零壱、信楽教務の提言3/3

——。


 それから他とは出足が違う為に一足早く、書類を書き終えた僕は会議室の中央端の窓際で虫のように動く世の中を見下げていた。


するとそこに、差し出される一本の紅茶缶。


「貴方のお兄さんの気苦労が居た堪れなく見ていられないのですが」


暇を持て余し呆然としていた僕に、冷静な声掛けで話しかけたのは、やはり種村さんであった。差し出された紅茶缶を受け取りながら種村さんが視線を動かした先を見ると、先程の自衛官、稲田統括主任と早坂大臣閣下に平謝りをしている兄の姿。


全く以って信楽導士は非常に良く出来た人間である。



「ああ……あの人もストレス耐性の高い人ですよ。それに僕は班の人間を含め、他の職員と自分から親しくするつもりがない。本職の刑務官と違って、今回の件に連携はさして重要ではありませんから」


僕の事など関せず他人のフリをすればいいものを、わざわざ僕らの関係も知らないであろう稲田統括主任にまで謝って。紅茶缶のプルタブをプシリと開き、僕は紅茶を啜る。まさかミルクティーを買って来て頂けるとは思いもしなかった。


「橋渡し役は貴方一人で十分だ。同じ班、なんですよね?」


故に、甘さを僕は口にした。ほんのりと残る紅茶の安らぎの風味と共に。


「……はい。私は主に生徒のカウンセリングと事務方の書類作成が業務内容です」


「レイプされて殺される結末は何処に賭ければいいでしょうか」



それからの僕は、声を憚らない。

糖分が脳に染み渡り始め、喉が潤いを取り戻しつつあったから。



「……冗談でも、そういう軽口は今後一切やめて頂きたい」

「それから、真顔で言わないで」


当然そんな微笑ましい僕に、彼女は嫌悪感を滲ませる。平手打ちくらいなら覚悟していたつもりだが、彼女の自制心には驚嘆する他ない。それとも僕より不快な人間との経験が豊富なのだろうか。まぁともかく——、


「ああ……そうか。こう、ですかね?」


種村早苗、彼女に免じてこれからは本当に少し自制を効かせるようにしておこう。


「——信楽、教務さん?」

「はい? ああ、僕と同じ刑務官の……」


そう思った矢先、現れたのは先ほど男性を挟んで並列に座っていたマダムだった。


「磯部晶子と申します。ここに来る前は、教職に勤めておりました」


どうしてこう世の中というのは間が悪いのだろうか。種村さんに唆されて指で作った笑顔が固まったままの僕はそこらに居そうな適当な神様を恨む。


「これは、ご丁寧に有難うございます。改めまして信楽教務です、以前の勤め先は短い間ではありましたが地方刑務所の刑務官でした。よろしくお願いします」


背筋を伸ばし、僕は磯部晶子氏へ深々と礼を尽くす。というのも僕の経験則上、このマダムのような香ばしい雰囲気を持つタイプは僕の中で苦手に部類されることが多いからである。一定の距離感を維持する為にもキッチリと礼儀を尽くし、距離をキッチリと明確にして親しみの持たれる言動を避ける事が肝要であろう。


「お若いのに、とてもしっかりしていますね、自分の意見を持っていて。お互いに大変な事も多いとは思いますが頑張りましょうと、お声を掛けさせていただきました」


——若いのに生意気な奴だ。これから私が話をしてやるから私の正論にひれ伏せ。そんな風に聞こえたのは、きっと僕だけだろうということにしておく。


この手のタイプは先手を打ち、他人の領域にズカズカと入ることが物事を優位に進めるために必要だと考える。


「そうですか。経験の浅さの所為か空気が読めないと言われることも多いですので、また無神経で不用意な発言で他人様を不快にさせたのではないかと思ってしまいました」


しかし逆に、こちらから不用意に打って出てしまえばカウンターを受け、ヒステリックに近い言動でグイグイと攻め立てられてしまう。故に、彼女自身の話をしない事、興味を持っていると確信させない事が最善と思われる。僕は僕についての話をし、


「こちらの種村さんにも、注意を受けていた所でして……ははは」


彼女が反応を示す前に種村さんへと磯部晶子氏の興味を移す言動を取る。


すると、


「……法務省保護局の種村です。長年の教員としての経験と高い人権意識による磯部先生の熱意と探求は聞き及んでおります。私も青少年犯罪の更生に携わる職に就いておりますので機会があれば是非お話をしたいと思っています」


やはり種村早苗さんは、とてもお優しい。真面目で機械的な印象の皮を被りながらも、その実は他人を突き離せず相手を慮れる性分の人だ。すこぶる助かったと言わざるを得ない。


