零壱、信楽教務の提言1/3


 種村早苗との素敵に愉快な会合の数日後、着なれない卸し立てのスーツに身をやつした僕は、青少年特殊犯罪更生学校の赴任説明会場がある法務省本庁舎に足を踏み入れていた。


「信楽さん。おはようございます」

「なるべくなら、【こんばんは】の時間にもう一度お会いしたかったですね」


そこに待ち受けていたのは、やはりと言うべきか種村早苗であった。どうやら彼女は僕の案内係を任命されているらしい。当然、驚きはない。想定済みである。


「……また冗談ですか。こちらへ」


数日前とは材質から恐らく違うスーツを着こなして、相も変らぬ仕事が出来る佇まい。

「冗談というよりは感謝ですね。あまり外食せずに一人で慎ましく済ませることが多いので、この間の食事は新鮮な気分でした」


彼女に促されるままに後を追いつつ会話を進める。

 僕は、省庁というか巨大企業にも良くある空間の匂いが好きでは無い。


例えるなら添加物まみれの合成化合物らしき清潔感のある香りが、昔からどうも肌に合わないのである。


又、役所特有の言葉を殺させる荘厳な静けさも。


「そうですか……しかし、次の機会があるかは解りません」

「ははは、それは確かに。ん……」


まるで、ドブ泥の臭いを隠しているよう。なんてことを考えて嫌悪している内、進行方向にとある人物の姿が見えた。それは、僕にはとても見覚えのある人物で彼は僕らを待ち受けていたかの如く立ちはだかる。


「……久しぶり、だな……教務」



「お知り合いですか?」


「ああ、はい。部署が違うので知らないんですね、僕も部署は知りませんが法務省に勤めている兄の信楽導士です」


僕は、僕を名で呼ぶ馴れ馴れしい彼の事を、出来れば紹介したくなかった。種村さんの疑問に答える為に紹介する他なかった兄、信楽導士の事を。


ビシリと決まる自信に満ちたスーツ姿に相応しく、ゴミ溜めに似た僕の眼球とは対照的な顔が付く。ご立派な正規品。


「兄さん、こちら法務省保護局の種村さんです」

可能な限り兄を視界に入れたくない僕は、自然と種村さんの前に出て彼女に振り返り、今度は兄に種村さんを紹介するに至る。


すると、


「初めまして。大臣官房に勤めています、保護局というと……今回の件の?」

「あ、はい。しがら……教務さんの案内役と今後の補佐等を担当しています」


「そうですか……至らない弟ですが、よろしくお願いします」


当然始まる社交辞令の会話。それでも、あまり気分は良くない。


勘違いして欲しくないのは、僕が種村さんに好意を持っていて、兄に対して劣等感があるからではないという事。この兄との会話に良い経験が無いからである。


「忙しいのにお別れの挨拶に来てくれて嬉しいよ。父さんに話を?」


僕は話に割って入り、多忙なはずの兄がこんな場所に居る要件を確かめる。おおよその見当は着いていた、ご丁寧に別れの挨拶になんか来ていない事も知っている。


「……いや、法務大臣のご配慮だ。別に俺は今さら止めはしないが、父さんか、せめて母さんにくらい連絡をしたらどうだと付き添いのついでに言いに来た。知り合いはお前の携帯の番号を誰も知らないし、お前も母さんの番号を知らないだろうからな」


