伍、種村早苗の心労2/3
「北崎さんはどちらの所属で?」
「元は海上自衛隊の衛生員です。船内での長期生活も多いので海自の場合、船が揺れた際に皿が割れないよう鉄製のプレート皿やプラスチック製のお椀などが採用されて居る場合が多いですね」
それでも食卓の上での会話は続き、私はハッと平静を装わなければと思う。
この憂いを悟られてはいけない。少なくとも食事を作ってくれた北崎さんに失礼だ。
「へぇ……そうなんですか。やはりそれぞれの部署ごとに環境や考え方も変わってくるんですね。勉強になります」
「海自の食事と言えば真っ先にカレーを思い浮かべてそうですね、種村さん」
「貴方はそうやって、邪推してばかりですね」
笑顔を装え、ただ純粋に食事中の会話を楽しんでいるのだと。
「北崎さんの食事で脳に栄養がキチンと向かっているもので」
こんな男にそうそう弱みや動揺を見せてなるものか。矜持と気概を昂らせ、私は副菜の一つであるキンピラゴボウに箸を伸ばす。
——その時だった。目の前の北崎さんの席から彼女の優しい声。
「あ、それは種村さんが作ったきんぴらですよ、担当官」
「……え?」
自分の名前が急に飛び出した為に思わず振り向くと、呆けた声を漏らした彼もまた私の作ったキンピラゴボウを食べていたようだった。
不意に目が合い、空虚な時間が流れる。
私はハッと我に返り、眼鏡を片手でクイっと持ち上げて掛け直す。
「お気に召したようでなによりです」
頬は赤くなっていないだろうか。気持ち悪い。
何か勘違いされたらどうしよう。気持ち悪い。
北崎さんの料理と比べられたらどうしよう。気持ち悪い。
様々な思考が錯綜し、ただ——時が過ぎるのを待つ私。
——想像が行き付くのは信楽教務の悪辣な笑み。
しかし——、
「料理もお好きなんですか?」
沈黙の先で解き放たれた言葉は、拍子抜けするほどに素朴かつ平坦な質問で。
「……母の影響です。最低限の自炊が出来る程度ですよ、担当官も自炊なさるのでしょう?」
私は戸惑った。心根で戸惑いつつも、平然と受け答えしようと試みる。
そうだ——味噌汁を飲もう。
「男の料理なんて雑なものですから比較には。肉か何かを適当に焼いて何かの液体を掛けるくらいのものです」
「何かの液体って……もう少し言い方が」
私の質問返しに対し、謙虚に自虐で返す受け答えに呆れた眉村警護主任が話に乗ってきたのは幸いだった。信楽教務がキンピラに対する感想を述べる機会は失われた。
全く、どうなっていた事か。蕁麻疹ほどの鳥肌が立つのではなかろうか。
そんな私の杞憂を他所に話は進み、
「眉村さんは料理とかは?」
話題は、これまでの私生活での話へ。
「あー、自分は基本的に駐屯地に住んで居ますので自炊する事は殆んどありませんね。外食するのも休日くらいで、駐屯地の食堂で済ませてしまいます」
「それでも野営の時は頼りになるイメージですけどね。キャンプとか」
「自衛隊員流のキャンプに一般女性は誘わない方が良いですよ。眉村さん」
「いや、普通のキャンプをするよ。そういう時は、流石に」
北崎さんと眉村警護主任は仲が良い。不意に見せた親しみのある口調がそれを物語っていて。見ていて本当に微笑ましい。
それに比べて——、
「担当官殿は、女性と行かれたりするんですか? キャンプとか」
「行きたいなと思う事もありますが、実際は全然ですね。お相手してくれるような奇特な方も居ませんし友人も居ないもので」
「お誘いしないからでは? 貴方は少し、近寄りがたい雰囲気を出していますから」
私と信楽教務は、どうしてこうなのだろうか。出会ってから今まで特に特質すべき事件があった訳でも無い、思想の違い? 互いの性分のせい?
