第十四話 彼女の王子さま
翌朝五時、目覚ましが鳴る一時間も前に目が覚めた。
今日は待ちに待ったヒマリさんとのクリスマスだ!
一気に意識が覚醒し、きびきびと起き上がって着替えた。朝ご飯を食べ終え、すぐに自室の机に向かう。正面にヒマリさんの絵を立て掛け、側にリップクリームを置いて、気合いを入れる。今日は何が何でもノルマを終わらせて、出来るだけ早く行かなくちゃならない。
昨夜はヒマリさんの館を訪ねていなかった。事前に「いろいろ準備もあるし……ね?」と、やんわり断られていたからだ。今日を祝うための準備だろうか。僕だって手ぶらで行くつもりはない。少し早めに出て、駅前の青十字でケーキを買うんだ。
昼の食卓に父はいなかった。昨日早く帰ってきたせいで仕事が詰まっているらしい。母と兄と三人の食卓だけど、昨日の心地よい余韻のおかげか、いつもみたいな息苦しさは感じなかった。
「賢嗣、なんか機嫌がよさそうだな」
兄がオムライスにケチャップを追加しながら言った。
「今日、友達とでかけるのか?」
「まあね」
「もしかして彼女じゃないだろうな」
その瞬間、母のこめかみがぴくりと動いた。まずい。今機嫌を損ねるわけにはいかない。
「兄さん、僕に彼女ができるように見える?」
「まあ――」兄はわかりやすく言いよどんだ。「おまえの特殊な趣味に付き合ってくれるような、懐が海より広い子なら、あり得るかな」
「そんなの、いるわけないでしょ」
恋愛とは違うけれど、同じ趣味を共有してくれる女性なら、いる。だけどそれは僕だけの秘密だ。母にも兄にも土足で踏み入られたくはない。
幸い、その後の母の機嫌は保たれていた。僕は難なく昼食を終え、「ごちそうさまでした」と、努めて明るく席を立つ。食器を洗う間、気を抜いたら鼻歌を歌ってしまいそうだった。いけないいけない、冷静に、普段通りにしていなければ。
家を出る頃には昼の一時半になっていた。じゅうぶん間に合う時間だ。駅へ向かって、意気揚々と坂を下りる。僕の気分とは裏腹に、空はどんよりと灰色に曇っていた。昨日の陽気はどこへ行ったのだろう、空気はどっと冷え込んでいて、冷たい空気が僕の頬を打ち付ける。
一週間前、僕はアリスとなってこの道をヒマリさんと一緒に歩いたんだ。ついこの間の出来事なのに、まるで遠い日の、別世界での出来事みたいに感じる。
ここは憂鬱な通学路であり、慎二たちと出くわしやすい道であり、決して好きにはなれない景色のはずだった。それなのに、たった一日で特別なものになるだなんて。
駅の近くの青十字は相変わらず人でいっぱいだった。もうクリスマス仕様ではないけれど、凝った見た目のケーキがたくさん並んでいる。悩んだ挙げ句、その中からチョコレートケーキとショートケーキを選んだ。どちらも可愛らしいデコレーションがされていて、いかにもヒマリさんが好きそうな感じがしたのだ。
ケーキの入った小さな箱を大切に抱えて歩く。風は一層冷たく、鋭く吹きつけていた。はやく行って、館の鉄のストーブに当たりたい。そしてこのケーキを見せてあげたい。ヒマリさんはどんな反応をしてくれるだろう。「なんてかわいいの!」と少女のように目を輝かせてくれるだろうか。優雅に紅茶を呑みながら、一口一口、上品に美しく、味わってくれるだろうか……
僕の家と館に続く坂道の手前に見知った背中が見え、思わず立ち止まった。僕より一回りも二回りも大きな体躯、背中に龍の刺繍の入った派手なスカジャン……紛れもなく桑島慎二だった。でも、彼がここにいる理由がわからない。慎二の家は僕の家よりもっと南側にあり、この近辺には僕以外に同じ学校の生徒もいないはずだった。
どうしようかと迷っていると、ふいに慎二が振り返った。
「……ケンジャじゃねえか」
慎二の表情は、頭上の灰色の空のようにどんよりと憂いを帯びて見えた。いつもの覇気が感じられない。そういえば学校でも様子がおかしかったのを思い出す。
