零陸、信楽教務の就寝3/3


「その問題は、僕が想定している三年後の最終試験レベルの問題です」


 基礎は大事である。基礎が大事なのだ。数字の存在すら知らず足し算引き算、割り算掛け算が理解出来なければ方程式を解く事が不可能なように、基礎をしっかり構築する事はあらゆる分野の物事を成功させる為の必須条件だ。


建物を建てる基礎工事の理屈が疎かになれば、幾ら素晴らしい工法で組まれた建物であろうと地面に杭を刺さねば倒壊させる事は容易になってしまう。


故に教育の基本方針は、順を追って反復させ、後の高等知識を理解させ構築させる土壌を作る事に終始徹底する事。



「まず自分達の罪が許される最低限のラインを教える事、アナタ方のような人達が好む言い方をするならば目標を設定する事でしょうか」


となれば確かに僕がたった今作り、種村早苗を激怒させた問題は基礎ではなく高等を越えた大学レベルの問題は教育という観点から見れば、あまりに無謀にお粗末で投げやりな方針と言わざるを得ないのだろう。


しかし僕が重要視したかったのは数学の基礎では無いのだ。ましてや教育の基礎でもない。


「こんなに高い壁なのかと自覚させるのと同時に、これを越えられれば殺されずに済むという希望を与える。そんなところです」


更生——或いは矯正の基礎である。罰の自覚と刑の明確化。


「何度も言っているような気もしますが、僕の主な業務内容は更生させる事。処刑人ではありませんから」


刑務官という仕事の本質は罰を与える事でも反省を強いる事でもない。健全に生きる道を指し示し、反省を促す事だ。意外だと思われてしまったり、綺麗事に聞こえるかもしれないが、僕らは——少なくとも僕はそのつもりで働いていた。


ただ——、


「本当に……信じても良いんですか。その言葉を」

「いいえ、信じないで下さい。更生できない、或いは他の生徒の邪魔になると判断すれば僕に躊躇いは無いですから。覚悟は出来ていますので」


今の僕は執行担当官。処刑の権限を与えられた汚れ役。不安げに切実に僕を見つめる種村さんの期待に全て応える事など出来やしない。


更に惜しい事に元々、完全完璧な人間でもないのである。


——実現の出来ない事は出来ない。僕は既に諦めているのだから。


「例えば数回、種村さんが握り潰したテストのような複数の問題の繰り返し行い、答え合わせと解説をしても百点を採れないような生徒達は更生の見込み無しと、判断しようと思っています」


「どのみち、その程度の暗記する努力も出来ないような生徒は最終試験を合格できずに死刑が確定するでしょうし、経済的にも困窮し日常に不満が溜まり、再犯の可能性もある」


「これなら、種村さんのような人でも納得できるのでは?」


一国家の行政機関の公務員らしく、無理だろうとは思いつつ種村さんに折衷案を提示する。


そして——、



「……そんなもの納得出来るわけがありません。私は死刑自体反対なんです」


でしょうね、と僕は思った。


我儘な人だ——流石、人権意識(笑)の高い現代人と言った所か。


「では、拷問刑がお好みですか? 僕と同じとは意外ですね」

「からかわないで」


思わず漏れてしまう嫌悪感。それを無神経に一蹴され、少し——心が波立つ。


「堂々巡りですね。くだらない時間だ」


久方ぶりに感情を吐き捨てた気がする。また、少し高い天井の電灯が明滅。

これは、僕の感情だろうか。彼女と出会い、異能の力に目覚めたとでも?


いや——そんな訳がある訳もない。


くだらない妄想に脳が逃避する最中、


「死刑制度は犯罪の抑止に役に立たない。残るのは執行人である貴方の罪悪感と遺族の虚無感だけです」


種村さんは己の心情を徐に語った。いよいよ論戦をする構えらしい。

最後の会話くらい、もっと楽しい話題が良かったよと、神様にでも恨み事を吐いておこう。


「ふふ、どこぞで拾ったビラ紙を片手に教え込まれたような言い分ですね」


まったく、鼻で笑ってしまうよ。児戯じゃないか。


「……僕は何度も言っています、だから加害者をのうのうと税金で養い、三食飯を食べさせ、適度な労働に勤しませ、人権の守られた素晴らしい個室に閉じ込めておけ、と?」


駄々をこね始めた子供にウンザリした親御さんの口調で瞼を閉じた僕は言葉を返す。


「そんな事は言っていません。いかなる理由があっても感情的で人為的な殺害は辞めるべきと言っているんです。それは、加害者が犯した罪と同じ罪だと」


本当に、どこぞの誰かに擦り込まれただけのような教科書通りの感情論。この人らは何時だって自分を棚上げにして、僕らを感情論者だと罵ってくる。


言葉にはする気は無いが、死刑にすれば再犯率は確実に零になるというのに。その真理に近い理屈を暴論だというのだ。まぁ言葉にしない理由は自殺志願者の馬鹿が周りを巻き込んで死刑制度を悪用する恐れがあるからだが。