「ハリネズミのジレンマですよ。あまり他人を傷付けたくは無いので」
「臆病なんですね。傷つけたくないのは本当に他人ですか?」
「ご存じの通り」
「「……」」
無意識に噛みついてしまった私のせいで空気は少し重く、私は自己嫌悪に陥る。
「はぁ……すみません。今のは、私が攻撃的でした」
溜息を吐いた。信楽教務の事を悪く言えないなと思ったのである。心の何処かで彼を完全に敵と認識し、全否定しようという己の心の浅ましさを自覚して。
「では、お詫びに今度、暇が出来た時には二人で食事でも」
「……考えておきます」
しかしどうにも抑えられない。この男の口から出る薄っぺらな友愛は、ざらざらの舌で肌を舐められるような悪寒を感じてしまう代物だ。
「ね? 誘ってもこうなりますから」
「「……ははは」」
私は、それ以上は無視して食事を捗らせようとする。申し訳ないが、
「お嫌いなものはあるんですか。確かオニギリがお好きと仰っていましたが」
これを最後に後は眉村警護主任と北崎さんに任せておこう。
私達の険悪に、この二人を巻き込まない為にも。
「嫌いなものは特に……食べた事はありませんね。珍妙なゲテモノとかを食べたくないと思った事があるくらいです。昆虫を使った料理、まぁイナゴや蜂の子ですね」
食事中にしないで欲しい答えに耳を傾けつつ、私は白御飯を一口、口の中に放り込む。どの産地の米だろう、かなり粒が大きい米だ。炊き方も良いのだろう。
「ああ、なるほど。好きなオニギリの具とかは?」
「何も入れてない方が好きですね……海苔が巻かれて薄い塩味が効いていれば、と」
私は高菜が好きである。具なしとは、中身のないこの人にピッタリなのかもしれない。腹黒さでは昆布も似合いそうだ。
「はは、なんだか凄く日本人ですね。他に好きなものはあるんですか?」
「豚汁ですかね。味噌汁はシンプルな方が好きですが、葱と豆腐やワカメくらいの」
オニギリと豚汁、何というか凄い、原風景感のある組み合わせだ。そういえば、施設に移動する前の会議室でそんな話をしていた。
昔見たという——田舎の水車の話。
あの時の儚げな微笑みは、偽りでは無さそうで印象に残っている。その田舎で豚汁とオニギリを彼は食べたのだろうか。
身辺調査の際に見た小学校のアルバムに映る彼の写真を思い出す。その時には、彼の眼はもう死んでいるようだったのだけれど、私は幼い彼が寂しく豚汁を啜る姿を想像した。
「なんか意外です……もっと、こう……高級店とか通っているような雰囲気だと思っていたんですけど」
「いえいえ、僕はついこの間まで貧乏苦学生でしたよ」
「え、でも信楽——あ、すみません‼」
妄想に浸り呆然とした私の耳の鼓膜を北崎さんの悲鳴にも似た声が揺らし、ハッと我に返る。
彼女は、いや、彼女が口にすることを遠慮していたのだろう事実を口にしようとしてしまった事は直ぐに分かった。
それは彼の、信楽教務の家族——父親の事である。
「……問題ありませんよ。特に不仲という訳ではありません、僕個人の性分として親からの援助は断っていたので短期バイトや投資等で学費や生活費は賄っていました」
漂う重々しい空気感、彼の家庭の構成、父親の肩書や立場を多少知っていればそこに踏み入ってはいけない事は暗黙の了解で。大して気にしていないと当人が語ろうと、他人が言葉を詰まらせる事は無理からぬ事だ。
「笑顔」
私は咄嗟に、補佐をした。彼に対してか、北崎さんに対してかは自分でも分からない。ただ、その一言を言えばこの重苦しい空気が解決すると思ったのだ。
そして——、
「あ、そうでした——安心してください」
彼も思い出したかのように慮る。感情を剥き出しにする類の人間ならば、どれほど楽な事だろう。きっと、わざと好まない話題を変える為に素っ気なく振る舞っていたりしたのだろう。
