伍、種村早苗の心労1/3
——全く以って、人を馬鹿にしている。
「……いったい、今度は何をしているのですか」
この男——、信楽教務の事が不快で堪らない。調理室での問答の後しばらくして、自室に戻るや、まず耳に不穏な音が響いた。
何事かと速足で戻るとコレである。
「あー、いや部屋の模様替えをしようかと」
「一人で運んだんですか、コレ」
予め生活に不便がないように家具等が用意された職員用の私室の前で、ベッドを扉から引きずり出す彼には頭痛のする想いだ。
いや、それ自体に関しては、それなりに部屋の内装にこだわりのある人も居るだろうから理解も出来るが、問題は時間だ。
もう今日は、施設に到着するまでの移動で八時をとうに過ぎている。夜に模様替えをするなど近所迷惑も甚だしく常識が無いと言わざるを得ない。
「おかげ様で汗だくですよ。そちらの用事は終わったので?」
飄々とした佇まいでベッドを引きずり出し終えた彼の満足げな顔にイラリとした。少し目を離したら何をするか解らない。先程の体のあちこちに武器や機密資料を隠し持っていたこともそうだ。なんて嫌らしく面倒な人なのだろう。
「……模様替えなら、なぜ家具を外へ?」
「布団派だからですかね。床に寝ている感覚があった方が心地いいので」
「本棚は?」
「小指をぶつけたくないからですね」
通路に置かれた家具に足を取られぬよう、避けて彼に近づく私の問いに淡々と答える。
緩んだシャツの腕まくりをもう一度整え直して背伸びをしながらの欠伸。一挙手一投足が腹立たしい。
それに何より——、
「机は……中にありますね」
「仕事とプライベートにメリハリがつくので机は必要かと」
「その机の引き出しと大量の本や資料が私の部屋の前に雑に積まれているのは?」
隣接する私の部屋の前まで浸食する彼の部屋の荷物が、心の底から腹立たしい。
これでは、私の部屋に入れないでは無いか。私は心の内で彼の頬を叩く心の準備をする。
「……嫌がらせ、じゃないとは思いますが」
彼は心底、不思議そうな顔。まるで、何をそんなに怒っているかを問い返すような。
絶対に、わざとに違いない。
悪意の込められた、母親に相手をして欲しい子供の悪戯。
「夕食の用意が出来ました。今日ここに泊まるのは北崎さんと眉村さん、私と貴方の四名です。他の方は別便で食料等を運び明日には施設に入ります」
グッと堪えよう——相手の思う壺だ。
これは、彼が私という人間を測る為の悪意なのだと言い聞かせ、
「そうですか、了解しました。すぐに行きます」
私がなんとか落ち着いて対処をすると、彼は一息ついて嘘臭く笑う。
ああ——やっぱり絶対に嫌がらせに違いない。彼の表情には少し落胆の色があった。
「せめて資料は今すぐ部屋の中に。機密資料の取り扱いには気を付けた方が宜しいかと」
私は私の部屋の前の扉に置かれた本の山を見下ろし、彼へと告げた。
色々な本がそこにはあった。教育論の本や、娯楽小説の類、思想心理学の本。そして学生指導用の教科書。
「資料はともかく、本なんかは僕の趣味にそぐわないモノばかりなんですよね」
「前回の担当官たちの名残だと思われますが。私の部屋にもDVDやCDが置いてありましたし」
過去の遺物。前回の青少年特殊犯罪更生学校の終了時のまま時が止まっていたような雰囲気を初めて目にした時、私は何とも言えない虚無感を抱いたものだ。
それはまるで、絵に描いたような夜逃げのようで。
「手伝います」
私は一言そう告げると、前回最も苦悩していたであろう担当執行官の読んでいた書物を徐に拾い上げる。それは、分厚い表題の無い本であった。
「ああ、どうも。その本なんかはおススメですよ、登場人物の葛藤が実に面白そうだ」
愉快そうに本の中身を見るように勧めた彼に促されるまま、
意味深な言い回しに首を傾げつつ本を開くと——、
「これは日記……ですか? ——ひっ⁉」
私はお化け屋敷で驚かされた少女のような声を上げてしまう。
思わず手放して放り投げてしまった本の中には白紙が真っ黒に見える程に黒字で書き込まれた殺意と、書いている途中に掻き毟り、抜け落ちたのであろう黒い髪。