「あら、それは是非! ふふふ……」

「刑務官と保護局……そうですか。お二人とも堂々としていて立派ね」


ああ——コレは役人を品定めする時の眼だ。血も涙もない冷血漢であるか否かの。


「「いえいえ、とんでもない」」


到底意見は一致しないだろうが、僕と種村さんの声は揃った。

磯部晶子氏が目の前に居なければ、種村さんをからかえただろうに。



「ふふふ。ああ、それから今後の為に、同じ仕事をする者として、それに刑務官でもあった信楽さんの見識というか意見を聞いておきたいと思っているのだけれど」


だが勘違いして欲しくないのは、僕は磯部晶子氏を小汚い畜生だなどと思っては居ないという事だ。彼女は恐らく本心から言葉を紡いでいるし、他人という者を心から尊重もしているのだろう。


ただ、僕とは性質の相性が悪い。それだけの話である。


「貴方は子供たちと、どう接していくおつもりなのか聞いても良いかしら?」


その言葉には、疑う事を良しとはしない疑いの心があった。この手の人物は一つの失言を永遠に印象に残し、それを正そうと全力を尽くそうとしてくる。人間の心というものが矛盾する複雑なものでなく善悪どちらかの一面性的なものだと確信しているからだ。


だから善と判断した者が悪行を働くと、それを社会のせいばかりにする。或いは思い込む。



——さて、どう答えるべきか。種村さんを労うべく、ここは自重しておきたい所だが。


「失礼します。盗み聞きのようになってしまいましたが自分もその話に参加させて頂いて宜しいでしょうか?」


僕が逡巡の思案を巡らし始めると、更に横から新たな登場人物が足を踏み入れてきた。


「ああ、六角さん。そうですね、それが宜しいかもしれません。今回の担当刑務官が揃うのは、これが最後の機会になるかもしれませんし」


彼は、磯部晶子氏が言葉を漏らしたように先ほどの説明会で僕の隣に座っていたスーツの似合わない体格のガッチリとした三十代くらいの男性で、僕らと同じ役職に就く予定の人物である。



「自己紹介が遅れました信楽くん。自分は六角義気です、自衛官をしております」


「宜しくお願いします。なるほど自衛官ですか、鍛えられた体をしている訳ですね」


続々と厄介な事に、とは特に思わない。むしろ有り難い事でもあった。


「そういう信楽くんも服の上から見ても中々ですよね、ははは」

「まぁ……服役者の看視は体力が重要にもなってきますから。自己流ですが、それなりに」


「それで受け持つ生徒についての話なのですが、自分も参考にさせて頂きたい」


三者三様の睨み合い、探り合い。それが丁度良くもある。一対一の議論は熱しやすくなるが、間に別の人間を挟めば死角からの攻撃を恐れ、視野を広くせざるを得ず、よほど直情的な性格でもない限り冷静さを保つことになる。立場が同じなら尚更の事。


「勿論。ですが、やはり重要なのは対象一人一人の個性を見て対応を考えていく事ですので、どういうやり方が正解なのか一概には言えません」


僕は、彼らを招き入れるように両手を少し広げ、自分の考えを披露し始めた。とても当たり障りなく重要な前置きを置いた上で。



「刑務官として刑務所内で勤めて参りましたが、罪を犯してしまった服役者の中にも多様性が当然あり、それぞれに善悪の線引きや個人の裁量による義理不義理という道徳的な基準というものが存在していると感じておりました」



そこから腕を降ろし、腰に片手を当てる。

身振り手振りを交えながら偉そうに語る僕だが新卒からこっち、殆んどの時間が研修で費やされ実際に刑務所で勤務していたのは三か月と少しだという事実は伏せておく。


「分かり易く例を挙げれば、盗みはするが殺しはしない等です。それらを受け、まず他人というもの理解するにはその人が何に対して喜びを感じ、どのような事柄で怒りに震え、溢れ出る感情や本能に対してどこまで理性が働き、それがどう行動に作用するかを知ることが肝要なのではないかという考えに至りました」