「……罪も法も、人が、国家が定めるものです。そして秩序とは個人を救うためのものでは無く、感情や我儘で行われてしまう社会や個人の蛮行を諫める為の物だ」


そろそろ決着も近いだろうか。ちらり、腕時計の針に目を配る。


「さて種村さん。では我々の国家は何を以って、どう犯罪者を裁けばいいのでしょうか」

「命を奪わなければ拷問刑でも構いませんか? それともそもそも刑事裁判や刑罰は必要なく、民事の賠償だけで済ませればいいとでも?」


本当に名残惜しい事だが、終わらせてしまおう。


「そうなれば、ただでさえロクでもない金持ちやその子供はやりたい放題ですね。金さえ払えば何をやっても罰を受けない。金を奪われることが罰なのだから」


「それはそれは、資本主義の弊害でもある格差の拡大が尚更に捗る事でしょうね」

「……」


彼女は僕の過去を知っている。権力と暴力と資本力で己を見誤り、蛮人の如く道の真ん中を歩き、胸を張って生きてきたクズと、権力と暴力と資本力に意図も容易く屈したヘドロが僕に何をしたのかを知っている。


司法は人を守らない、秩序は正義を守らない、そもそも正義など何処にもなく、世の中は腐臭で満たされていると確信するキッカケとなった事件を彼女は知っている。


「加害者の虚無感を理由に挙げられましたが、それはそうでしょう。許そうが許さなかろうが、被害者の命は戻らない。許して充足感を得る人間など、せいぜい敬虔な宗教家くらいのものでしょう。わざわざ片側に際立させて語るべきではないです」


僕は嘲笑うように、つらつらとそれを語った。今度、神社や寺院やモスクや教会を巡ってお布施を配って回ることにしよう。逆上した彼女に殺されない未来があるならば。


「そして——なぜ僕がそれをやらなければならないかという問いに対して答えるならば、誰かがやらなければならないからですよ」


俯いた顔、正座する太ももに置かれた手を見れば、先ほど握り潰した問題用紙の紙切れが更に潰され握られて震えていた。


「これでも、一応は国家公務員だ。理不尽な批判も、無茶な要求も飲み込んで汚れ仕事だろうがやらなければならない。税金で飯を食わせて貰っているらしいですからね」


それでも僕は、言葉を続ける。


「それに、そこらの大衆に言わせれば、僕らに人権などはなく公僕という名の奴隷で、人間扱いされてないので人間が人間を殺すという言い分には当たらないという屁理屈になりませんか?」


そしてトドメの一撃の如く、畳を指でなぞり手番を僕の長話を聞きながら俯き固まってしまった種村さんに譲るように穏やかに流す。


摩擦熱が指に少し残って。


だが——、

「と……今日は、この辺にしておきましょう。時間も時間だ」


議論はここまで。腕時計の十二時が示す位置にある事を口実に、

僕は勝ち逃げをしようと企む。これは正直、どちらでも良かった。

お喋りが出来ない種村さんなど退屈極まりない。


——諦めてくれるなら吉、食い下がるなら尚良し、だ。


「……そうですね。失礼します」


結果は意外、な事に簡単に引き下がる彼女の弱々しい呟き。サラリと立ち上がる動きには平静さはあるものの、声の淡白すぎる印象から気落ちしているのは明白で。


僕は、やはりそうなるかと——目線を滑空させる。


——出来るなら見たくなかった光景だった。


幾度も目にしてきた、僕という人間の人間性を諦め、去っていく背中。


「……種村さん。貴方の人生はとても豊かで実りあるものだったんだと思います、貴方を立派に育ててくれた家族や友人、知性を育んだ教師の教えや努力は間違ってはいない」



僕は少し強がって笑んで、目を逸らし、顔を逸らし、学習机に体を向ける。

足が少し——、痺れているようだ。



「けれど、世の中には色々な人間が居る。貴方の優しさは称賛されるべきものだと思いますが、しかし優しさだけでは僕はおろか、ドブ泥のような大衆は耳も貸しませんよ、きっと」


靴を履き、立ち上がり、扉のドアノブに手を掛けた種村さんは僕に振り返っただろうか。少なくとも動きは止まっているのだろう。まだ、扉の開く音がしない。



「少々、失望しました。次を期待しておきます」

「おやすみなさい」



このまま振り返らずに、種村さんが衝動に駆られて僕を殺してくれればいいのに。


しかしここは、生徒を収容する囚人監視用の小部屋。凶器になるようなものなどあるはずも無い。僕もネクタイは自室に置いてきてしまったし、彼女もネクタイはしていない。


収縮性のあるストッキングでは僕を確実に絞殺できそうもない。


「……失礼します。おやすみなさい」


結果、彼女は一呼吸置いた後、僕の脳裏に細やかに過ぎった願望を叶えてくれる事も無く静かに去っていった。彼女の顔は、どんな表情だったろう。



——ああ、退屈だ。


「……」



空虚な達成感に満たされ、足の痺れた体を緩和すべく、僕は大の字に寝転がる。

瞳に映るのは、目を眩ませる白熱灯。僕は両目を片腕で覆う。



——彼女はまだ知らないのだ。これから起こり得る最悪の理不尽を。

まだ序章でしかないという事を。


嗚呼、きっと更に軽蔑されてしまうだろう。杞憂であれば良いが。


現在の表情すら見ること憚られたのにも関わらず、僕が想定する未来の一つに直面した時の彼女の表情を想い、胸が少し痛む。


後悔は先に立たず、最悪は——何時だって想像の一歩先に待ち構えているものだ。

本来は優しい彼女こそを、この任務から離れるように説得すべきだった。



クシャクシャにされた紙を広げ、僕は難しいと言われた問題をジッと眺めた。



——けれど、僕は間違ってはいない。



明滅する電灯が、ようやく僕を批判しているように見えた。

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