零陸、信楽教務の就寝1/3
「北崎さん。種村さんは、僕の昔話をしましたか」
僕は、徐に聞いてみた。青少年特殊犯罪更生学校の生徒が収容される寮に近い小さな小部屋の中で布団運びを手伝ってくれた北崎さんに対して、である。
「……何のことでしょうか?」
すると彼女はシラを切る。僕の布団を整えながら背を向けて、事前に書いてもらったアンケート用紙を眺めながらの僕に対して。
シラを切っていると思ったのは、なんの事は無い理由で回答までに掛かった時間と、緊張を張り詰めさせたような北崎さんの口調が感じ取れたからだ。根拠に乏しい勘という奴さ。
「本当ですか? 証拠もない僕の都市伝説を語ると思ってたのですが、あの人は」
「聞いていたのですか?」
まるで聞いていたかのような確信の感情を言葉に込めてカマを掛けると、あっさりと白状する。
本当に嘘を付けない人物なのかもしれない。美徳ではあるが、なるほど。
それとも——先程の食事中の会話の中で僕が心理学を専攻していたと耳を突いたのが、効果を発揮したのか。
「いえ。予測です、そういう話になるのではないかと思いまして」
「僕の人格について考察する中で、僕が貧しい生活を送って居なかったという話から始まったのでは?」
適当に語りながらアンケートの確認作業を続ける僕の背中越しに、人が驚きを抑えたような空気の震え。恐らく、後者寄りの前者に違いない。
「……凄いですね。不快に思われたのでしたら謝罪します。ただ、悪口は言っていなかったとは信じてはくれませんか?」
「はは、別に責めている訳じゃありませんよ。むしろ望む所ですよ、それらは」
さして大した事のない勘を褒められ、むず痒くなる背中。僕はサラリと躱し、少しバツの悪そうな空気感に息を吐く。本当に何も感じないのだ、他人の評価など。
いいや、これは僕を嫌いになる事に僕自身が共感できると表現した方が良いのだろう。
「……心理学というのは、どういう風に勉強をしていくのですか?」
何故それを望むのですか。そう彼女は聞き返さない、彼女と違って。
恐らく言葉を選ぶ為に一考した後に放たれた問いに、僕は心なしか肩を落とす。
やはり彼女は彼女ではない。
人の多様性を肌で感じながら、僕は別の人物のアンケート用紙に手を伸ばし、
目線で文字を追いながら答えを考える。心理学とは何か、か。
「統計研究を基にした一般論でしょうか。性格的なものから派生する人間の仕草などの傾向……眼球の動き方、言葉の表現など学ぶことは多岐に渡りますが、それでも思想というのは幅が広い。病原菌や細胞変異に対して対処法を確立出来る答えのある医学や科学と違って、分かり易く解決できる学問ではありません」
一口で語れる程にその中身は薄くも無いが、オカルトに近い部分も否めない。
自重すべきだろう。
僕の前で教壇に昇った幾数人の先生達は、正直思想犯に近しい洗脳家か、或いは催眠術師のような人であったし、彼らは結局、誰一人として僕の心を読み尊敬や信頼を勝ち取ることが卒業まで出来ずに居たのだから。
「まぁ地道に講義や本を読んで学びますが、色々な人の話や映像などを見て、議論を重ねていったりしながら経験値を磨いていくのが基本的な習得法でしょうか」
「オカシな例えと思われるでしょうが、武術などの技術習得に似ている。全く同じ鍛錬で技を習得しても本人の癖やセンス、性質で正確さや精度も変わってしまう曖昧なものです」
「なるほど……」
僕は心理学を学んだからこそ心理学に対して懐疑的な見方を示す、そういう人間の類だ。
確かにマーケティング戦略や群集心理を利用した商売や印象操作は勉強になるし、社会の中で役に立たない事は無いが、社会の中でしか役に立たない事でもある。
独善的で一人で何でも物事を解決したい僕とは、そもそも性分が合わないのである。
「ご安心を。僕も傾向が解るくらいで心なんて読めやしませんから」
空気すら読むのが覚束ない訳で。
「では——今お読みになっているアンケートでその傾向を?」