——相手が勝手に同情をしてくれるように誘導する為に。
「しかしやはり凄いですよね。ご自分の力だけで大学まで出るというのは」
そして眉村警護主任も父親の話題は避けた方が良いと察したのか、反省する北村さんに目を配りながら話を別の話題へとすり替える。
「自分は正直、親や教師に勧められるまま防衛大学校に進学したので。勿論、この職を選んだのは自分の意志ですが」
まず自分の過去の引き出しからエピソードを取り出し、話題を固定させる。上手なやり方だと感心する私。密室での長期生活に置いて、なぜ彼らが選抜されたのかは一目瞭然だった。
このコミュニケーション能力の高さ、恐らくこれに関しては私と信楽教務は同じ評価や意見に至るだろう。私や信楽教務の部下として扱われるのが忍びない程の人物だと。
「技術専攻でもない限り、普通大学なんて名ばかりのものですよ。多くは高い入学金を払って高校生活を延長しているようなモノです。その点、防衛大学校は社会に必要な経験が多かったのでは?」
むしろこの点に関して言えば、信楽教務は私よりマシであろうが。思惑がどうであれ、彼は積極的に他者とコミュニケーションを取ることを憚らない。
私のように基本的に相手と距離を置いて、仕事だと線を引いて、相手の事情に深く踏み入ろうとは思わない。
ハリネズミのジレンマ、今にして思えばアレは私に対して言ったものなのかもとも思うのだ。
職員からすれば、私の方が話しかけ辛い、不気味な存在なのではないかとも。
「……学歴否定ですか。確か、担当官は心理学を専攻なさっていたとか」
悔しかった。勿論、未だ表情を反省の色で曇らせる北崎さんの気持ちを紛らわす為の一助にでもなればと思ったりもしたが、一番の理由は悔しさと劣等感で。それは口調や言葉の選択に滲み出てしまっている。
「ええ。薄ら寒くて一番面白そうだったので。実際、面白かったですよ。時間が経つたびにさも人間を理解できているぞという顔色の生徒も増えていきましたし。観察対象として実に興味深かった」
けれど、けれど——この男は笑顔でとんでもない毒気を放ち、私の浅はかさや醜さを引きずり出そうとしてくるのだ。私の隠している全てを見透かしているような薄ら笑い。
戦おうともせず観察し、見えない死角から毒物を放り投げる攻撃をしてくるようなやり方。
「ああ。これは僕自身にも当てはまる中傷ですね」
「……答えかねます。私も似たような学問を学んでいましたが、そういう事はこれまで想いもしなかった、とだけ」
悔しかった。竹やりを地面に叩きつけたいと思う衝動に駆られる程に。
「刑務官になったのも人間観察の為、ですか」
「……いえ、違いますね。信じられないかもしれませんが、違います」
「では、どうしてか聞いても?」
そんな悔しさを紛らわす為の冷静に努めた質問。その返答は意外なものだった。
ここまでは。
「ドブの中で暮らすのと、ゴミの中で暮らすのだったら、種村さんはどちらを選びますか?」
「……それを選んだ結果が、刑務官という職だったという訳ですか」
どちらがドブで、どちらがゴミか。聞かずとも何となく理解した、というよりも理解したくなど無かったのに、だろうか。
どちらにせよ、それを聞けば怒りの込み上がる表現なのは一目瞭然で。
「ええ、まぁ。良くも悪くも閉鎖的な空間ですからね、あの場所もこの場所も外の空気が入って来ない」
彼は穴蔵を好む蛇のように無邪気に笑った。きっと彼にとって、私達は巣穴に入り込んでしまった蛙か何かなのだろう。
けれど、
「さてと、ご馳走様でした。本当に美味しかったです」
今は満腹なようだ。突然に手を合わせた彼の行動に、思わず私は彼の食事跡を見る。
——いつの間に。と、そう思った。
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