「どうしてこんなところにいるの?」
「それは……」
眉を寄せ、迷うように目線を落としている。こんな反応を見るのは初めてだ。まるで慎二らしくない。
「近所に知り合いでもいるの?」
「まあ、そんなとこだ」
彼は僕の言葉に乗っかかるようにこくこくうなずいた。ますます怪しさが募る。
「で、もう用事は済んだの? それともこれから?」
「おまえには関係ないだろ」
覇気のない顔が一変、噛みつく寸前の野獣のような目つきになる。僕は改めて目の前にいるのがあの桑島慎二であることを思い出した。
「ごめん、僕、もう行くよ」
これ以上機嫌を損ねる前に、急いで横を通りぬけていく。
少し心配だったけれど、追いかけてくる気配はなかった。坂を登りきり振り返ると、慎二の姿は傾斜した地面に隠れて見えなくなっていた。何しにここまで来たのか、まったく謎だ。
ヒマリさんの館に到着する。門の鍵はかけられておらず、僕が庭に踏み入るとすぐに玄関の扉が開かれた。
「いらっしゃい!」
今日はクリスマスパーティなので、きっと凝った装いをしているだろう――という僕の予想は外れ、ヒマリさんは地毛の黒髪のまま、シンプルな白いワンピースを纏っていた。
「こんにちは、ヒマリさん」
戸惑いを押し隠し、背中に隠していたケーキの箱を差し出す。
「あの、これ、よかったら……」
「まあ、買ってきてくれたの?」
ヒマリさんはぱっと目を輝かせ、嬉しそうに箱を受け取ってくれた。
「青十字じゃない。わざわざ、本当にありがとう。あとで一緒にいただきましょうね」
ヒマリさんは僕を館の中に通すと、箱を保冷しにキッチンへ向かった。そしてすぐに戻ってきて、何やら悪戯っぽい笑顔で僕の肩に手を置く。
「さ、いきましょう」
「あの、今日はどこで……?」
「パーティの前に、準備よ、準備」
と歌うように言って、肩をぐいぐい押してくる。
「準備ですか、何をすれば……」
「いつもの通りよ。でも、少し趣向を変えようと思って」
僕が連れて行かれたのは衣装部屋だった。彼女は扉を開け放し、勇んで奥へ入っていく。
「今日はね、二人で同時に服を選んで、別々に着替えるの。そして、最後に一緒にお披露目。どう? 素敵でしょう?」
なるほど、それで今はシンプルな恰好をしているのか。納得すると同時に、期待に胸が躍っていた。いつもはヒマリさんの姿を先に見てしまっているが、今日はぎりぎりまでわからない。互いにどんな恰好なのか、最後までどきどきしたまま見せ合うなんて……
「楽しそうですね! 是非そうしましょう」
ヒマリさんは寝室で、僕は衣装部屋で着替えることになった。お披露目は僕が寝室に出向いて行い、そのままパーティへ突入という流れになるらしい。
「じゃ、先にメイクだけしてあげるね」
僕はドレッサーのスツールに座り、ヒマリさんに化粧を施してもらった。
「今日はパーティだから、気合いを入れるよ」
と、取り出したのはお茶会の日にも登場した、あのきらきらした青のラメだ。
「アリスを素敵なお人形にしなくっちゃね……」
ヒマリさんはやっぱり手際が良くて、あっという間にアリスの顔が完成した。最後に、ヒマリさんが僕の唇に顔を寄せる。
「あ、ちゃんとリップを塗ってくれてるのね」
にこ、と笑う。至近距離で見つめられて、僕はどぎまぎしてしまった。ただルージュを引かれるだけなのに、僕の心臓はいちいち大げさだ。
「さ、できたよ」
ヒマリさんはアリスの仮面を鏡越しに見て、ため息をついた。
「本当にかわいいね。それに、髪も伸びたんじゃない?」
僕ははっと目を見開いた。そうだ、最近いろいろあったので切るのをすっかり忘れていた。
「あ……しまったな。短くしておかないといけないのに」
「そういえば、前にもそんなこと言ってたね。何かこだわりでもあるの?」
