参、種村早苗の進軍1/2


——あの男は狂っている。


私は、間違いなくそう思っている。心にある幾つかの芯が捻じれすぎて数本の針金が一本に纏まっているかのように見える真っすぐさで図太く歪んでいる。


あの男と言葉を交わすたびに食欲が落ちて胃の出入り口が締まるような、あのジェットコースターで急降下するときのような感覚に陥る。臓物が引きずり出されそうな感覚。


会議室外の休憩場で椅子に腰を落としていた私は紙コップを握り締めて、ドス黒い液体の水面を見つめていた。すると、


「あの、種村さん……ではなく補佐官」


突如として駆けられた男性の声にハッと我に返る私。

吸い込まれそうな黒の水面が揺らぎ、声のした方へ振り返るとそこにいたのは、


「眉村警護班長……どうかされましたか?」


私より一つ上の二十六という実年齢を鑑みれば些か童顔でありながら迷彩服のよく似合う体格の男性自衛官。私は、手が届く距離までこの人の存在に気付けなかった己を恥ながら立ち上がり、彼と向き合う。


「いえ、これから班の数名で分担し日用品等を買い出しに行くのですが、信楽担当官のリストの確認をお願いしたく。それから、種村補佐官もご要望があればと」


「ああ……はい」


特段、この人の事を怖いとは思わない。暴力を振るわれれば勝てる気はしないが、とても一般的で誠実な人物だという信頼があり、私も彼に敬意を払う事に些かの躊躇いもないからこそ、そう思える。私が真摯に対応すれば問題は起こらないという確信がある。


——あの男と違って。


受け取った紙に書かれている内容は、あの男の言葉を聞き私が纏めて書き出した物だが流石は自衛官と言った所なのだろうか、報告と確認に隙が無いようだ。


「休憩中に申し訳ありません」

「いえ、担当官に紅茶を注ぎに来ただけですから、少し腰を落としていただけです」

気遣いの出来る人。とても比にならない。


「なるほど……大変そうですね」


リストを確認する私から視線が外れた気がして、ふと目を配るとテーブルに置いていた紙コップのコーヒー。そうだった、私は紅茶を注ぎに来たのだった。あの男の為に。


「お若いからと、無理はなさらぬように」

「……あの人は、私より年下のはず、なんですけどね」

「「……」」


散々だ、心乱されて——調子が狂ってばかり。初めて会った時から、あの男の真意が掴めない。無欲かと思えば我欲を語らい、執着が無いと思えば固執する。天邪鬼、いや、そんな可愛らしいものでは無いだろう。天邪鬼が可愛いかどうかは知らないが。


「はい、確認しました。これで当面の問題は無いと思います」

「了解しました。あの……」


歯磨き粉の注文数だけ業者かと思う程の数字が刻まれたリストを眉村警護主任に返し、私は不意に眼鏡を外して疲れ目を労った。けれど、警護主任が未だ何やら言いたげな様子で立ち尽くしていた為、直ぐに眼鏡を掛け直して。すると、


