第十六話 さよならアリス
それから僕は、リビングで兄の同席のもと、母から厳しく問い詰められた。ヒマリさんの館にいつから行っていたのか、そこで彼女に何をされたのか。母は一貫してヒマリさんが僕を性的にたぶらかしたと決めつけ、僕が折れてボロを出すのを待っているかのように延々と尋問し続けた。
気づけば窓の外に薄闇が降りてきている。心も体もくたくたになっていた。
「もう、埒があかないわ」母が天を仰ぎ、ふかぶかとため息をつく。
「賢嗣、本当のことを言ってくれないと困るのよ。あなたに罪を犯した人が、その自覚もなしに今後も平気で世の中を生きていくことになるのよ。それはいけないことだと思わない?」
「何度も言うけど、あの人は僕に何もしていないよ。無理矢理拉致されたわけでもない、僕が自分で望んであそこに通っていたんだ」
「そう仕向けられていたんでしょう? 賢嗣、あなたは私の子、賢人の弟、しかも中学生なのよ。純粋でまだまだ世間知らずなの、洗脳されているだけなのよ。どうしてわかってくれないの」
わかってもらいたいのはこっちなのに。
結局、母は夕食の準備をしなくてはならず、父が帰ってから家族会議を再開すると言って席を離れていった。兄が「二階へ戻ろう」と僕を促した。
「兄さん」
階段の踊り場で、僕は立ち止まった。言おうか、どうしようか……僕は恐れていた。兄の口から真実を聞くのが怖かった。
でも、訊かなくちゃならない。
「母さんに告げ口したの、兄さん?」
兄は、ゆっくりとこちらを振り返った。僕と違って細く鋭い兄の眼は、意外にも、どこか柔らかい感じがした。
「告げ口、か」
兄は再び歩きだし、「俺の部屋に行こう」と小さな声で言った。
兄の部屋に入るのはいつぶりだろうか。まったく見知らぬ人の部屋に入った気分だった。隅々まで整頓され、無駄な物が何一つない部屋……その窓際に置かれたベッドに座るよう促され、僕はおとなしく従った。
窓からは丘の下の町が見渡せた。とても見晴らしがいい。この家に引っ越してきたのは僕が小学校に上がる前で、下見の時に母が「ここは賢人の部屋にしましょう」と進んで取り決めたのを思い出す。
「おまえ、さっき告げ口と言ったな」
兄が勉強机の椅子を引っ張り出して腰掛ける。背中を少しかがめ、僕を真正面に見据えた。
「確かに、俺は以前から、おまえの様子がおかしいのに気づいていて、母さんに相談していた。母さんは友達ができたのだと思っていたみたいだが、俺は、おまえがあんな風に積極的に外に出ることにすら疑問を抱いていたんだ。おまえは元々独りが好きだろ。自分の世界に干渉されるのが嫌だから、誰ともつるまない。おまえの根底にあるその考えが、そう簡単にねじ曲がるとは思えなかった」
どうやら兄は、僕の思う以上に弟に対して関心を寄せていたようだ。どうりで最近妙な質問が飛んできていたわけだ。
「おまえの中で、あるいは周囲で、何か大きな変化があったに違いない……そう考えた俺は、おまえの様子を注意深く観察していた。そして、気づいたんだ。あの館に人が引っ越してきてからおまえに変化が現れた、と」
兄は恐ろしい観察眼と持ち前の頭の良さで、僕と館とを早々に結びつけていたらしい。兄の鋭さに改めて感心してしまう。母の贔屓目を抜きにしても、兄は聡い。いやらしいほどに。
それから兄は、僕の不在の間に僕の部屋へ忍び込んでいたことを告白した。堂々と、何の悪びれもなく――
「おまえの部屋で見慣れないスケッチブックを見つけたとき、本当に驚いたよ。まさか絵を描いていたなんて。しかも、かなりうまい。俺はそういうの、からきしダメだから感心したな。同時に、寒気を覚えたのも事実だ。どれも全部、同じ容姿の女性が描かれていた。あの館の住人だな。テスト期間で早めに帰宅したとき、一度だけ見たことがあったんだ。ものすごい恰好……ゴスロリというんだったか、金髪に赤いスカートで外に出ているのをな」
「ゴスロリじゃないよ。ロリィタだよ」
反射的に僕は訂正したが、兄は「なんでもいい」と取り合わなかった。
「俺はそこで確信したんだ。賢嗣はあの女性と親密になっているんだと。おまえが寝不足気味なのも、成績を落としたのも、全部あの女性にのめり込んでいるせいじゃないかと考えた」
「そんなことないよ。ただやりたいことが広がって、ついおろそかにしてしまっただけなんだ。でもたった一度きりじゃないか、その後で取り戻したし――」