だから正直、最低限の単位というものを取れる程度にしか勉強していない分野であった。
ただ——、
「どうでしょう。別に何らかの意図があってアンケートの問題を作ったわけではありませんから。これは、アンケートを書いてもらう事そのものに意味があるので」
「書く事そのものに意味、ですか」
心理学を専攻していた。その事実、経歴は対人戦において実に良いハッタリとして機能する事が多い。傲り昂らず、ただ静かに心理学というものを匂わすだけで、相手が勝手に『こやつは只者ではない』と思って警戒してくれることが多いのだ。
「ははは、手品の種は披露しませんよ。僕は科学者より手品師に近い」
その反応が滑稽で、とても面白い。手品を暴いてやろうと凝視する観客くらい面白い。
「特に、看護の知識がある北崎さんには」
「ふふ、信頼して欲しいですけどね。同じ環境で働く同僚な訳ですし」
さてと、しかし僕は彼女とは険悪な関係になる気も無い。
冗談めいた物言いで茶を濁し雰囲気を和ませて。
「どうせ時間はこれから余るほどあるんです。人間関係の駆け引きというのも面白いものですよ。敵だとは思っていないので、そこは信頼してください」
そして結論を結ぶように言葉を紡ぎ、話の終わりへと誘導する。
「善処しておきますね。布団の用意が終わりました、本当にここで今晩を?」
用事も話題もなくなれば自然と別離へと流れは向く。他人とはそういうものだ。
「ええ。眉村警護主任には消灯はしないでくれと伝えておいてください。怖いので」
「了解しました。では——私はこれで」
興味心を沸かせぬよう浅く疑問に答えて、アンケート用紙を小さな学習机に置いて僕は小部屋の畳をなぞりながら北崎さんを見送る態勢を整える。
「はい。また明日……」
威厳を示す為の迷彩服の背中、なるほどこう見えるのか。小さな小部屋は寝る為と腰から下を隠すカーテン仕切りのトイレしかない。
これ見よがしに僕をひたむきに見つめる監視カメラが実にキュートである。
その時ふと——興が湧いた。
「ああ、北崎さん。一つ質問が」
「? 何ですか?」
部屋を覗ける防弾ガラス製の小窓の付いた扉を開こうとした北崎さんを素朴に呼び止め、僕は問う。
「この死刑制度について、貴方はどう思っていますか?」
これは今の内に聞いておいた方が良いだろう。この班内の人選に当たり、人事がどのような判断基準で選んだかが分かるかもしれない。深い思慮があるのか、それとも適当か。
まぁ、種村さんのような人物を補佐に置いている時点で望み薄ではあるが。
しかし僕の予想に反し、返ってきた答えは意外なものだった。
「……未成年犯罪ではありませんでしたが、私の姉は昔、犯罪者に襲われた事があります」
「この制度の設立というより、犯罪者を憎む気持ちがあるのは否定できません」
人は見掛けによらない。存外、明るく平静に振る舞っているように見える人ほど、葛藤を強く持っているものだと改めて思い知らされる。別段それで僕が同情を抱く事など無いが。
中々に興味深い情報が手に入ったものである——その程度の認識。
「——そう、ですか」
僕は今後の彼女の取り扱いを一考しつつ、目を逸らしながら返事をした。
すると、彼女は言葉を続けた。
きっと僕が危惧か何かを脳裏に過ぎらせたのだろうと勝手に察したに違いない。
「ただ、担当官の仰る通り、我々は裁く立場にないという事は自覚しておりますので私情を挟む気は無いと、お伝えしておきます」
「そうしてくれると有難い。汚れ仕事は僕に任せてください」
彼女は僕を安堵させようとした。だから僕も彼女を安堵させる。ギブアンドテイクという奴だ。彼女に代わって彼女の胸の内にある正義と呼ばれるらしい狂気を叶えるつもりはサラサラないが、そう言っておけば賢明な彼女は抑えておけるだろう。
「精神衛生も、集団生活では重要な事ですからね。後始末は手伝って頂きますが」
——北崎杏里。なるほど、中々どうして面白い。僕は試しに種村さんの耳に入ったら卒倒しそうな冗談を並べ立て小さな笑みを浮かべた。
「——失礼します」
