零漆、信楽教務の未来3/3
——。
事務次官がお帰りになられた直後、応接室には張り手の快音が響いた。
——パチンッッ‼
「……この人殺し‼」
まだ謂れ無いはずの非難の激情が僕の頬の痛みを際立たせて。
「~~っつ……いやぁ、ついに暴力で訴えてきましたか。随分な言い様だ」
ジンジンと響く細胞の悲鳴が体の内から鼓膜を揺らす中で、僕は普段通りにヘラリと笑う。
「叩いた事は謝罪します。訴えてくれても良い……ですが‼」
種村早苗は怒り心頭である。しかし直ぐに謝罪の意を示したところを見ると、今の行動が只の八つ当たりで、行き場の無い怒りを何処に向ければいいのか分からない事は自覚しているのだろう。自らの手に残る痛みと共に。
「まぁ、叩かれて当然と言えば当然な依頼でしたからね。お気持ちはお察ししますよ」
「白々しい言葉ばかり……貴方の言葉なんて信じるに値しないです‼」
ソファーにドカリと座り、彼女は頭を悩ませた。どうしようもない決定事項の前に感情が点々と動き、制御が追い付かないようだ。心が病んだ僕の母の姿と重なる所がある。
「では……貴女の言葉を聞かせてください。僕にとって、いや政府行政にとって貴女は未だに、とてもイレギュラーな存在だ」
僕は微笑み、床に座り直す。地べたに座るのは嫌いじゃない。少なくとも、居心地の悪い椅子に座り続けるよりは。さて、話をしよう。今度こそ最後かもしれない。
「貴女の過去を知らない僕にとって貴女の思想的に今回の件に関して、貴女が補佐に任命されるとは、とても思えない。不適格、と言わざるを得ません」
種村さんの頭痛が解消される時間を与えることなく僕は聞いた。幾つか答えを予測はしているが、一体どれなのだろう。興味をそそられて。
「……反対派に送り込まれた刺客とは思いませんか。無理矢理ねじ込まれた刺客だと。貴方なら真っ先にそう疑うと思うのですが」
しかし答えは予想に反し、意外な反応。憔悴しきっている中で流石と言わざるを得ない。
実にユニークな反応だ。
「それは、有り得ないですね。人員の調整は恐らく徹底して洗い出されている。刺客になり得る人物は他の班に回されていると思われます」
僕はそれを受け、適度に否定する。理論的に、コツコツと、
「それに貴女は担当官の選抜段階から今回の任務に就いている。僕の経歴等を事前に知っていましたからね」
楽しみながら、カンラカンラと。
「という事は、政府行政が信頼に足る人物、或いは経歴を持っているという事でしょう」
すると種村さんは頭を抑える片腕の隙間から軽蔑の眼差しで僕を睨んできて。
そして深く溜息を吐く。
「——思い当たる事はあります。私は、未成年犯罪者に家族全員を殺されていますので」
改めて答え直す彼女は、とても不機嫌で、心から嫌な事を語る様子。無理も無い事だ。
「ああ、なるほど。それを知らずに無神経な事を沢山言った記憶がありますね。後でリストアップして謝罪文を送付しておきます」
僕が特に彼女に同情を示すことはない。良くある話、よく聞く話。
「心にも無い……驚かないんですね。これも想定通りですか」
「概ね」
「全部分かっているみたいに……」
今度の種村さんは呆れ果てていた。酷そうな頭痛の中で、もはや投げやりな境地のよう。
ここに来て彼女の人間的な一面がポロポロと出てくる。
——面白い。
「……なら私が告発しないという根拠がありますか。知っていたら教えてください」
そして種村さんは辟易とした様子で微笑んだ。どうやら僕への挑戦状のつもりらしい。
「そうですね。ここは外界と隔離された閉鎖空間なので拘束などはお手の物でしょう。例え解放されて告発できる時が来ても、既に全ては終わっていて証拠も隠滅した後でしょうからね」
僕は楽しみながら、冗談を言うように憶測を飄々と返す、正解かどうかは当然知らない。
ただ——僕だったら、
「その場合、貴女がここに赴任していたという事実も含めてです」
そう処理するという話。しかし、ふと天井を見上げた時、僕は寂しさを感じたのだ。
「——それから、告発された場合。少なくとも僕は、司法の場に立たされることでしょう」
「……どういう事ですか」
「それはそうでしょう、人を殺しますから。少なくとも責任者であり殺人の実行犯として僕や父は裁かれる事になります。公にね」
「……——⁉ そんな⁉」
流石の種村さんでも、その憂いに気付くのに些か考える時間を要した。
僕が自分の爪の具合を確かめる時間くらい。
そう——父は、信楽進歩は、政治の為に僕や己すらも犠牲にしかねない賭けに打って出たのである。いいや違う。
彼は、一家心中をしようとしているのだ。
「これが、貴女が告発できない理由になれば、と切に願いますよ」
「はは、脅迫めいて居ますかね。さながら、付き合ってくれなきゃ自殺するなんて嘯く変態ストーカーのような言い分でしょうか」
気付かないはずも無い。仮にも法務省事務次官であろうものが告発された際に、どのような批判や問題が起き、法的な処置が施されるかなど、周囲の愉快な仲間達からおだてられているだけの不勉強な無能政治家でもあるまいに。
「概ねの筋書きとしては、重要な法案を通す為、今にも明るみになりそうな……件のバカ息子を自殺に見せかけ資料を改竄して別人としてこの制度に送り込み、問題発覚の遅延および隠蔽を計ったのは、早坂大臣と事務次官である僕の父と大臣官房に務めている僕の兄。自殺の工作は警察官僚が数人といった所でしょう」
まさに——国家の為に一家心中の様相だ
それほど重要な法案なのだろうさ。知りもしないが。
