伍、種村早苗の心労3/3


彼が咀嚼をしていた記憶が、そういえば無い。


「ああ。いえ、お粗末様でした。あ、片付けは私が」


しかし、食事への感謝に対し、感謝を返して食器を片付けようとした信楽教務を制止した北崎さんや眉村警護主任の皿にまで目を配り、私は確信する。


——この人達、食事を採る速度が異常に早い、と。


「お願いします。僕は少し部屋で作業をした後、今晩は収容施設で眠りますから。もし何か用事があればその辺を探してください」


もちろん私が遅いだけと思わない訳でも無いが、よくよく考えてみれば自衛官や刑務官、日ごろ過酷でイレギュラーな業務をこなしている彼らが、とろとろ食事をしているイメージは湧かない。


結果、私が遅いのではないのだ。うん、恐らく、そうに違いない。


「収容施設に? しかし、あの場所はまだ準備が整っていませんが」


「布団を持ち込むのでお気になさらずに。今のうちに生徒がどんな環境で生活し、どのように考えるかを想定しておきたいので」


「了解しました。我々に協力できそうなことがあれば何時でもお呼びください」


風景に存在感を溶け込ましつつ、気を遣われないように心なしか食事を急ぐ私。

信楽教務とは目を合わせる事は無かったが、何となく鼻で笑われたような気配がした。



——。


 それから信楽教務が食堂を後にしてから暫くして、私の食事が終盤に差し掛かった頃、沈黙の中で私は溜息を吐いた。


「……心労お察しします。一見すると真面目な方なのでしょうが、どうにも推し量れない部分がありますね」


実際の所、他の人より食事に時間が掛かっている事を憂いたものだったのだが、

信楽教務と近く接している私が疲れていると勘違いした眉村警護主任と北崎さんの困り顔の笑みが浮かぶ。


急いで食べる必要は無いと言ってくれているような、お茶を差し出してくれた心遣いが嬉しくて。


「どうなんでしょう。真面目というより、楽しんでいるようにも私には見えます」


お茶を淹れてくれた北崎さんに会釈をし、いったん箸を置いてお茶を音が出ないように啜りながら二人の話、北崎さんの言い分を聞く。


悪い人だとは思っていないのだろう。が、彼らもまたやはり信楽教務という人間に対して不気味さを感じている。ああ、お茶が美味しい。


「……恐らくどちらも正解だと思います。真面目が歪んで悦楽に浸るというか、生徒の処刑を単なる業務の一環としか考えていないのでしょう」


私だってそうだ。彼の本質を善悪で語るのは間違っていると思っている。そう——彼は、



「更生出来れば更生させるし、更生できないと思えば直ぐに諦める」


虚無なのだ。空っぽのがらんどう。感動の無い感情、目の前の作業に興味や意味を考えなくなった無機質な優しい人。生きている絶望。



「あの人が付いた嘘は、貧乏苦学生ということくらいです」


「貧しくは無かったと?」


お茶を置き、僅かに揺れる水面の安全を確認した私の考察に、眉村警護主任は興味深そうに椅子の背もたれに背を預け、首を傾げる。



——……話していいものだろうか。


「ええ。昔あの人が巻き込まれた事件において親の権力と財力を傘に信楽担当官に罪をなすり付けて罪を勝ち取った相手への復讐の為、全財力と知力と時間を注ぎ込んだ結果、彼は慎ましやかな生活を送る事になったらしいです」


彼の過去を許可なく私情で話すことに一瞬迷いはしたが、私は身辺調査の資料の中にある一説について私見を交えながら話し始める。


結果として信楽教務という人間が狂い切った最後の事件について、私は私の胸の内だけで収めることが出来なかった。


——いいや、嫌悪を抱く私自身の悪感情を少しでも正当化したかったのだろう。


「……大学在学中に稼いだ大金で復讐相手の親の企業企画を悉く潰し、根回しをして離職へと追い込み、復讐相手の就職先への圧力、弟さんの進学にまで手を回したらしいです」


「「……」」


あり得ない話、そんな表情を彼らは浮かべる。確かに、まるで夢物語だ。大学在学中の立った数年で企業の動きを左右するほど大金を稼ぐ復讐者。


まるで中学生が偏見と想像だけで考えた小説のような主人公、信楽教務。


「そしてその事に勘づいた復讐相手を正当防衛の名の下に返り討ちにした挙句、かなりの賠償金を請求した。因みに、今お話した話に彼が関与したという一切の法的証拠はありません」


信じられないと思うのは当然だ、私だって違法に入手したのであろう彼の証券取引履歴や銀行口座の数字の推移を目の当たりにするまで信じ難い陰謀論でしかなかったのである。


「しかし身辺調査の結果、限りなく黒であるとのことです」


「——絶句しますね……まさか、その復讐相手が収容された刑務所に勤めていたなんてオチは無いと信じたいのですが」


彼らも堅物な私の口から出なければ冗談だと笑った事だろう。重々しい感想文を放ちながら開いた口を塞ぐ眉村警護主任。彼は、身の毛をよだつ予想を付け加えた。


けれど——答えは想像の遥か先を行く。


「……死亡しています。言い争いの末に親御さんを殺害の後、自殺だそうです」


結果として陥った自業自得なのかもしれない。


或いは、それすらも想定済みだったのではないか。


真相は闇の中——しかし人心を容易く読み、性格を易々と見抜き、正義を嗤う男の姿が脳裏に過ぎり、感情の指が自然と傾く。


無能力という絶望の果てに未来予知にすら近い思考力を彼が手にしているのではないかと私は危惧してしまっていて。


——ただ、単純に怖いのだ。夜の闇に身を浸した時のように。


「その後の担当官は刑務官として新人研修を問題なく終えて真面目に刑務所に勤め、在学中に稼いだ財産は養護施設に寄付などをして全て使い切ったそうですよ。納税した分の余りで高級車なども買っては見たようですが」


けれど、未知の恐怖を取り除くために必要な探究心が湧き立つ事も無く、


「そうなると、お金には本当に興味が無いのですね」


「本人曰く、やると決めたことは死んでもやるというのが信条のようなので、真面目に仕事をするという点では安心しても良いとは思いますが……」


「もし彼が思っている仕事内容が報復代行のような事であったと判断した時は——」




『僕を殺しますか?』



私は背後に信楽教務の気配を感じ、ハッとする。自分は今……何を言おうとしていたのか、言葉を詰まらせたその時に——そこには居ない、あの男の声が聞こえた気がしたのだ。


「——……今の話は忘れてください。少し、疲れているようです」

「ご馳走様でした」



ようやく食べ終わった食事の味を、今はもう思い出せない。



——深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。


ニーチェ、私は疲れている。貴方のように。



いいえ……貴方も最早、怪物の側なのだろうか。私には、それすらも闇の中。

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