零肆、信楽教務の企み3/3
暇潰しがてらの会話を和やかに終え、眉村警護主任は調理室と刻まれた板切れが貼られる観音扉の片側を開く。しかし、僕は扉の中より先に気になる事が出来て。
「……手前が食堂で、あと奥にあるのは倉庫だけですか?」
開かれた扉で遮られたその通路の先に顔を覗かせると、壁がある。頭の中に記憶する図面を引っ張り出し、巡る思考。図面に掛かれていた数字だけでは実感できない広さをこれまでの歩幅や時間、肌感覚で体感していく。
「はい。今は最低限の日用品や保存食等があるだけですが」
「そうですか——調理室。もう水とガスは通っていますか?」
そして眉村警護主任の返答を一考しつつ、更なる質問。いよいよ調理室に入り、僕は辺りを見回して。調理室の規模は数十人分の料理を作るには十分な広さと設備であった。
「そう聞いていますが……今、確認します」
ガスコンロが幾つもあり、ホテルの厨房ほどでは無いだろうが、料理番組で使われていそうなキッチンスタジオくらいの広さはありそうで、急いで水道とガスインフラの確認に向かった眉村警護主任を他所に僕は探索を始める。
「……換気口はネジ式では無い、外れない仕切り」
「皿はプラスチック製……棚には基本的に鍵付き……」
一つ一つだ。僕の今後の物語展開に、脱獄に挑む描写などさせる気は無い。自分なら、他人なら如何ように考えるか徹底的にしらみ潰していく。
別に改修工事までさせる気は無いよ、ただ可能性を念頭に置いておくだけで。
「水道、ガス共に問題ありません」
そうしている内、厨房に水が勢いよく流れる音と共に眉村警護主任が答えを告げた。
調理場には、意外と問題は無い。そもそも職員居住区内である長い通路を通り、ここに囚人が入った時点でかなりの致命的な状況になる訳だし。
「外にあった防火シャッターが作動するような状況になると、他はどうなりますか?」
確認を終え、水を流しっぱなしで僕の元に戻ってきた眉村警護主任に僕は三度の確認を取る。ここに来るまで通路には監視カメラが一定の間隔で数台設置されているのと同時に防火シャッターが備え付けられていた。スプリンクラーも同じくだ。
火災は地下密室で恐れるべき最大の事故。因みに災害は地震であることは言うまでも無い。
「火災感知器で火災を感知した場合、各フロアを繋ぐ中央エレベーターまでの道が全て封鎖され、スプリンクラー等で完全沈下されるまで開く事はありません。因みに防火壁の厚さは数センチ前後で、当然ですが耐火性に特化しつつ横からの衝撃にも強い素材です。流石に戦車の砲撃には勝てないでしょうが」
眉村警護主任もどうやら僕の事が解ってきたようである。水道の水を出しっぱなしにしている事を除けば、であるが。
しかし、今度防火シャッターを下ろして確認させてもらおう。
「包丁やフォーク等が入っている棚の鍵は北崎さんが?」
そしてまだ確認すべきことは山積みだ。
「いえ、監視部屋の入り口脇に。問題がありますか?」
「確認です、割と満足していますよ。食堂から調理場の様子が覗ける点が特に良い」
眉村圭吾は本当に驚くほどに状況を把握している。隣接する人気の無い寂しげな食堂の暗がりを眺めながら、僕は少し機嫌良く納得していて。
仕事が出来る人と仕事をするのは実に気分が良い事だ。水道の水を出しっぱなしにしている事を除けば。
「それは良かった。取り敢えずお水を。水道もコップも暫く使ってなかった可能性もありますし、冷蔵庫に入っていた未開封の物をどうぞ。消費期限も確認済みです」
けれど、そんな台詞で彼の意図を知るや認識も改まる。なるほど、と理解すると共に沸き立つのは一体いつの間にソレを用意していたのかという疑問。
こやつ、出来おる。
「ああ、ありがとうございます。まさにモテる男といった気遣いですね」
そんな小生意気な事を想いつつ動揺を悟られまいと穏やかに受け答える僕は、差し出された透明なペットボトルを平静に掴み出来得る限り滑らかに蓋を捩じり開いて。誤魔化しの称賛。
すると、
「いえ、自分はそんな事は——」
謙遜を始める眉村警護主任。
「他にお相手がいないなら、一年の任期があるんです。種村さんなどに挑戦しては?」
僕はそれを遮ってペットボトルの飲み口を口元に近づけながらにからかったのだが、
「え、あっ——いや自分は‼」
瞬間——何故だか眉村警護主任の顔色が青くなった気がした。
不思議には思いつつ、口に残るビニールの違和感を水で洗い流したい僕の欲求を優先させる。
しかし——水を口に含ませた直後の事。
「私が独身の前提で話さないで頂けませんか?」
水を口から吹き出しそうになる間合いで背後から唐突に、そこにいないはずの人物の声。僕は瞬時に事の重大さを悟り、背筋に僅かな緊張を走らせる。
ああ——なるほど。
「……いえいえ、略奪愛の相談かもしれませんよ」
本能的に逃げるようにハムスターのような頬から水を吐き出すべく洗い場へと赴き、水を吐き捨てて改めて彼女に向き合う。種村早苗——全く以って、想定外だ……案内された自室でもう暫くゆっくりして頂けるものと思っていたのだが。
「不潔です」
軽蔑の流し目を僕に向けながら、苦笑いする北崎さんを引き連れて調理場の冷蔵庫へ向かう様は、高潔な気品に満ちている。さて、どうしたものかとこの時ばかりは思ったものだ。
「で、実際どうなんですか? 場合によっては、これからの気遣いの仕方を変えなければならないのですが」
先の浮足立った話題を誤魔化すべく取り敢えず始めた会話、理由あって出しっぱなしの水道の蛇口を閉める種村さんを眼で追いながら脳を右側に傾け揺らす。すると、
「……独身だと、どういう態度で?」
冷蔵庫の中をさも当然の権利であるが如く開けながら、彼女は僕を冷淡に見据えた。
「視線が少し、生温かくなります」
「既婚だとしたら?」
だから僕は、道化に徹する。いいやピエロと表記した方が伝わり易かろうか。
「同情の眼差しを。旦那さんに」
妖しく、いつものように出来るだけフレンドリーにお茶を濁すのだ。相手にするのが馬鹿らしくなるように人を遠ざける。とても楽な生き方だ。
「警護班長……担当官をお部屋にご案内して差し上げてください。どうやら疲れているようなので」
そんな僕に彼女は嫌悪感を示したのか、それとも先の話題の不快感を根に持っているのか。まさか、僕が種村さんに好意を寄せる事が無いと知ったのを怒ったはずも無い。
「はっ、了解しました! 種村補佐官‼」
それにしても全く景気の良い話だ。屈強な自衛官をひと睨みで従えらせられる素晴らしい女性が独身を貫いているなど、それほど世の男性に見合う価値が無いのか、それとも彼女よりも魅力的な女性の供給が滞りなく満たされているのか、どちらかなのだろう。
或いは、同性愛者なのかもしれない。彼氏は居ずとも彼女が居るのか。
……攻めだろうか。いいや、いやいや、やはりそういった反応では無かった。
どちらにせよ頑張れ、と思ったものである。
ああ、なぜ彼女が独身だと分かったのかと問われれば、答えなかったからと述べておく。少なくとも、結婚指輪をしない主義でないのなら彼女の左手の薬指に銀の煌きは無かったからとも伝えておこう。
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