第十五話 崩れる楽園

 僕の買った青十字のケーキは、ヒマリさんの用意したものと比べるとやはり見劣りして見えた。値段の違いだろうか、テーブルに並べてしまうとその差は歴然として見える。

 落ち込む僕の横で、ヒマリさんが「わあ!」と無邪気な歓声をあげた。

「かわいらしいケーキね、さすが青十字! イベントシーズンじゃなくてもこんなに凝ってるんだから、人気なのもうなずけるね」

 彼女の言葉には、無理して取り繕ったような色が一つもうかがえなかった。本気で喜んでいるのだ。幼い少女のように。

「ありがとう、アリス。本当に嬉しい」

 アメジスト色の瞳が僕を映している。シャンデリアの光を受けて、宝石のようにきらきらと眩しかった。僕はたまらず目を逸らした。膝の上で、少し汗ばんだ手を握りしめる。

「よかったです、とても。できるだけ、似合うものをと思って……」

「ケーキを選ぶセンスもバッチリなんて、あなたは本当に色んな才能にあふれているのね」

 照れくさくてむずがゆくて、僕は曖昧な笑みで誤魔化しながら彼女の皿へケーキを取り分けた。

 僕とヒマリさんはその後もお菓子やケーキを食べながら談笑していた。クリスマスパーティというより小さなお茶会だ。テーブルの上は豪華だけど、やっていることはいつもと変わらない。

 話す内容は主に互いの好きな小説や漫画についてだった。ヒマリさんは僕なんかよりよっぽどたくさんの物語を知っていて、その全てがことごとく僕の心に反響した。彼女の口から語られたら、きっとどんなものでも素晴らしく特別なものに聞こえるんだろう。僕は自分でも呆れるくらいに単純なのだ。

 僕は彼女のカップの紅茶が少なくなると継ぎ足し、皿のお菓子を取り分けた。ポットの中身がなくなると下まで取りに行った。

「忙しいのね」

 ヒマリさんがくすっと笑う。「王子というより、執事みたい」

「執事、ですか」

「そう。お嬢様と執事。これもなかなか、素敵じゃない?」

 想像してみる。僕はヒマリさんの執事。毎朝彼女を起こして、朝の紅茶を用意して、朝食を食べさせて、お仕事の秘書をして、午後はお茶の準備をして……

「……素敵、ですね」ぼんやりと、そう呟いた。

「本当に、そうなったらいいのに」

「もう、そんな本気にしないで」

 ヒマリさんの冷たい手が、僕の頬にそっと触れた。

「執事は使用人でしょう。アリスはわたしの姉妹なのだから、そんなこと本気で望まなくったっていいの」

 ふいに、彼女の手の冷たさが強く感じられた。体の熱が急激に冷めていく感覚。――僕は、思い違いをしていたのだろうか。彼女は僕に、アリスでいてもらいたいだけで……

「ああ、お腹いっぱい。ケーキ、おいしかったね。あなたの選んだのが良かったのよ」

「そんなことないですよ」

 彼女はカップの中身を飲みほして、思いついたように手を打った。

「ねえ、スケッチブック、持ってきてる?」

「はい、一応……」

「じゃあ、今からわたしを描いて」

 言うやいなや立ち上がり、明るい窓台に腰掛ける。はやくはやく、と声を弾ませて、靴の先をゆらゆらと揺らす。

「だってせっかく特別な装いをしているんだもの。今描いてもらわなくっちゃ」

「わかりました、すぐ用意しますから」

 鞄の中から急いでスケッチブックと鉛筆を取り出した。彼女はもう、窓台に足を伸ばして、クッションを抱いている。

「そこのイーゼルを使って」

 彼女が指した部屋の隅に、美術室にあるような立派なイーゼルが置かれていた。それをソファの正面に持ってきて、スケッチブックを立て掛ける。

 鉛筆を構えた僕に、彼女は「様になっているよ」と嬉しそうにはにかんだ。

「わたしがアントワネット、あなたはルブランね」

「ルブランなら、油彩では」

「確かにそうね……もう少ししたら油彩をやってみましょう。でも、まずは鉛筆でしっかり基礎を学んでからね」

 言われてみれば、僕は絵を描き始めてまだ間もなかった。今は、鉛筆で確実に彼女を描けるようになるのを目標にすべきだろう。

 僕はスケッチブックに集中した。頭の中には『セギュール伯爵夫人』の柔らかな微笑みが浮かんでいる。いつか、あんな風にヒマリさんを描くんだ。僕だけに許された、僕だけの特権だ。