狂気の果て、崩壊の色。
「部屋に隠されていた本です。参考までに差し上げますよ」
「……い、いえ……今は遠慮してきます」
現任者である信楽教務は実に平淡に、それについて語り、私の手には不快なものに触った後の悪寒が残る。狂っている、前任者も、やはりこの男も。
「まぁこれから暫くは隣人ですし、気が向きましたら何時でもお貸ししますよ」
「……皆さんが待っていますので急ぎましょう」
この地獄から、一刻も早く逃げ出したいと、私はそう——初めて自覚した。
——。
ろくでもない気分を引きずりながら本の山をミニマリスト信楽教務の部屋へと押し込み、私達は食堂に集う。四人には広すぎる部屋。
「他人が作る家庭料理というのは、久しぶりの感覚ですね。美味しそうだ」
そんな環境を気にも留めず、飄々とそう楽観する信楽教務に学ぶべき所があるとしたら、この無神経さを真っ先に挙げるべきだろう。
「時間もありませんでしたので、簡単な物しか出来ませんでしたが」
正直、食欲は無いが食事を急場で作って頂いた北崎さんの為にも食べ切らなくては。
「十分でしょう。これを見れば、これからも期待できる」
「恐縮です。他のお二人にもご協力いただいたので」
謙遜をなさっては居るが、食事の内容は簡単というにはかなりの語弊がある気がする。鯖の水煮缶を使った煮物に卵焼き、味噌汁と白御飯に漬物などの副菜を幾つか。
一人暮らしだった私の晩御飯とは比べるまでもない豪華さだ。
「では、頂きます」
食事の号令を掛けたのは、信楽教務だった。まぁ彼自身何も考えてはいないだろうが、肩書上では一番の上司である彼が先に手を合わせるのが、諍いなく全員で食事を始めるのに相応しいと言えば相応しい。
「「「頂きます」」」
遅れて私を含めた他の三人も儀礼的に合掌し、食事を始める。私はまず、味噌汁から飲む派の人間だ。プラスチック製の味噌汁茶碗を手に取りながら、ふと横へ目を配ると信楽教務はメインの煮物に手を伸ばしている。
ああ——猫舌か。何となくそう思った。
「ん。美味しい」
「うん。これは、かなりの。美味しいよ」
「お上手です。今度、色々教えてください」
それぞれがそれぞれの料理を食し、皆一様に好評価を口にする。
「なんだか照れ臭いですね、ははは」
人に食べさせる事に慣れてない所為か、北崎さんはとても恥ずかしそうに顔を赤らめて。
薄くも無く、濃くも無く、丁度いい優しさの合わせ味噌と出汁の味が葱の香りで引き締まっていて、郷愁を想わせる。
私と違って良いお母さんになる事だろう。と言葉にすれば、きっとあの男は女性が家庭に入るという偏見は男尊女卑の女性蔑視だと大して思いもしないのに嫌味を口にするだろうから、今はそれ以上黙っておくことにした。
「個人的には、やはりお皿等は不満なのですが。仕方ない部分なのかな、と」
すると、信楽教務に対して私が抱いていた嫌悪感を二口目の味噌汁で洗い流した時、北崎さんから始まった会話が耳に入る。
皿の話——そういえば確かに、主菜と副菜が並ぶプレートも御飯の茶碗も全て同じ色のプラスチック製品。色合いも模様も無く、つまらないと言えばつまらない。
義務教育時の学生だった頃の給食を思い出す。
「こういうのも、やはり囚人に対する警戒なのでしょうか担当官」
「ええ。陶器やガラスの破片等は小さくして隠しやすいですし、武器や自傷行為に使用される恐れがあるというのも理由なんだと思いますが、他にもいろいろ利点はあるかと」
「利点ですか?」
「軽量のプラスチック製のワンプレートだと洗い物が楽になるでしょう? 刑務所というのは、残念な事に集団生活になる場合が多いですので少しでも職員の負担を減らすという意味合いの方も強いのではないでしょうか。壊れにくいですから経費の負担も増えにくい」
——彼らは、とても穏やかに話していた。
「それは自衛隊駐屯地の食事でも、割と多いのではないですか?」
「……確かに。いや、なにぶん自分はこういう事をあまり気にした事が無いもので」
「いえ、自衛隊の食事では普通の皿で提供されることが多いですよ、眉村班長」