カツカツと施設を去っていく父の背中を想像し、僕は笑った。
かつて父も——僕の心根に薄ら寒い狂気が根付いていると感じていた節がある。
「……なんで、なんで笑っていられるんですか……貴方は」
その感想について弁明する気は無いよ、僕は常に死と手を愛しく握り合ってきたから。
そう思われるのも無理は無い人生を送ってきたから。
けれど、やはりアナタは似て非でありながらに僕の父であろうよ、父さん。
「ご自分の人生より、そんなに国家が大切ですか……」
——なんて、一般的な思考回路を持つ人間ならば、そんな風に決めつけてしまうのだろう。
「僕や数人の命で、多くの国民が安心安全豊かに生きられるなら名誉な事でしょう」
「まぁ、そんな冗談は通じないでしょうから本音を言えば……どうでもいいから、ですか」
「別に、辟易とする世の中に未練なんてものがないだけですよ。純粋に、単純に少なくとも僕はそうです」
「狂ってる……貴方達は……こんなのおかしい」
どうやら種村さんもそうだった。俯いて顔尾を覆い隠す様が実に滑稽に見えて。
実浅はかな事だ。浅ましいと思える程に御大層な見せかけの信心をぶら下げておられる。
「今となっては……やはり貴女の赴任は反対するべきでした。優しい貴女に今回の任務は相応しくない」
けれど、嗚呼、そうだね。もし、違う場所で出会えていたら。
種村さんと出会ってから今までの短い時間を思い返す。
——せめて友達くらいにはなれただろうか。
学生の時、図書室で勉強をしている僕に彼女なら声を掛けてくれただろうか。
あの事件の後でも前でも、僕の味方に——信じて、声を上げてくれただろうか。
「優しくなんか……ありません」
けれど、やはり惜しむらく、『もし』でしかない話。
僕の世界に彼女は居なかった。
「私がこの制度に反対なのは私自身が、意味が無いのだと過去を諦めたからです」
彼女の世界に僕は居なかった。
「家族を殺されて、一人ぼっちになって、復讐心を押し殺して必死に生きてきた」
君の側には僕が居なくて、
「復讐なんて意味がない。更生させよう、私と同じ思いを他の誰かがしないようにと言い聞かせて。なのに——」
僕の側にも君は居なくて、
「今さら、こんな制度が出来て……まるで私の我慢が、これまで守ってきた倫理観が間違いで、馬鹿だったみたいじゃないですか。私は一体なんの為に……今ものうのうと生きているアイツを許そうと耐えてきたのか分からないじゃないですか……」
僕らは、それぞれの人生を生きてきた。
「だから、だから……私は——」
「自己の正当化の為に反対する道を選んだ……お優しい選択じゃないですか」
故に僕らは——ここに居る。
絶対に交われない敵として、ここに居る。
僕の命も、人生も、あんな、こんな、そんな結末にならなかったのかもしれない。
「美味しいお茶です。しかも猫舌の僕に合わせて水出しで淹れてくれて」
静かに立ち上がり、僕は彼女の淹れたお茶を飲んだ。
湯気の出る、父が残した茶を眺めながら心遣いが痛み入った。
「僕は貴女が好きですよ、種村さん。とても好感が持てる」
「……」
僕の心からの告白は、きっと冗談のように聞こえたに違いない。
だからこそ、言えたのだけれど。
「——ひとつ、朗報を。父は、いえ……信楽事務次官は、ここだけの話、この制度と現政権に私人として反対のようですよ」
「⁉ は……何を言って」
そこから背中を預けたフカフカのソファーは皮の感触が無ければ雲のようで。反発するように隣にいた種村さんの体が浮き上がる。まったく、哀れなものだ。
逡巡の末、僕は彼女に一つの可能性を告げることにした。
「この件が公に晒されれば、政権は当然の事、制度自体の存続にも疑問符が付く。こんなリスクの高すぎる馬鹿みたいな賭け、いくら社会を舐め切った官僚とはいえ成功するなんて思うはずが無いでしょう」
「要は現政権を含め、この制度をぶっ飛ばしたいから、阿呆な内閣、政治家を騙して脅して策を練ったという話です。駒も揃っていたようですからね」
「狂っている人間を冷静に戻すには、それ以上の狂気を相手に感じさせねばならない」
「群集心理、大多数の国民の感情論によって、未成熟のままに制定された更生とは名ばかりの処刑制度を潰すには、それを超える非道が必要なのですよ」
つらつらと、つらつらと。
茶を啜りつつ彼女の頭を重く垂れさせる荷物を解いていく。
「誰を中心とした思惑かは知りませんが、僕や他数名の犠牲で全てがひっくり返る。告発は種村さんが頑張らずとも恐らく、国会閉会後に大々的に行われるはずです」
「一学期くらいなら他の班の生徒も職員も、まだ死んでいないと思いますので」
一人の公務員として、僕は出来る限り国民様を安堵させる妥協案的な幻想を捻り出す。
「——……」
すると意外な事に彼女は殊更、顔を真っ青にして。目を見開いて僕を見る。それから顔を逸らして元通り、両手を組んで祈るように握り締める。本当に、我儘な事だ。
「喜んだら如何ですか? それとも、僕の予測に反論でも?」
空になった器の一滴、それをひっくり返す勢いで重力を使って絞り出して味わった後、僕は彼女を問い詰めた。皮肉めいた言い回しで、とても楽しげに。
すると、彼女は呟くのだ。
「喜べる訳……ないじゃないですか」
震えた声で、弱々しく。
「お茶のおかわり頂けますか? それと、喜べない理由を教えてください」
とても、愛しげではあった。
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