 窓台でくつろぐヒマリさんの肩に、透き通るようなレースのカーテンがゆったりとかかっていて、まるで妖精の羽根みたいだった。この彼女の美しさをあますところなく描きたい――突き上げるような衝動に胸が熱くなる。宮廷画の巨匠たちもこんな気持ちだったのだろうか? 僕は息をするのも忘れ、夢中で手を動かしていた。

 軽く全体を描いてから、細部を描き入れていく。微笑を浮かべた美しい頬の丸み、黄金の巻き毛、白く細い首、胸元へ続くなだらかな曲線……一つ一つを丁寧に描き込みながら、改めて彫像のような彼女の美貌に我知らずため息がこぼれ出る。この「美」の全てを描き切るなんて、果たして可能なのだろうか? 途方に暮れ、ヒマリさんを見上げる。陽の光を背にした彼女の微笑は聖母のようだ。今にも天使たちに引っ張られて、昇天してしまうんじゃないかと怖くなるくらいに……

 開いた窓の外で、鳥が軽やかにさえずっている。のどかな時間。ゆったりと穏やかな静けさがこの空間を支配していた。

 その時だった。突如、割れたような古いベルの音がりいんりいんと響き渡り、のどかな空気を引き裂いた。

「誰かしら」ヒマリさんが首を傾げる。「荷物なんて頼んでいないけれど……」

 窓台からすとんと降りて、部屋を出て行ってしまう。しばらくするとまたベルの音が鳴った。アンティークといえば聞こえはいいけれど耳障りなひどい音だ。

 扉の開く音がして、僕は振り向いた。

「おかえりなさい、宅配ですか――」

 言葉が詰まる。戻ってきたヒマリさんの顔は、今まで見たことないほど険しく曇っていた。

「ちょっと、来て」

 彼女が小さく手招く。不穏な予感を覚えながら立ち上がり、言われるがままについていく。彼女は二階の廊下の真ん中、ちょうど館の正面に位置する窓のカーテンに指先で小さな隙間を作って、僕を促した。

「見てみて」

 どうしたというんだろう……まさか不審者だろうか? ざわつく胸を抑え、僕はおそるおそる外を覗いた。そして、驚愕に息を呑んだ。

 草木の生い茂った廃庭の奥に黒い鉄門扉がある。その向こうに、人が二人、立っているのが見えた。女の人と、青年。その姿は間違いなく――

「……母です」僕の声は、みっともなく震えていた。「母と、兄です」

 どうして、ここに。

 りいんりいん。ベルの音が警鐘のように何度も何度も鳴らされる。そのたびに僕の全身から血の気が引き、手足が氷に包まれたように冷たくなっていった。

「わたしが出るね」

 ヒマリさんが僕の肩を押して、衣装部屋を指す。

「なるべくはやく着替えておいで。その間に応対しておくから」

 僕はうなずき、衣装部屋へ急いだ。なぜ――何がどうなっている――まったく状況が呑み込めない。ただ急速な心臓の鼓動だけが胸の中でうるさく鳴り響いている。


 ***


 横澤涼子は息子の賢人を引き連れ、怪しい館の門戸に取り付けられたチャイムを鳴らし続けていた。荒れた庭や蔦に覆われた館の様相も相まって、割れた古い音がひどく不気味である。

「表札もないなんて、信じられないわ」

 もう一度チャイムを鳴らしながら、彼女はいらいらと呟いた。

「本当に、確かなんでしょうね。あの子がこんな家に――」

「見間違えるはずはないよ。あれは賢嗣だった」

 賢人が自信たっぷりにうなずく。するとようやく、チャイムに取り付けられたスピーカーからざざざ、と乱れた音が響き、

「はい、どちら様でしょうか」

 と涼やかな女の声が聞こえた。

「お向かいの横澤と申しますが、そちらに息子の賢嗣はおりませんか」

 スピーカーの向こうの声は、ためらいもなく「はい」と答えた。

「門扉の鍵は開いております、どうぞお進みください。わたしもすぐに参ります」

 母と息子は互いに顔を見合わせた。

 横澤涼子は古びた鉄門扉に触るのも嫌そうにしているので、賢人が門を開き、雑草の生い茂る庭に進んで足を踏み入れた。

「この辺りなら服も汚れないと思うよ、母さん」

 賢人が手を差し出し、母を導く。

「一応石畳になっているから、ここを通って」

 横澤涼子は踝まであるスカートをたぐりよせ、顔をしかめておそるおそる庭の石畳を踏みしめた。

「こんな、荒れた庭……信じられないわ。住人の素性も知れるというものね」

「こんな辺鄙なところに棲みつくくらいだから、かなりの変人だと思うよ」

 二人が玄関にたどり着くと同時に、重厚な木製の扉がゆっくりと開いた。中から現れた女の容貌に、母は顔をしかめ、兄も眉をひそめる。

「はじめまして。賢嗣くんのお家の方ですね」

 女は、この親子が嫌う類の装いをこれでもかと詰め込んだような恰好をしていた。ぎらぎらとうるさく光る金髪に、派手派手しい髪飾り、ごてごてしたフリルとレースの馬鹿馬鹿しいドレス。今の今まで仮装パーティでもやっていたのかというような眩暈のする出立ちである。