「社会にでれば、取り返しのつかなくなることは山ほどある。一度きりだから許されるなんて、学生の身分だけだぞ」
ぴしゃりと叩きつけるような声音に、僕はぐっと息を詰めた。重たい静寂が肩にずしりとのしかかる。
兄はしばらく鋭い眼差しを窓の向こうにやっていたが、また僕の方へ視線を戻した。
「まあ、それはいい。続きだ。俺はおまえの些細な変化を見逃すまいと思い、申し訳ないが何度も部屋へ入っていた。あの土曜日もそうだった」
僕ははっとする。お茶会の帰り道、僕の部屋の窓辺に見えた黒い人影――
「ふとおまえの部屋の窓から外を見たとき、俺は目を疑った。金髪の女性の隣に、白い髪の、似たような恰好の女の子がいた。初めは友達か何かかと思ったが、やはり家族の目を誤魔化すには甘かったな。歩き方の感じが、どう見ても俺の弟そのものだった」
さっと血の気が引いた。やっぱり、あの時見られていたのだ。しかも兄に……胃が冷水を浴びたように縮こまり、指先がすうっと冷たくなっていった。
だけど、待てよ……
母がヒマリさんや僕を責めるとき、そのことには一度も触れなかった。母はしきりに性的接触だ、たぶらかしだと言っていたから、僕を女装させていたという事実について必ず問い詰めるはずだ。にもかかわらず、そこに触れなかったのは……
「安心しろ、これは誰にも言っていない」
僕の心中を見透かしたように兄は首を振った。
「勘違いするなよ。おまえを庇ったわけじゃない。こんなことを母さんが知ったら、余計なショックを与えるだけだからだ。母さんがものすごく繊細なのはおまえだってよく知っているだろう」
「……うん」僕はうなずいた。母はどんな些細なことでもすぐにヒステリックになり、怒ったり泣き喚いたりする人だ。昔から兄は母を異常なまでに慕っているので、そんな姿を見るのは耐えられないのだろう。僕だって見たくはないけれど、それは単純に怖いからだ。
「今日だって、本当は俺ひとりで行くべきかとも思った。でも、おまえが実際に何か被害を受けていた場合、俺ひとりじゃ対処は難しい。父さんは多忙だし、悔しいが頼れる保護者は母さんだけだったんだ」
兄さんは、椅子ごと前に身を乗り出した。キャスターが、じり、と転がり、僕の眼前に兄さんが近づく。
「賢嗣。頼むから、もう二度と、うちの家族を混乱させないと誓ってくれ。母さんを悲しませないよう、今まで通り勉強に励んで、俺以上の学校に上がって、母さんを安心させてくれ。女装趣味が悪いとは言わない――俺は到底理解できないが――大人になって自立するまで忘れてくれないか。頼む、賢嗣」
兄からこんな風に何かを求められるのは生まれて初めてのことだった。僕より背が高く、僕より期待され、僕を見下していたはずの兄が、困り果てたように、母を庇って小さくなっている……
「……わかってるよ」
喉が絞められたように苦しかった。僕は喘ぐように息を吐く。
「わかってる……」
夜、僕の部屋に父が訪れ、一対一で話をした。父は母や兄と違い、ただ静かに、最後まで僕の話を聞いてくれた。アリスの仮面のこと以外はほとんど話してしまったように思う。彼女と同じ趣味で盛り上がったこと、図書室のプラネタリウム、絵の練習、触れた音楽など、すべてを。
「そうか。賢嗣は、そのヒマリさんという人に本当に良くしてもらったんだな」
ようやく理解が得られそうで、僕は夢中でうなずいた。だけど、父の顔は暗い。唇は真一文字に結ばれている。
「しかしな、真実がどうであれ、世間的に見れば、大人の女性と、いたいけな男子中学生だ。家族に秘密で家に招かれて、何が行われているか……どんな風にみられるかということくらい、おまえにも想像つかないわけじゃないだろう」
父は、静かに、僕の肩に手を置いた。
「この先、またおまえがその人を頼り、こそこそと関わるようなことがあれば、その人にも迷惑がかかるんだ。仮に、外でばったり会ったら挨拶くらいはするといい。だが、それ以上に関わりたいなら、方法を考えなさい。父さんに相談してもいい。……時間が、合えばだが」
頭ごなしの否定でも、家族の形ばかりを気にした擁護でもなく、ただ平たいその物言いは、何よりも深く僕の心に突き刺さった。
僕のせいでヒマリさんに迷惑がかかるのだけは、絶対に嫌だ。だけど、これから二度と会えないなんて、どうやったって受け入れられない……
