第十九話 ヒマリ 一
八
中島真里、という名前が嫌いだった。
中島はパパの会社についているし、真里はお花畑なママがつけた名だ。少女漫画の主人公からつけたのよ、と自慢げに言われたときには、吐き気がした。その時にはすでに、わたしはこの世で普通に生きることができない人間になっていた。
わたしは学校の成績がいつも酷く悪くて、唯一、美術と音楽だけが突出していた。興味関心のないものについては覚えることも解くことも一切できないが、絵や歌や読書は大好きだった。他に得意なことといえば、頭の中の空想世界にいつでも意識を飛ばしてしまえるということくらいだ。大人になってから世の中にLDとか発達障害なんて言葉がようやく使われだしているけれど、わたしがそれに当たるのかどうかは、ついぞわからずじまいだった。
姉や妹が普通に好む音楽やファッションにもどうしても関心が持てなくて、人と関わるのが苦痛になっていった。自分はいったい何が好きなのか、どうすればこの無味簡素な人生から抜けだせるのか――とことん人とは違う方向を探し続けていた。今思えば俯瞰と逆張りばかりで気持ちの悪い子どもだったと思うけれど、残念ながらそういう性格は今も変わっていない。
そんな、疲弊した高校時代に探し当てたもののなかに、ロリィタファッションがあった。初めて全身ロリィタに身を包んだとき、わたしの姿を見た母も姉も悲鳴を上げたし、おとなしい妹も不気味な道化師を見るような目をしていた。
「なにその恥ずかしい恰好、やめなさい!」
「この不良娘!」
母と姉は何も知らないで、知ろうともしないで、わたしの好きなものを罵倒した。このお洋服たちがどれだけ素晴らしいデザイナーによって作られたものなのか、生地もレースも縫製も最高級にこだわりぬかれていることも合わせて丹念に説明したけれど、彼女たちの耳には無意味な念仏に聞こえただけだった。
姉と妹の二人は、世の中に上手く溶け込みながら自分を主張する術を持っている。わたしと違って器用な人たち。パパとママの自慢の娘たち。わたしだけが、浮いている。悪目立ちしている。父の会社の重要な人たちや、親戚中がわたしと他の二人とを常に比較し、値踏みしているのを知っていた。それを悔しいとも恨みに思うこともないけれど、自分が無価値な人間であるということは、常日頃頭の隅にあった。
そんなわたしにも転機が訪れた。高校二年生のとき、何を思ったか、昔から好んで読んでいた冒険物語を参考に、ファンタジー小説を書いて出版社の大賞に応募したのだ。うだつの上がらない人生を転じてみたかったのか、単なる衝動的な思いつきなのか、とにかく当時のわたしにしてみれば一世一代の大勝負だった。しかし当然、賞に選ばれることもなく二次選考で落ちてしまった。一度出したくらいでは通ることなどないのだと改めて思い知り、心の底から落胆した。
ところが、その二、三日後に出版社の編集から連絡があった。今回提出いただいた作品は残念ながら通過できませんでしたが、内容自体は個人的にとても評価しています。書籍化してみませんか、と打診されたのだ。それは出版社からお墨付きで売り出される通常の出版とは違い、いわゆる自費出版というもので、それにかかる費用をこちらで支払って本屋に置いてもらうという手段だった。
初めに提示された費用は百六十万円。普通なら即決できる金額ではないけれど、わたしには社長の娘という立場があった。そして、自分の口座と、毎月振り込まれる多額のお小遣いがあった。一も二もなく、わたしは「よろしくお願いします」と言っていた。今思えば、短絡的で愚かだったと思う。わたしの自慢を聞いた姉は呆れ返って、
「あなたそれ、本気にしているの? どうせ会社が儲けるために甘いこと言ってあなたをその気にさせただけなのよ。そうでなくちゃ、あなたなんかに打診なんて来るものですか」
姉はいつもわたしにきつく当たっていたので、わたしはその言葉を無視して手続きを進めていった。未成年なので契約には親の承諾が必要だったが、父も母もわたしに無関心なのが幸いして、特に何も言われないまま締結が完了された。そして膨大な改稿作業を経て、ついに、わたしの本が書店に置かれることになった。
その当日、わくわくしながら書店を訪ねた。ところが、どこを探してもわたしの本は見当たらない。店員に訊ねると、うちには置いていないという。自費出版の本は発行部数が少なく、大きめの書店に行かなければ置いていないと聞いて、ようやくわたしも、自分の置かれている立場の実態に気づき始めた。
姉の言うように体よく騙されたというわけではないだろうが、とんだ勘違いをしていたことは事実だ。これでわたしもプロデビューだと自惚れてしまっていた。自費出版から世間に評価されて名実共にプロになった作家もいるにはいるらしいが、ほんのひと握りであることを知ってさらに落ち込んだ。
わたしには、なんの才能もないのだろうか。勉強もできず、ただ空想癖があるだけの、何もない少女なのだろうか……もう何度目かわからない絶望を噛み締めていた矢先、あの編集者から再び連絡があった。
自費出版したわたしの作品が、どうやらそこそこ売り上げを伸ばしているのだという。増版したいがどうだろうか、という提案に、わたしはまた即決で乗りかかった。今度は置かれる書店も増え、新聞の広告にも掲載され、より多くの人の目に留まるだろうと聞いて、気分の高揚を抑えられなかった。
わたしには、やはり才能があったのだ。姉や妹にはない、家族の誰も持ち得ないものを持って生まれたのだ!
その翌年、次に書いた作品が出版社の手で書籍化となり、正真正銘のプロとしてわたしは世にデビューした。それからはどうにかこうにか、細々ながらも継続して作品を執筆し続けることができている。本格的に作家業に勤しむために大学進学も取りやめた。母や姉からはものすごい批判を受け、見下され、中島家の恥とまで言われたけれど、わたしは、その時受けていた出版社からのオファーや仕事の予定を突きつけて黙らせた。妹は、お姉ちゃんすごいね、とだけ、こっそり伝えてくれた。
やがて、家族や親戚の煩わしい目から自由になるために引っ越して、一人暮らしを始めた。といっても、もともと父から与えられていた別荘に移り住んだだけだ。そこには趣味で買い集めていたアンティーク家具を保管していたのだが、執筆作業に勤しむために書斎に改造しようと考えていた。そうなると今度は家具たちの新しい行き場を探さなければならない。そこで見つけたのが、あの館だった。
どうせ保管するならわたしのコレクションたちに相応しい場所をと、お洒落な洋館を時間をかけて探していたところで巡り合ったその館は、実家から県を跨いでかなり遠く、しかも築数十年経過した古い建物で、ぱっと見た目は廃館のように見えた。貸出人は館の維持管理を任せることを条件に、相場より安めに貸してくれた。しかも壁紙などわたしの好きにして良いという。建物の維持管理となると住み込む必要があるので、思い切って書斎ごとこの館に越すことを決意した。
業者には、各部屋の家具の配置、装飾など細部にわたってこだわり抜いて依頼した。特に、大好きなロリィタたちのある衣装部屋や書斎のある図書室、寝室は、絨毯や壁紙を選ぶのに何日もかかってしまった。おかげで素晴らしい隠れ家ができたと思う。家族の誰も知らない、わたしだけの秘密基地。自分の好きなものだけを集めた宝箱のようなお城。せっかくの夢のような棲家に大嫌いな中島の文字がついているのは嫌だから、表札もつけなかった。誰も招くつもりもなかったのでまったく支障はなかった。
そう、誰も招くつもりはなかったのだ。
あの少年に心を奪われてしまう前は。
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