「補佐官ご自身の要望は何かありませんか?」

「ああ……何か、そうですね——」


心からの【ああ……】が溢れ出る。完全に忘却、失念してしまっていたから。


「じゃあ、市販の胃薬を。効くか解りませんが」


私は少し考え、冗談交じりに小さく苦笑し自嘲する。わざとらしく、お腹を抑える振りまでして。


心配されたかったわけでもない、ただ——、


「……我々も、彼は異常だと思っています。一人の自衛官として任務に私情を挟むのは憚られますが、あの眼は人を『物』か何かだと思っている眼ではないかと」


少しでも共感されたかった。みっともないのは自分でも解っている、眉村警護主任の優しさに付け入り、私は彼を誘導してしまったと後で罪悪感に陥るのだろう。


「眉村さんはこの事案に思う所が?」

「……自分は何も言うべきではないと考えます。ただ、死刑は致し方ないと思う事があるのは確かです」


「そうですか。お気遣い、ありがとうございます」


それでも私は己を正当化したいと思ってしまう。一人でも多くの味方がいればと願ってしまう、願いを押しつけようとしてしまう。


それほどに、あの男は不吉を私に憑りつかせていくのだ。


少し、拳を握った。


「何かご相談があれば、愚痴くらいなら聞けると思うので」


そんな私を見かねてか、目の前の彼は爽やかに微笑み、私如きに一礼をして踵を返し去っていく。去り際、先ほどの彼の言葉が気になった。


「……物、ですか」

この時——直感的に『違う』と思ったのだ。いや正確に述べるのなら物では無いのだと、そう思った。それより遥かに、劣悪で醜悪な形容を彼は使うはずだ、と。


「……そろそろお茶を持って行かないと」


ついつい飲んでしまった私の為のコーヒーを私は、流し台へ捨てた。


とても気が重く、酷く食欲が湧かない。


——。


たった一つの紙コップを片手に、私は会議室の扉を開く。


この扉は、こんなにも重かっただろうかと不思議に思いながら。


「遅くなりました」

扉を開き、会議室にポツリと座っているだろうあの男、信楽教務に聞こえるように声を大きく呟くと、


「ナンパでもされていましたか? 職場恋愛って、憧れますよね」


案の定そこにあるのは、とても気持ちの悪い白々しさで。


椅子に横柄に座り淡々と受け持つ生徒の資料を眺めている信楽担当官は、こちらを見もせずにそう言った。


「僕の猫舌に気付いて気を遣ったのなら正直に驚きなんですが」


そして一呼吸おいて、生徒の資料を閉じると机に投げ捨て小さく笑む。

決して爽やかではない、粘着質な物体を歪ませたような嘘くさい笑み。


「猫舌、なんですか?」


何故こうも苛立つのか。平静を装いながら彼に近づき、私は考える。


と同時に何か、彼に一泡吹かさせてやりたいという想いが思考を巡らせて。私は咄嗟に、ある事を思いついた。


「ええ。好物は冬の冷めきったオニギリです」

「どうぞ」


新たな資料に手を伸ばす傍ら、紙コップを受け取ろうとした彼の前で私は異能力を使った。


「……これは?」


急激に液体は温まり、蒸気へと転ずる。少し驚いた表情。いや相変わらずの無機質な顔つきに貼り付いている眉根がピクリと動き、コンピュータが高速演算を始めたような空気感。


してやったり、と私は子供のように内心得意に思う。けれど——、


「私の能力です。手に掴める範囲で物を温めます。液体を少し沸騰前に近づける程度ですが」


「いえ……どういう意味なのかな、と」


呆ける信楽教務の顔を見て直ぐに後悔した。大人げなく感情に流されてしまった、と。


「私は職場恋愛反対派なので、つい感情的に」


咄嗟に有りもしない思想を捏造するや、私も自分の椅子に戻り資料の整理。

零れるのは小さな溜息。やってしまった。


「……お風呂で便利そうな能力ですね。長風呂すると湯の温度が気になりますし、追い焚きすると光熱費が気になりますから」

「あち」


信楽教務は、そんな私や湯気の溢れる紙コップに興味深そうに目を落とした後、少し中身を啜る。私の肌に残る感覚を経験則で鑑みれば六、七十度以上といった所か。


「……猫舌なのでは? それも冗談でしたか?」


熱いと分かり切っているものに舌を伸ばす様に、私は疑問と皮肉を重ねて言葉にする。すると彼は熱々の紙コップを机に置き、尚もそれを興味対象にしたままに、


「種村さんの温度を確かめておこうと思いまして。ああ、別に卑猥な意味合いでは無いので誤解しないでください。能力の確認です」


そう語る。彼の言うように誤認し少し気持ち悪さを感じる表現であったが、嫌悪感を示すべきではない、年頃の少女の如く慌てふためいても、この手の男は喜ぶだけに違いないからだ。


——誰が乗ってやるものか。


「手に掴める【範囲】と仰ってましたが、それって直接触れなくても温まるんですか?」


それでも、信楽教務は尚も私の失態を責め立てる。本当に失敗だったと、心から思う。


よくよく考えてみれば、彼は私たちの世代では既に普通とは言い難くなった異能力を持たない無能力者だ。能力に対する嫉妬に近い羨望や憧れがあるとも以前に漏らしていた。


感情に流されて行動するとロクなことが無いと自らを諫めつつ私は、ならば、と自分の失態を拭うべく決意した。


それは——、


「正確に言えば掌から円範囲内の空間の温度を一定時間だけ一律に出来るんです。体温操作能力と合わせてこれを応用すると、均一に物を熱し続ける事も出来ます」


——丁寧に説明する事だ。

彼の知的好奇心を満たせればこの話題は過ぎ去る事は明白。手に取りかけていた資料を机に戻し、私は彼に真摯に向き合い身振り手振りを用いた説明を行った。


のだが、


「豚しゃぶとか作れそうですね。豚肉買って来て貰えばよかった」

「本気で気持ち悪いので止めて貰えますか」


直ぐ様に背筋を虫が走り抜けた感覚が襲い来る。信楽教務の悪辣で悪戯な嘲笑がクククと会議室を木霊し這い回ったようだった。私は重ねて後悔する、彼のような狂人には関わるべきでは無かったと。


しかし——それでも、なのだ。


「どんな能力でも使い様によるという話ですよ。くだらない事から悲しい事まで」

「……生徒たちの事ですか」


冗談に紛らせ、冷血無比な無機質の裏にある【何か】を彼は時折、魅せつける。


「生まれた家や才能、能力。育った社会環境、出会った人、貧富の度合い、運の良し悪し」


道化の仮面を剥ぎ、涙に塗れた演者の如く、切々と語る言葉には強烈な思想犯が稀に持っている、人を惹きつけてしまうカリスマ性を感じさせて。


その小さく儚げな笑みは、ただ静かに真実であると悟らせてくる。


「ほんの少しの何かが違えば、きっと別の結末もあった。性善説を唱えるつもりは無いですが間違いを犯さない未来もきっとあった事でしょう、と」


「……貴方にも?」


狂人なのだ。この男は間違いなく。少なくとも私はそう断じている。


「ははは、反吐が出そうになる程ですね、それは」

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