 女は、二人の怪訝な反応に気づいているのかいないのか、涼しげな微笑を浮かべていた。

「お引っ越しのご挨拶もせずに、失礼いたしました」

「そんなことはどうでもいいです」

 横澤涼子が一歩進み出る。

「うちの賢嗣が、こちらに何度も出入りしているようなのですが、本当ですか?」

「はい」女は微笑を崩さずにうなずく。「すみません、一言、ご挨拶に伺うべきでしたね。勝手をいたしまして、申し訳ありませんでした」

「挨拶ですって――」横澤涼子は白い額に青筋を浮かべていた。「自覚なさってますか? 大の大人が、中学生を、それも異性の子を家に引きずり込んでるんですよ? それをそんな」

「賢嗣くんは、ここへはお勉強をしに来ていました」女は、涼子の剣幕に全く動じる様子もない。「うちには大量の書籍がありますので、喜んで読んでくれています。本だけではありません。美術にも興味があるようで、絵の才能もみるみる開花させてくれましたし、天文学にも興味を示してくれています。秀才ながら芸術にも秀でた、とても素晴らしい子ですね」

「なんなんですか、あなたは!」

 涼子が声を張り上げた。「わけのわからないことを言って……要するにあなた、未成年の子をたぶらかしたんでしょう! 親である私のあずかり知らぬところで、私の目を欺いて、こんな薄気味悪い場所に連れ込んで! 全て合点がいきましたわ。この大切な時期に成績を落とし、寝不足の目をしていた理由が……全部、あなたのせいじゃありませんか! あなたがうちの子を変なもので釣って、余計なことを吹聴して――」

「母さん!」

 館の奥から聞き慣れた声がした。女の肩の向こう、柱時計の影からこちらを覗く賢嗣の姿が見える。

「賢嗣!」

 涼子は女を強引に押しのけ、玄関に踏み入った。

「こんなところで一体何をしていたの! 正直にいいなさい」

 賢嗣は真っ青な顔で、ひどく怯えた目つきをしていた。ぼさぼさの髪、乱れたシャツの襟元……その状況から母親の中で全てがかちりと繋がった。

「わかったわ。警察に通報します」

 涼子がポケットからスマホを取り出した。血管の浮いた白い手は怒りに震えている。

「青少年を家に引き入れて性的接触をしていたと言いますから」

「母さん、違うよ! ヒマリさんは何も悪くない!」

 賢嗣が焦ったように手を伸ばし、母のスマホを抑えようとする。

「何するの、離しなさいっ」

「だめだよ、母さん! ヒマリさんはただ、僕にいろんなことを教えてくれていただけなんだ!」

「教えるって、何を? 言ってみなさい。内緒でこそこそと何を教わっていたというの」

「内緒って……当たり前じゃないか!」賢嗣も母の剣幕に負けじと声を張り上げる。「母さんは、母さんの考えた道筋しか信じないし、それ以外を歩こうとしたら必ず止めるでしょう! それがどんなものかも知らないで、知ろうともしないで、頭ごなしに怒鳴るだけなんだ!」

 蒼白な顔で言葉を失う母に、賢嗣はさらに畳みかける。

「ヒマリさんは、僕の好きなものを否定しなかった。それどころか、僕の世界をもっと広げようとしてくれたんだ。母さんの嫌うクラシック音楽の素晴らしさ、美術の奥深さ、絵を描く楽しさ、星空が綺麗ってこと……教科書や問題集には書いてないこと全部、僕はここで教わった! 母さんは興味もないから知らないだろうけど、僕は美術の成績が良くなったんだ。ここで描いた絵を提出したら先生に呼ばれて、直接褒めてもらった。音楽だって、鑑賞能力や知識が上がって成績に直結してる……何より、僕は、今やっと、生きているのが楽しいんだよ!」

 最後の言葉は、賢嗣のすべてだった。

 母の敷いた、息子を秀才にするためだけの、完璧なレール。その道筋を何の疑問も抱かず歩いていく兄の背中を追いながら、賢嗣は言い表せない憤懣をずるずると引きずっていた。それは小さなしこりのようなものであったが、いつも黒々と胸の中にあり、徐々に大きく膨らんでいった。