深夜、僕は部屋の窓を開けて顔を突き出し、館の方に目を凝らした。だけど全ての窓が固く閉ざされていて、灯り一つ見えなかった。
何度、窓を越えて、館を訪ねたいという思いに駆られたことだろう。でも、そのたびに母の怒りの形相や兄の丸まった背中、父の言葉が僕の肩を掴んで引きずり戻すのだ。
ヒマリさんに会えないまま冬休みに入り、僕は兄に連れられて祖母の家に行くことになった。いつもは年越しに会わせて訪ねるのだが、予定が繰り上がっているのは僕に要らない気を起こさせないためだろう。
そして年が明け、僕は兄と共にK駅に帰ってきた。
「俺、ちょっと本屋に寄るから、先に帰ってくれないか」
兄がそう言うので、僕は着替えや宿題の入ったリュックを背負い直してひとりで歩いて行った。白い息を吐きながら黙って坂を上っていると、ヒマリさんとの思い出が唐突に甦ってくる。二人してロリィタ姿で目立っていたので、道行く人にじろじろ見られたことや、公園で慎二たちと鉢合わせたこと、途中で雪が降ってきて、二人でチャペルのような美しい傘を差したこと……
はらり、眼前に白い粉雪が舞い降りてくる。僕は家と館に続く坂のふもとで立ち止まっていた。両の手のひらで雪に触れたくて……けれど、白い欠片は触れるか触れないかのうちに一瞬で溶けて消えてしまう。
深々とため息をついて、僕は歩みを進める。坂道を一歩一歩進むにつれ、ふと、館の方が何やら騒がしいのに気がついた。
何人もの人の気配がする。恐る恐る近づくと、館の前に白いトラックが停まっているのが見えた。青い制服を着た男の人たちが館を出入りし、荷物を運び出しているのだ。
「あの」
思わず声を上げ、走り寄っていた。トラックの手前にいた引っ越し業者の青年が僕に気づき、首を傾げる。
「こんにちは。どうかしたかい?」
「ここの人、引っ越すんですか」
「ああ、そうだよ。もしかして、ええと……」
青年はスマホを取り出し、「横澤賢嗣くん?」と訊ねた。僕は戸惑い気味にうなずく。
「そっか、君が……」
青年は、「ちょっと待ってて」と言ってトラックの方へ行ってしまった。再び戻ってきたとき、軍手のはまった手に白い封筒があった。
「これ、引っ越しの依頼をくれた人から託されていたんだ。お手紙かな」
僕は、おそるおそる手を出して、手紙を受け取った。雪のように真っ白い、清潔な封筒だった。宛名も差出人も何も書かれていないけれど、外国映画で見るような赤い封蝋がしてあった。
「ありがとうございます」
弱々しくならないよう、精いっぱいに声を張った。微笑みまでつくって、ぺこりとお辞儀した。
封筒をコートの胸元に隠して家に戻った。リビングにいた母親に「ただいま」と声をかけ、「兄さんは本屋行ってから帰るって」と早口で言い置いてから自室に駆け戻る。足元に荷物を放り出し、コートの内側から封筒を引っ張り出した。
ヒマリさんだ。ヒマリさんが引っ越し際に僕に残したメッセージだ。一体どんなことが書かれているのだろう……引っ越し先を知らせてくれるのか、それとももう、本当に、二度と会わないと書かれているのか、もしそうならどんな風に別れを惜しんでくれているだろう……
期待と不安がない混ぜになり、心臓の鼓動が痛いほど速くなる。浅い息づかいを繰り返しながら、震える指先を叱咤して、封筒の端を鋏で切った。
中には紙が一枚だけ。封筒とお揃いの真っ白な便せんには、広い面の真ん中にぽつんと一言、書かれていた。
『さよなら アリス』
アリス。
アリス、だって。
視界が滲む。唇が震える。指先から手紙がはらりと落ちた。僕はその場にうずくまり、声を押し殺そうとした。でも、できなかった。喉が震えてみっともない嗚咽が漏れてくる。
僕はヒマリさんの特別だと思っていた。だって、僕の中でヒマリさんは何ものにも代えがたい存在だったから。ヒマリさんもそうだと思っていた。いや、実際そうだったのかもしれない。アリスは、彼女の妹だったから。
僕は――「賢嗣」は、彼女の何だったのだろう。
彼女との最後を思い出す。最悪な別れだった。母に一方的に責められ、まるで犯罪者のような扱いを受け、きっと嫌な思いをしたに違いない。アリスとの仲を引き裂いた僕のことを恨んでいるだろうか。母の子である「賢嗣」を嫌いになっただろうか。僕は、僕は……こんなに、好きなのに。
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