「こだわりというか……」
生まれてこの方、体格や顔つきのせいで女子みたいだとからかわれ続けて、もううんざりだった。だからなるべく短くしておきたかったのだ。
俯く僕の髪を、ヒマリさんは指先でさらりと梳いた。
「今の感じ、とても好きだけどなあ。だって、すっごくかわいいもの」
「女子みたい、ですか」
思わずそう訊ねてしまった。ヒマリさんは、うーんと首を捻る。
「確かに、メイクをしちゃうとそう言えなくもないけれど、女子みたい、というのはちょっと違うんじゃないかな」
髪を指先で弄びながら、彼女は微笑んだ。
「かわいらしいけれど、あなたはあなたよ。わたし、今のあなた自身が素敵だと思ってるの」
そう言って、ヒマリさんはすっと体を僕から離した。
「さ、お洋服を選びましょう。なるべくお互いが選んでいるところを見ちゃだめよ。じゃ、スタートね!」
それから、僕らは無言でコーディネートを考えた。ヒマリさんは衣装部屋のあちらこちらに蝶のように飛び回り、とっかえひっかえしている。
僕はというと、実はヒマリさんより悩んでいた。どれをどうすれば良いのか、まったくわからなかったのだ。いや、思いつかないわけじゃない。もう何度もロリィタファッションを目にして、実際に着用しているから、色合いや素材の組み合わせなどある程度は考えついていた。でも、どれもこれも、特別な今日の装いとして納得いくものではなかったのだ。
「わたし、もう決めちゃった。あなたはゆっくり選んでね。わたし、先に寝室に行っているから」
ヒマリさんが部屋を出て行く。ひとりになり、しんと静まり返った衣装部屋の真ん中で、僕はぽつんと立っていた。
考えるんだ。今までここで着替えるとき、保管してある服たちを興味津々で観察してきたじゃないか。――目を閉じ、頭の中で思い描く。アリスは白銀の髪で、今日は青のカラコンまで入れてもらった。そんな容姿に映えるよう、いつもは黒や青を基調とした服装をしている。たぶん、黒と青を選べば問題なく似合うはずなのだ。
目を開け、僕はドレッサーの左手のコーナーに近づいた。ブラウスがたくさん並んでいる。深い青……ロイヤルブルーといったっけ。それを腕に掛ける。続いて、サスペンダーのついた、真っ黒な……これはなんというんだろう。ディズニーの王子様が履くような、ちょっと膨らんだ形の半ズボンを手に取った。
これしかない。これが一番いい。
最後に、つやつやした踵の低い靴と白いハイソックスを履いた。ハイソックスには小さなベルトが片足ずつ付いていて、太股に取り付けるようになっていたので、履くのにおそろしく時間がかかってしまった。待たせただろうか……少し焦りながら、ヒマリさんの部屋へ急ぐ。
「ヒマリさん、ごめんなさい、遅くなりまし――」
言い終える前に扉が勢いよく開き、ヒマリさんが現れた。いつもの金の巻毛は高く結い上げられ、白い羽飾りが留められている。淡い桃色のドレスは胸元が少し開き気味で、僕はこの間図書室で読んだ『ロココのモード商ベルタン』という資料集を思い出した。
昔、フランスではこういう形のドレスが流行っていて、「淑女の◯◯風」とか「◯◯のため息風」と言った変わった名前がつけられていたそうだ。ヒマリさんのも、このロココ調を意識したデザインなのだろう。目元にピンクゴールドのラメがきらきらと瞬いて、手には白いレースの手袋も嵌められている。この間のお茶会よりさらに気合が入っていて、あまりの眩しさに息を呑んでしまう。
ヒマリさんもまた僕を見下ろして、大きな眼をまん丸に見開き、まじまじとこちらを凝視していた。
「あの……」あまりに見つめられるので、どうしていいかわからず足下に目線を落とす。
「この恰好……変、でしたか」
ヒマリさんは答えない。僕は沈黙に耐えられなくなって、おそるおそる彼女の顔色を窺った。
あれ?
