零、信楽教務の選択3/3

だが、


「僕は、犯罪行為を行う事——これは人権を放棄する行為と位置付けているんです」


こういう——いよいよ本題だという時には何時も、タイミングを見計らったようにノックの音が響くもので。


「刺激が強すぎましたか? ……デザートが来たようです。口直しをしましょう」


丁寧な給仕がレストランの価格に付与されるに相応しい立ち振る舞いで静かにドアを開け、僕らに礼を尽くす。ワインを頼めなかった事が申し訳なくなる程に。だが、


「そうですね……甘いモノはお嫌いそうですけど、大丈夫ですか?」


酔う訳には行かなかった。歓談を装いながら久しい気分の会話を始める種村早苗の前では。


「はは、失礼だな。甘いモノは好きですよ、とても……」


それは、お互いにそうであろう。細やかな情報と言えど、抱えるのは国家の機密案件に関する事柄。いち公務員である僕らが恣意的な判断で漏洩させる事など、そうそうあってはならない。それは彼女も当然弁えている。


「見た目も綺麗だし、作り手の熱意や研鑽が窺えると特に」



「ごゆっくり、お楽しみください」


どれだけ精錬された気遣いの効く給仕であろうと私人に他ならない。憲法で様々な自由が認められているからこそ、僕ら自身が己を律しなければならないのである。

個室のドアが再び閉ざされるまで、僕らは食事を楽しむ男女であった。普通とは言えないけれど。とても——惜しい事に。


「……信楽さん。ではやはり今回の件は引き受けるおつもりなのですね」

「ええ……恐らく消去法とはいえ、選ばれたのなら喜んで」


ドアまでの道のりが、フルマラソンほどあれば良かったのにとは言わない。けれど、もう少し彼女との歓談を続けていたかったというのが本心だ。


それぐらい僕は、厳粛な佇まいでありながら、【お優しい】彼女を気に入っていた。

お見合いであったなら、交際を申し込むにやぶさかでない。


しかし——、

「前期の更生は早々に失敗しています。赴任者も三人、交代しているんですよ?」


「……僕がやって良いなら僕がやると言ったつもりですが。僕が断ったところで他の誰かがやるでしょう? 仮に僕が断った場合、貴女が今後掛けるであろう経費も馬鹿にならないと思いますが。制度廃止まで、どれ程の金額になるか机の上で試算してみては?」


彼女は、敵とまでは言わずとも味方ですらない。相対する互いの思想信条が交わらぬ

ことを僕は知っている。当然、僕が歩み寄る事は無い。


「お金の問題ではありません」

「お金の問題も絡んできますよ。制度変更でバタバタと、ね」


そこまで僕が、彼女を愛してはいないからだ。溶けかけるアイスクリームにスプーンを差し込むと、熱伝導で更なる液状へと回帰していく。それに比例してか冷静な議論も熱を帯びて。脳が糖分を欲し、僕も冷気を望んだ。


待て——今はアイスクリームではなく、こういうのはジェラートと呼ぶのだろうか。ふと、そんな事を考える。


「……そんな言い訳で不良債権は損切りしろと、再利用の価値が無いから僅かな未来の可能性は捨てろと? 人の命ですよ、私や貴方と同じ」

「それを奪ったのが彼らでしょう……さっきも言ったはずです。被害者は命を持っていなかったんですか、と」


酷く錆び付いて見える伝家の宝刀。


「だからと殺してしまったら、私も貴方も国民も、まるで彼らと同じじゃないですか」


一見、切れ味の鋭い薄い刀身は強力に思えるが横から打撃を加えてしまえば、まるで薄氷の如く砕けてしまう脆弱さ。


「そうですね。しかし復讐の連鎖は誰かが止めないといけない。だから司法判断による死刑、根絶の代行、復讐の抑止という第三者による手段を選択するのでは? そして国民は高い税金を払っているからと汚れ仕事を僕らに押し付け、自分たちは綺麗な振りをするという構造」


社会が悪意の塊とまでは言わないさ。しかし、善意の塊では決してない。


人間の塊だ。


「などと、僕はこんな考え方をする人間なので、自分を含め国民の誰かが清らかだと思ったことが無い……だから、残念ですが種村さんの思想には今さら賛同しかねますね」


僕は心底申し訳なさそうに種村さんへ告げる。とても、白々しく。


「人間なんて、偉そうにしていてもそこいらのケダモノと変わりはしない。複雑に絡み合った細胞という名の欲望が服を着て歩いているだけのアメーバみたいなものですよ」

「……さっきみたいな冗談だと、嬉しいのですが。酷い物言いです」


愛想笑いは作れているか。いや、きっと作れていないな、と僕は再びワイングラスの水を飲み、瞼を閉じる。彼女もそうしたような声が、耳に響いた。


「出来れば理解して頂きたかったのですが、やはり今は無理なようですね」


彼女は未来の可能性を信じている。こんな僕の未来すらも。とても、お可愛い事だ。

だから気になった。『今は』という一言、まるで『これから』があるような物言いが。


「ああ、それから——種村さん。1つ、僕のつまらない昔話をしてもよろしいですか?」

正直にこの時の感想を述べるなら、面倒だな、と僕はそう思ったのである。


「……どうぞ。正直、お腹は一杯ですが」


お遊びは御仕舞にするべきなのかもしれない、と。



「はは……では軽めに」

小さく喉を削った乾いた笑いは、誰の為のものであったろう。笑顔というものが他者を安堵させるためのコミュニケーション手段であるなら、それは種村早苗という女性に向けられたものでは無い。