「ははは、食事を作っている方が聞いたら卒倒しますよ……給養班でしたっけ?」
私が知る由もない知識や経験から紡がれていく考察。人生の厚み。
それらを折り重ねて、折り重ねて。
「耳が痛い……あ、でも自分は陸自所属なので給養班というのは」
「ああ、そうでしたね。そういう本を見た記憶があります」
そこに参加したくないと言えば嘘になる。けれど経験に乏しい分野での問答に対する無力感に私は他の手段を探す。まぁ考えるまでも無い事なのだが。
「あの……給養班というのは?」
聞けばいいのだ。空気を損なわないか不安にもなるが、そこは相手に敬意を払い、信用する他ない。少なくとも、北崎さんや眉村さんは大丈夫だろう。
「ああ、航空自衛隊や海上自衛隊の食事を専任して担当して頂いている自衛隊員ですよ。栄養や衛生に気を遣いながら美味しい食事を提供して頂いています」
私の疑問に丁寧に答えてくれたのは北崎さんだった。
私は彼女の眼を見つめ、「へー」という口を作る。実際、勉強になったのだ。私はてっきり外部の業者に委託をしているものだと思っていたから。
まぁ——その認識も直ぐに肯定されることになる。
「因みに陸上自衛隊では外部委託が多くなってきていますから正確には自衛隊員では無いですね。昔は駐屯地内で隊員が持ち回るのが基本だったらしいんですが」
次に応えてくれた眉村警護主任によって私の偏見は肯定されたのだ。本当に際立って二人は真人間であろう。
敵意ある物言いだが、ご容赦願いたい。
何故ならば、
「経費削減や負担軽減だと言いますけど、アレもよくよく考えれば政治的ですよね」
対照相手がこの男、信楽教務というのなら些かの共感が得られるのではなかろうか。
「外部委託した結果、食事を作る訓練が増えて本末転倒じゃないですか?」
鯖の水煮と白御飯を交互に箸で摘まみ、徹底して同じルーティンでしか食さない男は、相変わらず世の中に対して呆れ果てているように語り始める。
疑問符は疑問ではなく同調圧力。
「……自分からは何とも」
全く、こんな男の話し相手にされるなど眉村警護主任が不憫でならない。
「どういう事なんですか?」
故に私は、そういう思惑もあって彼に尋ねた。立場上答え辛い、政府批判に繋がるような発言になりかねない同調圧力から眉村警護主任を守る為にも、という事だ。
断じて、私が信楽教務の知識や思想に興味を示したからではない。断じて。
興味心だけならば私は本来、食事を優先しておきたいのである。
けれど——、
「いえ、自衛隊は有事の際や災害時に炊き出しをする場合も多くあります。いつでも駐屯地に歩いて戻って食堂で御飯を食べられる状況にある訳でも無いので、野営で食事を作る訓練をする訳です」
「……確かに。普段から慣れておけば分担や作業スピードが早くなりそうですね」
私の質問に対し彼の語った言葉は意外にも論理的なもので納得できそうなものであった。
思わず頷いてしまう程には。珍しい。
「それに緊急時に率先して働かなきゃならない上、かなりの自由が縛られているにも関わらず職務の一環でもある体作りの基本の食事代金は給料から徴収される訳ですよ」
「本に影響を受けた私見ではありますが、食事代くらいタダで良いとは思いませんか?」
「お、お詳しいですね……そういう本とか学生の頃から読んでいたんですか?」
歪んだ倫理観さえ、しっかりしていれば彼はかなり頭の良い部類の人間である。本職を驚かせるほどの博識、実力に関して言えば尊敬する事も吝かでは無いのだ。
「ええ、まぁ。昔、職を探す時に自衛官も候補に入れていたもので、色々下調べをしないと気が済まないタチなものですから」
努力を惜しまず、他人をよく見て、尊重も出来る。
ほんの少しの悪意と傲慢ささえなければ。
いいや、心の奥に眠る絶望感と虚無感が生み出す狂気さえなければ常識ある優しい一般人なのだ。
ただ彼の言う通り、ほんの少し……何かが違ったら。
私の動かしていた箸が止まる。
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