そうすると、返ってきたのは小さな世辞笑い。北崎さんは去っていく。扉を開いて淡々と。
僕は考えを頭の中で整理しつつ、小さな学習机に体を向き直して畳の上に置いていた白い紙と鉛筆を手に取って小難しい数式を書き殴り始める。
「……面倒だな」
数学の公式を一つ紙に書いて、ふと点々と鉛筆で紙切れを突く。
——この時、僕は厄介な想像をした。経験上、勘と言っても良い。
過去にあった出来事、点と点が繋がる感覚。
その時だった。
「——……——……——」
小部屋の壁越しに話し声。一人は北崎さん、もう一人も女性の声。となるとこの施設に居る人間の内、女性となるともう種村さんしかいない訳だが——、
「防音じゃないのか。これは注意しておかないとな」
愛しい人を見掛けて様子を見に飛び出していなかったのは、それよりも先に不快不機嫌に陥るような事実があったからである。贅沢は言うべきではないが正直、しょうもない仕事が増えた気分で辟易とする。
そんな不満を思わず吐露している内、小部屋に響くノック音。
「はい、どうぞ」
囚人の部屋にノックとは、些か滑稽な光景だ。まぁ刑務所や少年院で気を遣う人物や場合も無いわけでは無いのだけれど。小窓から姿が見えない辺り、さもすれば恥ずかしがり屋の妖精さんの仕業かもしれない。当然、冗談である。
「失礼します。担当官、お話大丈夫でしょうか」
僕の返事を受け、部屋に入ってきたのはやはり種村さんだった。
「種村さんですか。大丈夫ですよ、北崎さんもお久しぶりですね」
敢えて知らなかった振りをしながら白々しく彼女の姓を呼び、僕は学習机に鉛筆を置いて迎え入れる態勢を整えると、何故だか北崎さんも種村さんの背後で部屋に戻って来ていて。
「あ、はは……お久しぶりです」
そう苦笑いを交わし合っていると、部屋の前で靴を脱ぎ黒ストッキングの種村さんが歩み寄る。しかし髪を見ると風呂上りであるかのように少し湿っていて。
わざわざ薄い化粧をし直し、服を着替えたのかと、内心、少し驚いた。
「それで、わざわざこんな所までどうしたんですか種村さん」
それを指摘するとセクハラになりかねない世の中だ。染みついた処世術で何となく気付かない振りをして僕と種村さんは正座で向かい合う。
そして入り口前で待機する北崎さんの監視の下、僕らは話を始めた。
——二対一か……あまり得意ではないな。
だが——、
「まずは職員用のお風呂場のボイラー? が壊れているので眉村警護主任に信楽さんの部屋のお風呂を使わせてあげて欲しいと伝えに来ました」
「壊れている? ろくでもない表現が聞こえたんですが、本当ですか」
実に有難い事に用件は至極、単純な用件で。言葉とは裏腹、正直、肩透かしを食らいそうであった。にしても、ボイラーまで壊れているとは、誰がやったか知らないが整備点検が流石に職務怠慢なのではないか——次に会う機会があったら稲田統括主任に聞いておこう。
ただ、今回は種村さんがボイラーと発音するときの声と首を傾げる仕草が可愛かったので許す事としよう。思わず引きずられて首を傾げてしまった。
僕だって、一応は雄である。
「……事実です。直ぐに修理できる程度の損傷のようですが、時間も時間で困ってらっしゃったので。私も貴方に別の用がありましたから、そのついでです」
「了解しました。好きに使ってくださいと、お伝えください」
それでも直ぐに冷徹な仕事の時の表情に切り替えた種村さんの表情を楽しみつつ、僕は平静を装ってニコリと笑う。そして——なるほど、
「では北崎さん、お願いします」
北崎さんまでが戻ってきたのはこの為か。彼女は別の用件がある種村さんの代わりの伝令役というわけだ。確かに効率の良い合理的な判断、僕は少し感心した。
「はい。承りました、失礼します」
見た目の堅さに反して、種村早苗は実に柔軟な思考回路を持っている。などと、この程度の事柄では些か褒め過ぎであろうか——話を進めよう。
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