ヒマリさんのアメジストみたいな瞳の端にうるうるとした光が揺れている。
「ああ、盲点……そう、盲点だった……」
「な、なにがですか」
「アリス、あなた、王子スタイルがとてつもなく似合うのね!」
いつもみたいに抱きついてもこない。一歩引き、完成した彫像を眺める彫刻家のように、僕を上から下まで何度も何度も観察した。
「ああ、どうして気づかなかったの、わたしったら! 王子スタイル……最高よ! アリス、本当に素敵ね!」
言いながら彼女は僕を中に招き入れ、ぱたんと扉を閉めた。こちらを振り返り、「王子スタイル、というの」と熱っぽい眼差しで僕を見る。
「ブラウス、カボチャパンツ、ベスト、ガーター、ミニハット……なんて完璧な王子さま! わたし、あまりそういうファッションはしないんだけど、鑑賞目的で買っていたのよ。大正解だった! これはあなたのためにあるものよ、アリス!」
いつもと趣向を変えて、と言ったヒマリさんの意向を汲み、普段と違う方向性を求めた結果の組み合わせだったけれど、どうやら間違っていなかったようだ。それどころか、かなり気に入ってもらえたみたいだった。
「よかった……喜んでもらえて何よりです」
「喜ぶどころか、もう、幸せよ。あなたを見ているだけで幸せなの」
ヒマリさんの頬がほんのり赤らんでいた。大好きな音楽を語るときみたいに興奮している。それだけで、僕も嬉しかった。
「これ、王子スタイルっていうんですね。今度からこういうのも着てみます」
「そう、王子さまよ。せっかくだから、今日はエスコートしてもらおうかしら?」
エスコート。その言葉は僕の心の隅々にまで瞬時に響き渡った。今まで誰にもしたことはないし考えたこともなかった。一体どうやればいいのだろう? わからない不安よりも、やりたいといううずうずした気持ちが上回る。
「どうすればいいんですか」
気づけば、僕は縋るような目で彼女を見ていた。
「僕はどうすれば、ヒマリさんをエスコートできますか」
「え?」ヒマリさんは慌てて両手を振った。「いやだ、冗談のつもりだったのよ。気にしなくていいの。アリスはわたしの妹なんだから、いつものとおり、わたしが……」
「今日は、王子なんですよね。それなら僕がやります。教えてください」
ヒマリさんは狼狽え、目を宙に泳がせた。
「えっと……」
どうしたんだろう。彼女は困ったように眉を寄せ、頬をますます赤らめている。
「本当に、やってみるの……?」
「はい」
彼女は目を伏せ、照れたようにぎこちない微笑を浮かべた。
「エスコートはね、まあ、言葉の意味は置いておいて、こういう場合は、わたしをお姫さま扱いするということなんだけど……」
「荷物を持つとか、レディ・ファーストとかですか」
「外では、そうね。でも、今日は中でパーティだから、例えばわたしが席に座るときに椅子を引くとか、お茶やお菓子を勧めたりとか、楽しいお話を振るとか……」
言ってから、ヒマリさんはぶんぶん首を振った。
「ごめんなさい、言っておいてなんだけど、やっぱり……」
「とにかく、ヒマリさんを今日一日、お姫さまだと思って振る舞えばいいんですね」
僕は気づいていた。ヒマリさんがお姫さまなのはいつもと変わらない。不変の事実なのだ。僕はただ、ヒマリさんを大切に、丁重に、接すればいいだけなんだ。
「こちらにどうぞ、ヒマリさん」
さっそく、僕は白いテーブルの椅子を引いた。
「お茶はここにあるので……ケーキを取ってきますね」
「ええ、そうだけど……あ、待って、キッチンは」
「下ですよね。大丈夫です」
僕は努めて優雅に微笑んで見せた。ぽかんとしているヒマリさんを残して、部屋を出る。
キッチンは一階にあった。お屋敷というだけあって、広々した空間だ。でも、至ってシンプルで物が全然ない。
冷蔵庫を開けてみて、僕は驚愕した。細い銀の枠の中に皿が三段タワーのように連なっている不思議なオブジェがあり、マカロンやスコーン、クッキーといったお菓子がたっぷりと載せられていた。さらに豪華なケーキが四つもある。それらの中に、僕の買ってきた青十字の箱が肩身狭く入れられていた。
こんなに用意してくれていたなんて。ヒマリさんの心遣いに胸がきゅっとなった。同時に、申し訳なさで苦しくなる。僕はまだ中学生で、お小遣いをもらうしかできない立場だ。今はこんな小さなケーキを二つ買うので精いっぱいだけど、いつか、大人になってちゃんと稼ぐことができるようになったら、その時はいっぱい恩返しをしよう。このお菓子たちに負けないくらい、たくさんプレゼントするんだ。
シンクの横に銀の盆があった。それに皿のタワーやケーキを載せて、両手で慎重に運ぶ。
ヒマリさんの待つ寝室へ向かう間、僕の心は高揚していた。ヒマリさんは僕を王子といった。今までアリスとして妹みたいに扱われていたけれど、今日は彼女をエスコートできるのだ。それはとてつもなく甘い幸福だった。
その時、僕は気づいてしまった。衝撃が弾丸みたいに僕の脳天を撃ちぬいていく。
僕は――「賢嗣」は、ヒマリさんをエスコートしたい。彼女の、王子さまでいたいんだ。たぶん、姉妹でいるよりも、ずっと。
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