう……素敵なプラネタリウムでしょう……本だっていくらでも貸してあげる……だから、わたしを信じて。ペルソナを、アリスを、かぶるだけ……女装じゃない……
あなたは見事なまでにわたしの色に染まってくれた。あなたのお母さんは正しかった。悪い大人にたぶらかされていたというのに、そんなこともわからないまま、あなたはわたしを最後まで必死に庇っていた。なんて愚かで、無垢で、健気なんだろう。
かくして、わたしの罪は白日の元に晒され、あの町から引っ越すことを余儀なくされた。そして罪に対する報いだとでもいうように、わたしの家は倒れ、大切な宝物たちを手放す羽目になった。地獄のような現実を突きつけられ、もう二度とあの子に会うこともできない。実に納得のいく結末だ。わたしにお似合いだ。
これで、よかったのだ。
それなのに、どうしてこうも、涙が止まらないんだろう。
湿気を吸った、重たく冷たい布団にくるまりながら、わたしは毎夜、枕を濡らしていた。何もない、静かな家にひとりでいると、どんどん胸が苦しくなる。たまらず、両腕でぎゅっと自分の胸を抱きしめる。それでもまだ足りない。この奥が、太い杭で撃ち抜かれたようにぽっかりと穴を空けている。
――賢嗣くん。
ひとたび口にしたら、もうだめだった。みっともない嗚咽が漏れてくる。涙とともに、見ないようにしていたたくさんの思い出が溢れ出てくる。
こぼれ落ちるような星空の下で、ふいにあの子の柔らかな手が、わたしの手を握ってくれた。かわいらしいあの子の見せる以外な力強さに、不覚にも、胸がどきりと高鳴ったのを思い出す。
あの子が、思春期らしい淡い想いをこちらに向けてくれていたのはなんとなくわかっていた。けれどそれを受け入れてしまったら、きっとこの関係が壊れてしまう。だから、わたしは何も言わなかった。おずおずと手を握り返すくらいしか、できなかった。
きらきらした眼で、冒険小説が好きだと言った賢嗣くん。『聖母被昇天』に魅せられた賢嗣くん。暗い映画だというのに、星空の下でその音楽に真剣に耳を傾けていた賢嗣くん。わたしをエスコートしたいと張り切ってくれた賢嗣くん。――はじめこそ、わたしはただあなたの精巧な容姿に見惚れて、館に招いたに過ぎなかった。自分の欲望のままにロリィタを着せ替えて遊べたらそれでいいと思っていた。だけど、今になって思い知らされる。美しいものを美しいと素直に言えるあなたの感性が、こんなわたしを純粋に慕ってくれるあなたの眼差しが、かわいらしい所作の中に時折見せる男の子らしさが、すべてが、愛おしくて、たまらなくなっていた。
この気持ちにきっと名前なんてない。恋だの愛だの、そんな言葉では言い表せないほど、あなたの存在に惹かれていた。あの館の鳥籠で、「アリス」の枷をはめたまま、ずっとあなたを傍においておきたかった……
六畳一間の真ん中で、わたしはひとり、濡れた枕に頬を押しつける。彼の儚げな微笑や、健気な言葉を、幾度も幾度も、瞼の裏に描き出して。
文字通り、わたしはすべてを失った。きっとこれは報いだ。いたいけな少年を騙し、自分の欲望のままにした罰なのだ。だけどたった一つだけ、持つことを許されたものがある。あなたと過ごした宝物のような日々を胸に抱いて、明日も明後日も、わたしはなんとか、生き続けていられる。
――いつか、また会う日がくるのだろうか。
そんな淡い期待をぼんやりと胸に描く瞬間がある。だけど、そのたびに思い直す。この先あの子はあっという間に成長して、大人の男のひとになっていく。世界が広がれば、かつてあの館でわたしと共有した美しいものたちのことなど、どこか遠くへ忘れ去ってしまうだろう。「アリス」のことや、わたしとの思い出も一緒に。
彼はこれから輝かしい未来を歩み、新しいものを得て生きていく。わたしはただ失い、どん底を歩く一方だ。こんなわたしが、今更彼に会う資格なんてない。それを願うことすら、おこがましい……
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