零捌、信楽教務の生き甲斐1/3
「なぜ貴方は——どこまで貴方はそんなに平静で居られるんですか」
湯気の立たない緑茶の色は半透明に湯呑の底深さを僕に誤認させる。
この種村早苗の問いよりも、きっと深いのだろうと。
「貴方は今回の件で実の父に……国家に見捨てられようとしているんですよ?」
「トカゲの尻尾切り……いえ、もっと酷い……生け贄か何かにされようと……」
嫌悪の裏にか或いは表か、言葉の中には混濁した善意や同情が斑に滲む。缶コーヒで例えるならばコーヒーの中に分離してしまったミルクの脂肪が浮き出たような模様。
不気味や、はたまた気持ち悪いという感情を精一杯、彼女なりに綺麗に表現した結果なのだろう。
「些か誤解があるようだ。僕は成人してから父の庇護下に居た事など有りませんよ」
「それに見捨てるも何も、元々が他人です。僕は母が他の男と不倫した結果に生まれた不貞の子ですから、ここまで育ててもらった事の方が道理に合わないんですよ」
「……」
啜る緑茶のおかわり、鼻から薫りが抜ける頃合いに僕は彼女に前提を覆す言葉を返し、静やかに絶句する相手へ語りを始める。
くだらない与太話だ。
「国家云々に関しても、勝手に義務と権利を押し付けられているだけで、僕を見捨ててはいけない、利用していけないという契約書を交わした記憶はありません」
「誰しも国家という枠組みを大慈大悲の神仏が如く美化し過ぎなんです、無政府主義を推奨したい訳では無いですが」
テーブルに置いたティーカップの中の波紋がやけに鮮明に、印象的に僕の瞳に映る。
すべからく救われる事の無い因果な世界のみを抽出し、言語化する中で僕は僕をせせら笑った。
「仰りたい事は何となく分かりますよ。個の集合体である国家が、国家を守る為に個を蔑ろにすることに酷い矛盾を感じるという事を言いたいのでは?」
そして応接用のソファーから腰を離し、この施設、この階層の主のみが許された座席へと向かう。
いと滑稽な事だ、今なら贅沢仕様の哀れな電気椅子に見えない事も無い。
「……」
「確かに……あくまでも国家とは仕組みでしかなく個の集合体に過ぎません。けれど長期に渡る時を経て文化や伝統という付加価値が付いていき、仰々しい国家というある種の生き物が誕生する」
語る言葉は詭弁、極論、意図して誇張し、多角的視点から目を背けた主観による偏見。
「そうして、いつしか人々は……その腹の中でしか生きられない体や心に退化し、人間となっていった。はは、まるで神話の如く表現してみましたが如何でしょうか」
君は——これから語られる大言壮語の歪さと間違いに如何ほど気付けるだろうか。
「……分かりますかね。社会を作ったのは人であるが人間では無く、社会に生きる者は人間ではあるが人では無い。人間として社会に依存している以上、人権はあろうと人として扱われはしないのです。国家の為に犠牲にされるのは当然でしょう」
「ただ、今回その犠牲となるのが僕と数人だったという、それだけの話ですよ」
滅裂に、適当に並べ立てる言葉の息継ぎがてら、僕は床に落ちていた資料を拾った。
「……意味が解りません。けど、暴論なのは解ります」
正解、とは言えない。間違い探しの間違いがありそうな所を直感しているのだろう点に置いて彼女は正しい。正しい、のみではあるが。
崖の先に石でも積んでみる事にしようか、彼女が崖の先に足場があると勘違いしてしまうように。
「そうでしょうか。僕が言っているのは、田畑を耕す者と肥料ならば土に埋められるのは肥料だろうという当たり前の話をしただけなのですが」
「まぁ今回の場合、劇薬にすり替えられているのを知ってか知らずか、恐らく田畑を耕した数人も土に還る事になりそうですがね」
「人間は——肥料なんかじゃありません」
概ね、予想通りである。今の論点はそこでは無い事を自覚しつつ、きっと彼女はその点にしか食い下がれないのだろう。憔悴した思考に甘い餌を撒き、飛びつかせる。
冥利に尽きるとは、まさにこの事か——楽しいね。
