第十八話 いつか、必ず

 三学期が始まり、席替えがあった。僕の席は窓際になり、一日中空に浮かぶ雲を見ていられるようになった。それは嬉しくもあり、悲しくもあった。青空に浮かぶ雲は油彩の刷毛で塗られたようで、彼女とわかちあったルーベンスの絵を思い出すからだ。音楽室もまた然りで、壁に貼られたチャイコフスキー、ショパン、バッハ、シューベルト……彼女の思い出の痕跡は至るところにあって、僕の心をぎゅっと切なく締めつける。

「ケンジャ、ケンジャよ」

 昼休み、僕が絶望的な気分で机に突っ伏していたところへ、ふいに慎二が訪れた。めずらしく、お供を一人も引き連れていない。

 からっぽになった廃墟で慎二と出くわし、互いの気持ちを打ち明け合いはしたものの、学校での関係はいつも通りだった。相変わらずケンジャケンジャと絡んでくるし、宿題を写させろと強奪する。だけど、変わった点もあった。それは、僕の本を取り上げてからかったり、嘲笑しなくなったことだ。

「俺んちに来いよ。次の土曜にさ」

 一瞬、聞き間違いかと思った。顔を上げると、慎二の真顔が僕を見下ろしていた。その目にいつものからかうような調子はない。

「僕が? 君の家に?」

「ああ。来いよ」

 また何かの企てで、まんまと引っかけられているんじゃないかと最後の最後まで疑ったが、結局何もないまま、僕は土曜日の昼間に慎二の家に向かうことになった。

 彼の家は小さな平屋で、はっきり言って、ちょっと小汚かった。狭い庭の土は硬く水気がなくて、雑草がところどころにちょろちょろと顔を出しているし、色あせたピンクの三輪車やすり切れたタイヤといった、よくわからないがらくたが平然と置いてある。

 インターホンを押すと慎二が出てきて、「おう、入れよ」と僕を促した。おそるおそる足を踏み入れようとしたが、玄関は様々な色や形の靴がばらばらに広がっていて足の踏み場もない。

「あ、やべ、ちょっと待て」慎二は奥へ顔を向けた。

「まりん! おまえの靴邪魔だ、しまえよ!」

 するとしばらくして、どたどたと足音が響き、手前の襖が開いた。「なんだようっせえな」と不機嫌そうに出てきたのは、長い髪を真っ茶色に染めたピンクの部屋着の女の子だった。背丈は僕くらいしかないのに髪を染めているし、眉毛もないので、年齢の判断に一瞬、迷う。

 その子が、はっと目を上げ、僕を見た。僕はおずおずと会釈する。

「すみません……お邪魔しています」

 女の子は、きゃっと小さな声を上げて、元の部屋に飛んでいってしまった。ばしん、と勢いよく襖が閉まる。

「こらまりん! 何やってんだよ、しまえっての……」慎二は、やれやれと首を振り、派手な色のサンダルを足で蹴って脇へ寄せた。

「すまん。あいつ、めちゃくちゃシャイなの忘れてたわ」

「妹、いたんだね」

「ああ。小六で、まりんってんだけど、たぶんおまえ、好かれたぞ」

「えっどうして?」

「おまえみてえな、なよなよした奴がタイプだから」

 僕は慎二について家に上がり、奥の居間へお邪魔した。すると今度は、まりんを一回り大きくしたような女の人がこたつから立ち上がって、「お、慎二、ダチか?」と訊いてきた。酒焼けしたようなハスキーな声だ。

