零肆、信楽教務の企み1/3
「……ようやく移動ですか。施設への到着は夜か、はたまた明日の朝か」
——カラリと鳴った。転がる箸も可笑しい年頃。まぁ良い大人がそんな年頃な訳も無いが、事前に用意されていた昼の弁当を平らげ、僕は常温の水を飲む。
春の近づいた日差しは、空気を乾かし静電気を起こして着慣れないスーツの襟元の接着部位の肌を痒くさせる。いとをかし。
「他の担当官が暇潰しにでも来るかと思っていましたが、結局来なかったですね」
些末な独り言を無視されないよう、会話口調で彼女へと投げかける恒例になって欲しいやり取り。
いとをかし。マイブーム。
「アレだけの資料をアッサリ読み終えられるのは貴方だけですよ。会議の方も慣れてないはずの環境で戸惑うことなく適当に済ませてしまいましたし。素直に驚嘆します」
そんな慣れ親しんだ心の中での言葉遊びの最中、辟易としたような声の種村さんが言葉を返す。
以前も思った事だが、彼女は食事を採るのが遅い。否、これが一般的な速度なのだろうか、割り箸袋に忍ばされていた爪楊枝を手に取りながら僕は考える。
そういえば業務や研修、もっと以前の学生の頃から、ゆっくりと食事する隙など無かったような気がする。
誰かが横にいる食事風景が何処か新鮮で、僕は微笑ましく笑みを溢す。
「適当とは心外ですね。各々の役割を明確化してキチンと決めたじゃないですか。仲良しクラブの設立に尽力すべきだったとでも?」
「……ご自分から向かわれるという選択肢は無かったのですか」
次に機会があれば、お茶をユルリと啜る彼女の速度に合わせてみようか——存外、難易度の高い予感が込み上げて。
「ええ。あの人たちに特に興味は無いです」
僕はサラリと種村さんの提案を斬り捨てた。興味の対象は、他ならぬ貴女なのだと優しく彼女を見つめながらに。我ながら気持ちの悪い思考だ。
自己嫌悪の渦中の痛みを抑えるべく、僕は用済みとなった会議室の端に山積みされた生徒たちの資料に視線を流す。
移動時間になると同時に、この大量の資料は完全に廃棄される運び。嗚呼、何という税金と資源の無駄遣いだろう。
外部に接続できないパソコンにでもデータを残しておけばよいものを、と僕にはこの資料を作るよう指示を出した馬鹿面とソイツの思考回路の方がむしろ気になっている。
まさか施設の方にもこんな無駄が無いようにと切実に祈りながら。
「印象としてはどうなんですか。本職の刑務官として、今回の任務で教職員と自衛官の登用というのは思う所があるのでは?」
すると、そんな僕の御祈祷を遮るように、種村さんは面倒気でありつつも僕に尋ねる。
「……とはいえ僕だって就任一年未満の刑務官ですよ。偉そうなことは言えません」
取り敢えず謙遜。謙遜してからの、
「口が裂けたら言いますが」
肩の力を抜いた不遜。僕は僕の性分を呆れ気味に笑う。
けれど——種村早苗という人物は、
「貴方の口は既に裂けていると思いますが。無神経なので痛みを感じてないだけでは?」
そんな滅裂で愛想を尽かされてもおかしくない僕に食らい付いてくる。こびりついた液状の笑顔がダイラタンシー現象を引き起こしたように固体に変化するような感覚。
全く以って、得難い人だ。幾度も思い知る。
「頭が回る。口が達者だ、昔見た田舎の水車を思い出しました」
「とても綺麗な思い出です。虫が多かったですが、人よりかは幾分か良い」
人類の原風景に想いを馳せ、僕は静かに思考を巡らした。過疎終末の儚さは、自然回帰の美しさ。如何ほどの疲弊感と閉塞感を持った人間ならば、共感して頂けるだろう。
「……そうですね。あの二人の担当官についての印象としては実験的だな、というのが一番の印象でしょうか。僕を含めての話ですけれど」
そして僕は、褒美の銭勘定をするように種村さんの質問について考える。
なぜ、この三人なのか——その意味を深々と仮構築しながら。
「教職に着いていた磯部さんは誰が見ても人権派だと分かる。一方の六角さんは自衛官という役職の所為か、嫌でも保守、いわゆる右寄りに見えてしまいがちですが、アレは中道派でしょうね。新人教育等の経験もそれなりにあると思います。人柄も気さくで真面目な方のようですし周りからの信頼も厚そうだ」
三者三様の経歴、人物像。第一回の失敗を踏まえ、第二回に試行錯誤する。
実に、発展を最大の武器とする人間らしく、愛すべき事か。進歩の過程に片足を突っ込める光栄に、全く身が震える想いだ。
肉体の進化を喜ぶよりも技術の進化を尊ぶべき、人ひとり程度の異能力に傲り執着するなど、滑稽極まると改めて思う。
「それに比べて、僕は汚物のようですよね。大した経験も無く、他者を信じず、深く関わらず、個人主義のレイシズムに溢れた無機質なガラクタ人形のように見えるでしょう」
「否定をして欲しいんですか?」
「出来れば」
自虐しながらも自尊する歪さに、堪らず僕は呆れの息を突く。