 母は、よく学びなさいと言いながら、自分の好むもの以外は全て息子から排除してしまった。小学生のとき、美術館や博物館に興味を抱いて、行ってみたい、と申し出たことがあったのだが、母は「そんなところに行くなら家で勉強なさい」と聞く耳を持たなかったのだ。終いにはいつも、兄はそんなこと言わなかった、兄を見習いなさい、そればかりを押しつける。

 母の機嫌を損ねないよう、成績を落とさないよう、ただそれだけのために勉強する日々。休日も母の許可なしには外へ出られない。だんだん世界が色褪せていく。自分は一体何が好きで、何をしたいのか、わからないまま時が過ぎていった。唯一、学校の図書室で見つけた冒険小説だけは楽しくて、読書という小舟に縋りつきながら、色のない海原をなんとか漂っていられたのだ。

 ヒマリとの出会いはまさに、賢嗣にとって救いの光だった。彼女と言葉を交わし、館に溢れる宝物に触れるうちに、灰色の世界がぽっと色づき、賢嗣は世界の鮮やかさを思い出した。当たり前のように頭上に広がる空の美しさ、世界中にまだまだ眠っている興味深いものたち、わくわくするような冒険譚……すべては彼女が教えてくれたのだ。彼女を想う、この胸の甘苦しい気持ちさえ、この出会いがなければ永遠に知らないまま生きていたかもしれない。

 賢嗣の荒い息遣いが響く。周囲の時が止まったようだった。その場にいる誰もが凍りついたように動かない。

 やがてその空気を打ち破ったのは、震える母の声だった。

「……そう」

 ふつふつと煮えたぎる感情を無理矢理ねじ伏せたような、低く抑揚のない声だった。

「あなたが、そこまで悪影響を受けているとは思わなかったわ。思ったより、深刻だったのね」

「どうして……」賢嗣は狼狽え、一歩あとずさる。「僕の話、聞いてた? 悪影響だなんて……」

「ひまりさん、とおっしゃいましたね」

 涼子がヒマリに向き直る。ヒマリは、これほど追い詰められているというのに表情を崩さず、まっすぐ堂々と立っていた。その姿にすら、涼子はふつふつとした怒りを覚えていた。

「よくもこの子を、ここまで洗脳なさいましたこと。ええ、確かにあなたが何かをしたという証拠はありませんし、通報しても何にもならないかもしれませんわね。でも、金輪際うちの子に関わらないでくださいます? 具体的には、二度と会わず、顔も見ないでいただきたいの」

「母さん」賢嗣が声を上げかける。だが、涼子は無視して続けた。

「了承していただけないなら、別の手段を考えますよ。警察以外にもいろいろあるんですからね」

「わかりました」

 ヒマリは、静かにうなずいた。

「おっしゃるとおりにいたします。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」

「ヒマリさん!」

 賢嗣の金切声が響きわたる。

「どうして! ヒマリさんは何もしてない! 謝るなんておかしいよ、僕たちはただ、一緒に――」

「賢嗣」今まで押し黙っていた兄が、母の後ろから鋭く厳しい声を発した。

「帰るぞ」

 兄の固い表情とその佇まいを目にして、賢嗣の顔色がみるみる変わっていく。受け入れ難い何かを察したような、驚愕と絶望の色であった。

 賢嗣は、お茶会の帰りに見た光景を思い出していた。館の門に入る前、自分の部屋の窓ガラスに ちらりと映った人影――その正体を考えたとき、兄がなぜ母についてやってきたのか、わかったような気がしたのだ。

 母と兄が玄関を出る。母はいらいらと庭の草木に悪態をつき、兄は無言だった。賢嗣は不安げな顔で後ろを振り返る。ヒマリの表情が、気になった。彼女に申し訳なく思う気持ちもあるし、ただこの混乱と絶望の気持ちをわかってもらいたいという思いもあった。もう会わせないなんて母は言ったが、馬鹿げている。彼女の目を見て、自分の意思だけは何が何でも伝えておきたかったのだ。

 だが、ふりむいたときには、館の扉は軋んだ音を立てていた。賢嗣の視界の先で、ばたんと無情に閉じられる。かちゃりと鍵のかかる音。ヒマリは、見送ることもしなかった。母の望む通り、本当に二度と顔を見ないつもりなのか。

 連行される囚人のように、賢嗣は魂の抜けたような顔でずるずると家まで歩いていった。時折、未練がましく館をちらちらと振り返るが、扉も窓も固く閉ざされ、ひっそりと息を潜めていた。

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