「ケンジャ、俺のかあちゃんだ」と言ってから、慎二は母親に向かって手を合わせる。

「ごめん、かあちゃん、こいつとちょっと大事な話するから……」

「あーはいはい。言ってたやつだな。あたしは寝室でテレビ見てるから、なんかあったら言いな」

 と言って、母親はポテトチップスの袋を手にのしのしと出て行った。慎二が着ているような虎の刺繍のスカジャンを羽織った背中がなかなかいかつい。

「汚え家だけど、ま、くつろげよ」

 僕と慎二はこたつに入り、コカコーラのグラスに注いだオレンジの炭酸ジュースを飲んだ。僕の家で炭酸ジュースなんて絶対飲ませてもらえないから、新鮮で、おいしかった。

「でさ、ケンジャ、聞かせろよ」慎二はグラスを置いて、急に真剣な目つきになった。

「あのお化け屋敷でのことをさ」

「ヒマリさんと、どんな風に過ごしたのかって?」

「その人だけじゃねえよ。アリスもだよ」

 慎二が貴重な休日を使って僕を家に招いた目的は、どうやら僕が館で過ごした日々について聞き出すためだったらしい。そのためだけにわざわざ、つるんでいる男子たちを差し置いてまで僕を呼びつけたのだと思うと、不安なような嬉しいような、複雑な気分になった。

 僕はこたつで温まりながら、ヒマリさんとの思い出を語った。僕がロリィタを着てアリスになっていたこと以外はほぼ全部だ。毎日深夜に訪ねて共に音楽を聴き、本を読み、図書室で星空を鑑賞し、休日は寝室でお茶会をして、絵を描いていた日々のことを、アリスの存在も慎重に盛りながら話して聞かせた。そして最後に、母や兄に知られてしまい最悪な別れになってしまったことも。

「まじかよ、くそ」慎二が口惜しそうに言った。「意味わかんねえ。勝手に人を犯罪者呼ばわりとか、頭おかしいんじゃねえの」

 普通の感覚なら、自分の家族をこんな風に言われて黙っていられるはずはないだろう。だけど僕は、彼の言葉をただ呑み込んでいた。あの日僕が言いたくても言えなかった暗い気持ちを、慎二はなんの躊躇もなく、いとも簡単に吐き出してくれたのだ。