「最初の内は上手くいくと思いますよ。磯部さんは相手を深く知ろうとするでしょうし、六角さんは懸命に生徒を引っ張っていくことでしょう」
「含みのある言い方です」
そして始めた感想文の書き出しに、早速注文を付けてくる彼女。よほど僕の事を知りたいらしい、僕を屈服させる理屈を探す敵意を隠さない。
——もし隠しているつもりなら驚きだが。
「ははは、それぞれに問題は起こるものです。僕らを含め、生徒に求められているのは結果だ。過程は、さして重要ではありませんから」
「進級課題ですか……どの程度の難易度か、見当がついているのですか?」
僕の遠回しな物言いを深く読み取ろうとする事は大変ありがたい反面、期待が重くのしかかる。いや期待はされていないのだろうが、僕の性分が言葉選びに気を付けてしまうのだ。
受け手がどういう理解をするのか、など考えてもキリが無いとは思いつつ。
格好つけに勤しむ日々、格好いいかも分らぬままに。
「ええ。国民が納得するレベルですからね。今年度からは担当官の生活報告と共に学力や体育の成績、試験問題や授業内容も公表されますので、そこまでの無理難題では無いでしょうが、最終的には一流大学入試程度の問題が普通に出題されると考えて良い」
国民世論に圧される形で決まった妥協感のある制度について想いを馳せ、僕は僕の予想を曖昧に告げる。因みに僕は、人権屋の猛反対など無視して即刻、拷問刑にでもするべきだと思っていた人間であったから多少の不満はあるさ。
——それほどの罪を、この化け物共は繰り返してきたのだ。
そして、未成年という枠組みに盲目理不尽に守られ、平然と時を過ごし、のうのうと一般市民の面をして今を生きている社会人も居る。
本当ならば、彼らも再度罰せられるべきだとも思っている。
「磯部さんや六角さんに、その結果を残せる手腕があるかは首を傾げたい所です」
「その言い方だと、ご自分には自信がお有りのようですね」
「……難しいとは思っていますよ。もちろん、ね」
世論の声というのは、往々にして感情的だ。ネット社会を見れば分かるだろう。
その日の気分や情緒で情動的に動き、相手の立場や事情などお構いなしに、一面だけを見て、まず自分の留飲を下げようとする。
攻撃的というより破壊的な言葉を飛び交わせていく。
「勉学に関して言えば磯部さんはプロの教職です。経験も豊富でしょうから、教えるのはお上手だと思われるのですが」
こうやって、根拠に基づいて議論を深めようとする者は、そうは居ないのである。
「……あの人は、優しすぎる。数年後には実るかもしれませんが、一年という時間では恐らく到達が難しいのではないかと」
僕は彼女の考えを受け入れつつ出来るだけ優しく首を振り、否定した。
思想や経験は時に、結果の邪魔をする。
「どちらかと言えば、六角さんの方が可能性はあると思いますよ。先ほども言いましたが人柄が真面目で人望が厚そうですから、何とかしようと色々な人から教えを乞うと思います」
「逆に磯部さんは教職のプロであるからこそ、信念があるからこそ、そこに至れない」
——努力は人を裏切らない、けれど努力の使い道を人は間違える。経験はその時の経験でしかなく、他の道で十割の力を発揮するとは限らない。むしろその自信が、新たな経験値の取得の邪魔にすらなる場合があるのである。
未知なる道の名前を、歩く前に決めつけてはならないのだ。
「……貴方は、どうするつもりなのですか」
それを理解したつもりになっている僕に、種村さんはそう静かに尋ねた。
「僕もそうですよ。僕は、誰も頼らない」
答えを紡ぐ——道は手探りで行けばいい、不格好でも自信をもって堂々と行く必要もない。
どうせ僕は、決して優秀な人間では無いから、頼らず道の名前を探すだけでいい。後は優秀な人間が道を切り拓いていく。人任せに楽に行こう。
しかし、これから自虐的な微笑みで巻き返そうとした矢先の事——、ノックの音が響く。
「お時間です。移動を」
振り向くと、眉村警護主任と北崎さんの二人の姿。腕時計に目を配ると確かに予定されていた移動時間がすぐそこに迫っていて。珍しく失念していた。
「了解しました。直ぐに向かいます」
先んじて了承の意を示した種村さんが椅子から立ち、僕を見る。残念な事に彼女には名残惜しさなど欠片も無いようだ。
「続きは、施設に着いてからする事にしましょう」
「……はい」
僕は自嘲し、瞼を閉じると共に彼女から目を逸らす。
「一応念のため、GPS等が無いか、もう一度ボディチェックをさせて頂きますのでご了承ください」
「補佐官殿は北崎が」
まぁ贅沢を言えば、僕だって北崎さんにボディチェックをして貰いたかったが、そんな事は言えるはずも無い。
退屈で苦渋な時間が始まりそうだと、僕は呆れて息を吐いたのだった。
——。
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