「僕はね、今まで一番というものになったことが無いんですよ」

「?」


なるほど、そうだ。僕は今の笑顔を僕の嗜虐心から来たものと表しよう。


「生まれは次男ですし、勉強でも最高で学年で二番、運動もいつも二位が関の山」

「おかげ様の前科で二流と位置づけされている大学の出ですし」

「幾ら努力しても何をかなぐり捨てても二番が限界でした」


格好つけながらのみっともない負け犬の遠吠えに、お優しい種村早苗はどのような反応を示すだろう。いや、解っている。解っていた。


「嬉しい事に女の子から告白されたこともあるんですが……僕はその子が前の週に、他の誰かに告白して振られていた事を知っていた」


誘っているのは、同情。誘いたいのも同情。

——とても儚げな笑みを作れ。

——優しさに浸け入れ。


「才能の壁や運命、というものがあるんでしょうか。先ほども指摘された通り、この世界で多くの人が特殊で秀でた才能を持っている中で僕は無能力者として生きてきた」


「その点が不屈と評価されて、新卒の僕に声が掛かったのかもしれませんが、いったい僕は何番目だったか、ご存じですか?」



出来損ないを憐憫の眼差しで見下げ、上位の愉悦に浸るその他大勢の凡夫の如く。



「……数名候補は居たと、聞いています。最有力候補は……辞退したとも」

「ね、僕は特別じゃない。今まで散々打ちのめされ、卑下されてきた現実です」

「だから……正直、嬉しいんですよ」



——優しさで手を差し伸べたいと思った瞬間、

底なしの歪みの中に叩き落としてやる為に。




「僕が嫉妬に狂いそうなほどに欲しかった才能に溺れ、自分は特別だと他者を虐げた犯罪者を法の下で八つ当たりを正当化し、存分に叩きのめせるかもしれない事が」




激情で剥き出しに進化した牙を持つ僕の穏やかな物言いで、彼女は身の毛がよだったような、そんな表情を向ける。

予想通りで少し、楽しかった。これで、諦めてくれれば尚よし。


「……なるほど、資料にあった無味無臭な人物像の意味が分かった気がします」

「不屈ではなく、劣等感と飢餓感と表記されていましたよ、信楽教務さん」


けれど——彼女の瞳は、死んでは居なかった。刹那的な動揺の後、彼女は少し息を整え、僕を改めて真っすぐに見る。軽蔑ではない、敵意の眼差し。


ああ、そうか——彼女も獣か。


「私は貴方の資料を読んだ瞬間、政府は一刻も早く子供たちを処理しようとしていると理解しました。だから……貴方の前科を見た時、少し安堵した。可能性があるかもと期待したんです。本当は、温かい人の血の通った正義感がある人なのかもと」


種の繁栄の為に蹂躙するばかりの雄には持ちえない力。母の矜持か、はたまた雌の力か。守ろうとする意志の強さが、彼女には確かにあった。少なくとも僕は、そう感じていた。


「はは。あの結果を受けたら聖人君主でもない限り歪みもするでしょう……資料に書いてありましたか? 事件判決の数日後、犯罪者に助けられた存在しないはずの生徒は友人とやらに唆されて僕を殴り、殴り返された為に、その後、僕に謝罪の意志を記した遺書を残して自殺した、と」


「——⁉」

酷く馬鹿馬鹿しく思えたものである。我欲の追及が、まさに虚しさばかりであるようで。


「幽霊が幽霊になるって話もおかしな話ですが、その幽霊の所為で司法の判決が狂い、払う事になった賠償金も、崩壊した家庭も、僕の経歴も、二流大学に通いながら賠償する為にバイトで費やした時間も戻ってこないのに、当人の死体とその保護者の謝罪だけで済まされるというのも可笑しい話だとは思いませんか?」


寂しげに思い返す過去に、意味は無く意義もない。体中にこびり付いた泥を撫でるように手で拭い、汚れてしまったな、と思うばかり。心が死んでいる事だけを思い出す。


「無論、一番悪いのは……いえ、もう終わった話ですね」

「……」


なるほど、中々どうして——美しい。自然に浮かんだ自嘲の笑みを見られまいと僕は外の夜景を眺める。幾度も重ねるが終末の夜がこう、いつもの日常と変わらなければ如何ほどに素晴らしい事か。


「……もうすぐ楽しい食事も終わりですか。駅までなら、お送りしますよ」

僕は、デザートの傍らにスプーンを置き、瞼を閉じて彼女に告げた。


「——ありがとうございます。最後に一つ、お聞きしても良いですか?」

「なんですか?」


「貴方の物の言い方を聞く程……今の職業に絶対に適していないと思うのですが、何故……いえ、どうやって刑務官になれたのでしょう。昨今はかなり適性検査や精神分析の方も厳しくなっていると聞きますが」


「——なるほど。確かに僕は経歴に傷がありますし、もっともな疑問ですが単純な話です。それとこれとは全く別の話だからですよ」


「やっぱり、通じていないようですね……」



「はい?」

「冗談」



——ひとえに、僕は悪役だと世間様には、そう……訴えよう。

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