「確かにまあ、おまえもそれくらい家族に言っとけよとは思うけどよ。ああ、やっぱ無理か。あのかあちゃんじゃ」

「まあ……そうだね」

「それにしてもよ」

 ふいに、慎二の声が拗ねたようにぶっきらぼうな色味になった。

「おまえばっか、あの人たちと遊んでてずるいぞ。なんで俺も呼ばねえんだよ」

「何言ってるの。呼べるわけないでしょ。慎二は音楽とか真面目に聴かないし、プラネタリウムで寝るじゃない」

「うるせえ、そんなんわかんねえだろうが」

「何度も言うけど、君は僕の趣味をいつも馬鹿にしていた。それは、ヒマリさんやアリスの趣味まで侮辱したことになるんだよ」

 慎二は、うっと言葉が詰まったようなわかりやすい表情を浮かべた。堪えかねたようにふいとそっぽを向く。

「――すまねえ」

 その蚊の鳴くような小さな声に、僕は意表を突かれた。

「俺、そういうのわかんねえんだよ……なんていうか、肌に合わなくてさ」

「合わない人も、そりゃ、いるよ。僕だって慎二の好きなものは一つも合わないし。でも、本人に向かって馬鹿にしたりしないよ」

「すまなかった」

 もう一度、彼は、まっすぐ僕に謝った。

「もう、しねえよ」

「うん」僕も、まっすぐ彼を見る。「もう大丈夫だよ」

 意外だった。拍子抜けした。ただの不良だと……僕をいじめてばかりの嫌なやつだと思っていた慎二が、これほど素直に自分の非を認めるなんて。

 もしかしたら彼は、乱暴で粗野で不器用なだけで、根は悪いやつではないんじゃないか……と、僕の中に一つの希望が生まれる。

 それから、互いに口を閉じ、ぼんやりとジュースを啜っていた。つけっぱなしのテレビから賑やかな笑い声が響いている。

「大丈夫ならさ」慎二が再び口火を切った。「そんな死にそうな顔してんなよ」

「死にそうな顔?」

「自覚あるだろ。学校でもずっとぼーっと空ばっか見て、泣きそうな顔してよ」

「そんなの……どうしようもないじゃないか」

 僕のせいでヒマリさんを傷つけ、何も弁解する余地も与えられないまま、彼女は忽然と去ってしまった。もう、彼女には会えないのだ。

「どこにいるかも、わからないのに……あんな別れ方をしたのに……」

「確かに、おまえのかあちゃんもにいちゃんもやりすぎだなって思うし、俺もぶっちゃけ腹立つぜ。でも、何も絶望することねえじゃん」

 僕は訝しげに彼を見た。

「どうして……」

「だってこんなん、おまえがまだ中学生だからだろ。義務教育でさ、何の力もねえわけよ。でもおまえだっていつか大人になる。そしたら家を出て、思う存分、その人を探せられる」

「そんな簡単にいかないよ。日本のどこに……いや、日本にいるとも限らないのに」

「うるせえよ。いいからおまえは、とにかく黙って勉強してろ。今は我慢して、きついかあちゃんの監視に耐えて、家族の目を欺け。で、できるだけ遠くの、好きな大学へ行け。親を納得させながら、親の目の届かねえ場所に行くんだ。それは早ければ早いほどいい。とっとと独り立ちすれば、その分早く出会えるかもしれねえからな」

 僕が何か口を挟む前に、慎二はさらに付け加える。

「つまり、浪人なんかしてる暇はねえぞ。このままケンジャはケンジャらしく突っ走れ。これは――」すっと息を吸う。「これは、おまえの試練だ」

 堪えきれず、僕は吹き出した。真顔だった慎二の顔がみるみる不機嫌になっていく。

「おまえ何笑ってんだ。ぶん殴るぞ」

「ごめん、その、まさか慎二の口から、そんな言葉が出ると思ってなくて……」

「馬鹿にしてんのか!」

 してない、してない……笑う僕の顔にクッションがおもいっきり飛んでくる。いつの間にか入ってきていた妹のまりんが悲鳴を上げて、「にいちゃん何やってんだよ!」と慎二につかみかかっていた。

「うるせえ、俺らは今大事な話をしてんだよ! どっか行けよ」

「うそつけ、今この人にボーリョクしてただろうが! にいちゃんこそどっかいけよ!」

 僕はもう、笑いを止めることができなかった。

 ここ数日、僕の心は暗雲に閉ざされていた。あちこちに見えるヒマリさんの痕跡に胸を痛め、焦がして、苦しさに泣いていた。その傷口を塞ごうとでもいうように、僕は心の底から笑い続けていた。

 慎二の家は、僕の母さんが見たら卒倒するような家だけど、僕の知るどんな家庭よりも温かいものが流れていると思った。

 夕方になり、僕は慎二の家を出た。慎二の母が「もう帰んの? お好み焼き、食べてかない?」と親切に言ってくれたけど、さすがに怒られそうなので遠慮した。帰り道は慎二が送ってくれるという。

 静かな、ひと気のない道を歩きながら、僕は夕暮れの空を見上げていた。遠くに見える山の連なりが燃える空に輪郭を溶かしているのを眺めて、小さく口を開く。

「ありがとう、慎二」

「何がだよ」

「僕、本当にもう、大丈夫かもしれない」

 試練、と慎二は言った。

 僕は非力な中学生で、いつもヒマリさんに甘えていた。「妹」として、なんでも彼女に与えられて、それをただ愛でていただけに過ぎない。

 だけど、いつか。

「いつか、ヒマリさんと出会える日が来たら、今よりもっと大人になって、次は彼女を支えてあげたいんだ。そう――エスコートできるようになりたいんだ」

 今は全力でその準備をする。その期間なのだ。

 慎二は、「そうかよ」とぶっきらぼうに言った。

「そん時は、絶対俺に連絡をくれ」

「そうだね、一度慎二もヒマリさんに会ってもらって……」

「馬鹿野郎、アリスだよ。アリスに会わせろよ」

 それだけは、死んでも叶えられない。

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