「……」

ふと種村さんに目を配ると、彼女は実に意外そうに僕を見ていて。存外、日ごろ不良のフリに勤しみ善行を積む方が効率的に人生を面白おかしく活きられたのではなかろうか。


真面目に生きてきた後悔を嗤いつつ、僕は種村さんの【ご期待】に応えるべく、さりげに刺激的な文言を言葉の端に忍ばせてみようかと心をくすぐらせる。


「なので私はまず、生徒たちの恐怖という感情を煽り、その本質を見極めていきたいと考えています」


——すると、

「ちょっと待ってください。え? どうしてそういう結論に?」


やはり道徳警察の検問には引っ掛かるのである。磯部晶子、彼女はやはりそういう人だ。


「時間、という物は有限であり、そして何より私の生命を自衛する為であります」

「恐怖での圧政は必ず反発を生みます。その考え方は些か間違っているのでは?」


「別に理不尽に暴力を振るう訳ではありません。行動に対して報いがあるという事をより明確に言語化し、体験実感させるのです」


「詭弁ですね。高圧的に接すれば必ず反抗が生まれます、独裁政治は悲惨な結果を生むだけだと歴史が証明していますよね」



全く以って、この人たちは何でも歴史に絡めたがる。あたかも全てを知る賢人が如き顔つきで、本質を踏みにじる愚かさ。


「……何か、誤解されていると思うのですが、我々の仕事の目的は政治を執行する事でも、調教して自分たちの都合の良い従順な奴隷や手駒を作る事ではありません」

「生徒らの犯した罪を反省させ、後悔させ、社会に戻しても問題ないと判断できる程に更生させる事なのでは?」


正義を執行し、お金を稼ぐ仕事などこの世界には在りもしないのに。


「社会を支え、支えられて良く活きられるように教え育むのは教師や保護者、或いは一般社会の役目なのでは無いですか?」


「そもそも彼らは社会秩序的制裁を受けるべきと判断された子供たちです。性善説を語るのは結構な事ですが、悪に傾いてしまった一個の人間という事も忘れてはいけません」


磯部晶子氏は、僕の進言に何か答えを返そうと思考を巡らし一瞬、固まる。どんなヒステリックや暴論が返ってくる事やら。正直、辟易とし始めていた僕の胸中、退屈しのぎに種村さんの方へ視線を送ると彼女は僕を強かに見つめていて。


敵の分析をする冷静な将官のよう。

すると、そんな折、


「……可否の判断はどういう基準で行われるつもりなのですか?」

意外な事に静観してくるものだとばかり思っていた六角義気さんが片手を軽く挙げる。


「その——更生の、余地の判断基準は……」


この人もまた、強か。議論ではなく情報収集に来ている、少しバツが悪そうに尋ねたところを見ると相当の葛藤を心に抱いているのだろうが。


怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になる事の無いよう気を付けなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまた、こちらを覗いているのだ。


今の彼らや僕らに相応しい、いと素晴らしきニーチェの言。これを彼らに送るのが適切だろうか。


「……確かに、悩み所ですよね。僕は自分の危機感と、二十数年生きてきた経験から判断したいと思っています」


否、些か気取り過ぎであろう。僕は小さく微笑み、少しだけ間を置いた後に六角義気さんへと曖昧な答えを返す。


「あまりにも恣意的で根拠に乏しい基準と思われるのですが」


もちろん、磯部晶子氏。彼女のお優しい口調と存在も忘れてはいない。


「そうでしょうか? 私たちが殺されてしまえば、更生の余地がある他の生徒の査定にまで悪影響を及ぼします。ならば、まず優先すべきは自衛では無いでしょうか?」


「仮に——全ての生徒がそうだったとしたら貴方以外の誰一人も生き残れないという事になりますね」


笑顔の応酬、裏腹に互いが抱える嫌悪感を隠し合う。明らかに違う価値基準に互いが相容れない存在という事は知っている。それでも社会という枠組みを維持する為に建前という物は往々にして必要なのだ。



互いに争いは争いを生むことも勘付いていて、妥協点を探り合っていく。


「僕らに手を出してくるような生徒は、どのみち再犯の可能性も高いと判断するのに十分な根拠があると思われますが? これは、そういう制度でしょう」

「「……」」


しかし譲れぬものが互いにあるから、問題を棚上げして、先送りして思考を停止するという事もまた、円滑に社会を回していく為には重要な事でもある。


「あー、もう少し詳しく話をしていたいと思いますが、どうやら準備も整ったようですのでここまでにしておきませんか? 他の職員を待たせるのも気が引けてしまいますし」


叩き潰したいという衝動を抑えつつ、僕は丁度良く視界に入った退屈そうな態度の職員を見つけ、周囲の雰囲気を目の前の敵たちに悟らせた。


「……そうですね。勉強させていただきました、ありがとうございます」


作業を終え、僕らの会話が終わるのを待っていた彼らを慮り、磯部晶子氏も六角義気さんも鋭利な言葉の柄から手を離す。無論、議論が無意義な平行線である事にも当然気付いての事ではあろうが。これが、今回の妥協点、先送りの大義名分。



「いえいえ、機会があればまた是非。今度は皆様の意見を聞かせてください」

「——では、早坂法務大臣による正式な任命授与式を開始します」



——さぁ、いよいよ殺そう、殺す準備を整えよう。



世界には、若者が主人公としてディストピアや悪しき権力に挑む物語が多く生まれいずる。唐突に日常を破壊する身勝手で理不尽な、大人や世界が仕組んだデスゲームに巻き込まれ、それに抗うような物語だ。彼らも君らも怒りを叫び、権利を主張し、幸福を語り、共感を求める。けれど、考えてみた事はあるかな。僕らの葛藤や事情を、彼らや君らは考えた事があるのかな。


いや、きっと彼らは強引な理屈で僕らの憂いや労苦を、万能で慈愛に溢れる神の如く踏みにじっていくのだろう。


僕らとそう、大差ないように。



だから僕は、僕の役名を【絶望】と、そう名付けよう。



——君達が希望とそう、名乗るから——。

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