父の事、そして母の事。本当に彼は——出来の良い息子であるから。僕が長男であったなら、さぞ冷遇が捗っていた事だろう。


「育ててくれてありがとうと伝えておいてよ。気味の悪い僕からの電話を受けて、あの人がまた入院する事になったら困るし」

「教務‼」


そんな彼が激昂する物言いを僕は知っている。それは僕が当たり前のように口に出来る言い回しで、他人には口にするのが憚られる台詞。他人は僕を、さぞ卑屈と罵る事だろう。


「——行きましょうか、種村さん。昔話が出来る程、特に深い思い出も無いですから」


他人が口出しをするなと僕は言った。しかし家族であるからこそ言える台詞だという事も自覚している。永遠に微塵も揺らがぬ平行線のままの会話など、時間の無駄だ。


もう既に結論は出ているのだから。




「……本当によろしいのですか?」


別れの言葉を述べぬままに迂回して歩き出す大股の僕に、急ぎ足で歩み寄った種村さんが気を遣って尋ねる。彼女からすれば、信じ難い光景なのだろう。


あってはならない光景なのだろう。


ふと、種村さんの家庭環境について考える。兄弟姉妹は居るのか、今度機会があれば聞いてみよう。しかし今は——、


「構いませんよ。殺したいほどの恨みも、名残惜しむほどの思い入れも、壊れたまま何一つ構築してはいないので」

「さして必要性も感じませんし」


遮断しなければならなかった、面倒な邪念を振り払うためにも。


「——ネクタイが少し緩んでいるぞ。しっかりと締めていけ」

「……ああ、ありがとう」


僕は、その背後からの忠告に対してネクタイを締めあげる。自然と込み上がる微笑は自分には、とてつもなく歪なものに思えて。



その後の暫く、エレベーターに乗り込むまでの沈黙に僕が何かを考える事も無く、時間と距離は進み、縮むばかり。見慣れないはずの見慣れた建築のありきたりな風景に視線が動いて、ただ眺める時間。


そんな折、エレベーターの開閉ボタンがキッカケであるかのように種村早苗が想いながらの呟きを漏らす。何のことは無い呟きだ。



「——家族は……いえ、少しはご自分の人生を大切にした方が良いと愚考します。暫くして落ち着いたら手紙の一つでも書くべきかと」


小さな小部屋に二人の男女。監視カメラが無ければ言い寄って居たかもしれない。なんて嘯いた感情を抱きながら、絞められたネクタイに感謝する。



「とても興味深い私見ですね。なるほど僕の人生を、ですか……確かに、些か軽んじているのかもしれません。僕は僕を」


「豊かさとは、つまりそういう事の積み重ねと種村さんは仰りたい訳ですよね」


エレベーターの扉の前で横並び、僕は銀幕の如き扉を用いて小さく笑顔の練習をする。

「私は、貴方がどういう風に考えているかなんて皆目見当も付きませんので答えかねます」

「過大評価が過ぎますよ、と、こういう風に考えています。何もかも」



本当に愛おしい事だ。



表情を揺らがせない毅然としたままの種村早苗を窺いつつ、僕は想い、嘲る。


「それにしても、この通信が発達した時代に手紙とは、古風かつ風流なアイデアですね」


「表現の手段や方法を非効率や時代などという理由で自ら絞っていくというのは、進歩として些か滑稽なのでは? 私は統一ではなく多彩であるべきと思いますが」


「……なるほど。違いないですね。互いを尊重し、良い部分悪い部分を慮るというわけだ」


「そう心から思って頂けると、光栄です」


彼女と語らう事は、実に面白いと心から思う。本当に独占したいと思えるほどに。

これこそが好意と呼ぶのか、そう決めるのはまだ時期が尚早なのではあろうが。


——。


そして話は進み、とある会議室の扉の前。

 その扉は、種村早苗が開けなければならない。案内係だという彼女を尊重するならば。


「お待たせいたしました。今回の第二期青少年特殊犯罪更生学校高等部に赴任する担当刑務執行官、信楽教務さんをお連れ致しました」


音もなく開く扉にノックを二回、中に居る人物たちを気遣い、彼女がそっと扉を開くと重々しい空気と数名の人員による沈黙の視線が集まる。


一歩——僕は前へ進んだ。


「……信楽教務です。若輩ではありますが、重責を自覚し強い責任感を持って尽力する所存です。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」


一応、これでも刑務官である。研修期間で染みついたのか刑務所内の職務で実ったのかは意識していないので記憶にないが、敬礼をしながらの仰々しい挨拶くらいは出来る。


コツは、目を開きながら誰も見ない事だ。賛否は解れるだろうけれど。


最初の内は、相手の眼ではなく眉毛でも見つめて壁で発声練習をしていると思えば良いと思う。これは、カタカナでテキトーな僕からのアドバイスだ。



「座りなさい」


そんな僕の挨拶を受けて上座というより、王の如き座り位置で会議室の端中央に鎮座する老獪な男性が偉そうに僕に命じた。彼は——まぁ政治に少し関心があれば誰でも知っている人物といって良い。法務省法務大臣の役職に就く議員閣下である。


「はい。失礼します」


厳粛な空気の中で一人の公僕として彼の命に従い、部屋に用意されていた大臣と対面するように置かれた長机に向かい、そこで席に着いて先に待っていた二人の人物に会釈をする。


「——これで全員揃った。少し予定より早いが話を始めるとしよう」


この時に疑念が沸いたが、それはまた後で良い。種村さんが何処に行ったかと椅子に座りながら確認すると、後方の方に向かう彼女の姿。後方には数名の職員と大量の資料が置かれていて。読書中毒者でも一日は掛かりそうな大荷物だった、と思う。



さて——始めるとしよう。

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