「はは。納税をしているからですか? この国で生まれたから? ただ選挙に行けば社会を作り出しているとでも?」
手乗りマスコットの愛らしさに興奮を覚える婦女子などの気持ちを邪推しつつ、僕は更に彼女を煽る。ここで漸く一人の公務員として国民様には申し訳ない苦言を漏らし、僕は偽りの玉座に座ったのである。
「ふふふ、栄養素でしかないでしょう、どこまで行っても。僕を含めて自分では何もしてこなかったアナタ方の主張など」
ああ、本当にそう思っているか否かについて、それは各々で判断して頂きたい。
きっと君達も、僕の想定は超えてはこないだろうとも、ここでは述べておこう。
「結局、詰まる所……選ぶしかする気のない連中の指図を、考えて実行する連中が聞いてやる道理は無いという事です。お願いは好きにすればいいと思いますがね」
「……辞めましょう。論点がずれて来ています、今は選挙制度の話はしていません」
種村さんは旗色が悪いと思ったのか、それとも僕の聞くに堪えない独善的で身勝手極まりない主張をこれ以上聞きたくないと思ったのか、ガタガタに歪む話の筋を元に戻そうとした。まぁ彼女は旗色が悪いからと逃げようとはしない、むしろ知ろうとしてくる。
無論、正常に脳が働き、疲弊していなければの話だが。
故に恐らくは後者——よって僕は勿論、
「繋がる会話なんですがね……僕も、そこに甘んじているという点で」
話を続行する。殊更に長々として見ようか。
「もしも健全な誰かが出馬をし、或いは僕自身が誰かの後援をし、現勢力を覆すようなムーブメントを発生させていたのなら、こんなくだらない更生制度など誕生しえなかったかもしれない」
暴論だ。暴論だよ、確かに。
「全ての人間が理想に燃え、各々で考え、人任せにせず、各々で立ち上がり、手を取り合い、互いの話を聞き、各々で折衷案を捻り出し、諦めず、或いは妥協して、全ての人間を納得されられたのなら……こんな強硬策など取らずに済んだ」
——けど僕らがやっている事は、君たちが僕らに押し付けた全て。
それを僕らがやっているに過ぎない。さもすれば、君がやって居たかもしれない出来事には違いない。
それを——ただ賃金の対価だからと切り捨てられるのは、あまりにもブラック企業が過ぎるとは思わないだろうか。
「全てはもしもの話ですが、在り得た話ではある」
国民主権の重みを——軽んじて。
「結果は常に一つ。その結果に対し恨むべきは、この場に至ってしまった全ての要因……ですが、そこに自分という人間の人生や行動も含めれば、諦めも着くものです」
自戒と自虐を込めて——僕は彼女に言葉を送ろう。
「民主主義に属するという事は自己の責任を負い続けるという事なのですよ。結果に不満があろうと無能な政治家、或いは我儘な国民を変える事が出来なかった以上、この結末は甘んじて受け入れなければならない」
「故に冒頭の……種村さんの質問に端的にお答えするならば、どこまでも——僕は平静で居られますよ。死ぬ瞬間は痛みで泣き叫ぶかもしれませんがね」
諦めた僕の、せめても償い。払うべき代償。
「誰しもが皆、役割を演じている。脚本の無い舞台で、劇を成立させる為に誰かがやらなければならない事をやっているに過ぎない」
「巷では選挙に行こうと多くの人間が世に訴えかけますが、誰も立候補しようとは言わない。それはきっと、必死で捻り出した脚本を、何も考えてない浅はかな連中に全否定され、意にも介されない事を賢明な国民様は知っているからです」
「或いは、人の話など最初から聞く気など無く、世を変えるつもりも無く、文句を言って悲劇のヒロインを気取って愉悦に浸りたいだけなのかもしれませんね」
「いっそのこと荒療治に全国民の出馬を強制してみれば、それが如実に表れるかもしれませんよ。特に普段偉そうに講釈を垂れる輩ほど、自由やら人格権やらを主張して責任から逃げ回るに違いないでしょうし」
——だから僕は嗤うんだ。道化の如く、君と僕らを嗤うんだ。
ざまぁないなと、嗤うんだ。
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