第4話 決意

 その夜、家族の皆が寝静まった後でルーシャは家を抜け出した。目指すのは村長の家だった。何の前触れもなく真夜中に突然訪れたルーシャを見て、村長は瞬時にルーシャの思いを悟ったようだった。涙を浮かべて村長は深々とルーシャに向かって頭を下げた。


「すまない、ルーシャ。お前の犠牲でこの村が恩恵を受けるのならば、私もその後でお前の後を追おう。そうでもしなければ、お前の両親のシエトロやアンジュリーに顔向けができやしない」


 その言葉を聞いてルーシャは首をゆっくりと左右に振った。


「村長には三つになったばかりのお孫さん、アンドリアがいるでしょう? おじいちゃんが急にいなくなったらアンドリアが可哀想。それに徴兵されてこの戦争で死んだ人はこの村にもたくさんいるわ。戦争に行って死ぬのは何も私だけじゃないでしょう?」


 今度は村長が首を左右に振る番だった。


「それは違う。違うんだよ、ルーシャ。戦うために戦争に行くのと、死ぬために戦争に行くことは全然違う。例え結果が同じだったとしても、それはそもそも別のものなのだ……」

「大丈夫、大丈夫だから、村長さん……」


 ルーシャは微笑んだ。そうでもしなければ、涙が溢れてしまう気がした。ここで涙は見せられないとルーシャは思っていた。それは村長だけにではない。家を後にするその時まで、家族にも誰にも涙は見せられない。


 涙を見せれば、それを目にした人はルーシャを送り出してしまった負い目を一生背負っていくことになってしまうかもしれない。それはルーシャの本意ではなかった。志願兵になることは自分で決めのだ。誰に強制されたものでもない。だから、涙は絶対に見せられないとルーシャは強く心に誓うのだった。





 ルーシャが決意してからの行動は早かった。出立の日を二日後の夜と決め、ルーシャはそのことを村長には固く口止めをした。出立まで日にちを置かなかったのは、日にちを伸ばすと自分の決意が揺らいでしまいそうな気がしたからだった。

 

 ルーシャはその残された二日間、極力普通に振る舞いながらも両親に甘え、妹と弟を思いっきり可愛がろうと心に決めるのだった。


 瞬く間にその二日間は過ぎて出立の夜となった。村長の話では村の外で帝都からきた軍部の役人が待っているとのことだった。


 志願兵になることによる報酬の前金は村長に預かって貰っている。前金だというのにその金額はルーシャにとって信じられないぐらいの額だった。そのお金だけで家族は二年や三年を楽に暮らせてしまえるだろう。ただ、それは自分の命に値がついてしまった気がして、また少しだけルーシャは悲しくなった。


 ルーシャは部屋を出る前に忘れ物はないかと考える。そもそも持って行くものはそんなにはなかった。数組の粗末な着替えと数枚の家族の写真。そして、いくつかの思い出の品々。


 これだけあれば十分だとルーシャは思う。ひとつだけ大きく頷いてからルーシャは部屋を後にしたのだった。


 大丈夫。家族は寝静まっている。部屋を出たルーシャは音を立てないように注意しながら外に出た。扉を閉めて二歩、三歩と進んだルーシャが最後にもう一度、家族で暮らした家を見ようと振り返ろうとした時だった。ルーシャの背後で扉が開く音がした。


「お姉ちゃん!」


 弟のマシューが駆け寄ってくる。ルーシャは振り返ると、思わず駆け寄ってくるマシューを抱き寄せた。


「お姉ちゃん、どこに行くの?」


 マシューは既に涙声だった。ルーシャは片膝を着いて一瞬、強くマシューを両手で抱き締めて顔を上げた。両親と妹がやはりそこにいた。肺を病んでいる父親は痩せ細った体を母親に支えてもらいながらも立っていた。


「ルーシャ、どこに行くつもり? お母さんは許さないわよ!」


 母親の言葉にルーシャは何も言えなかった。


「ルーシャ、ありがとう。でも、戻ってきなさい。犠牲の上にある幸せなんて誰も望んでいないんだ」


 父親が言う。ルーシャは唇を噛み締めて必死に涙を堪えた。

泣かないと決めたんだ。家族の前で涙を見せないと決めたんだ。そう心の中でルーシャは呟いていた。


「お姉ちゃん、お願い。私、もっと頑張るから。マシューの面倒だってもっと見るし、我慢だってもっとする。だから、だから……」


 アナリナはそう言って、しゃくり上げながら泣き始めた。すぐ上の姉が泣いているのを見て弟のマシューも更に泣き始める。


「ルーシャお姉ちゃん、お姉ちゃん、ぼくがいつもお腹空いたって泣くから行っちゃうの? だったらもう言わないから。ぼく、我慢するから。もう泣かないから……」


 弟のマシューまでそんなことを言い始めた。

 妹のアナリナがこれ以上、何を我慢すると言うのか?

 まだ五歳でしかない弟のマシューが、お腹が空いたと言って泣くのは当たり前のことじゃないのか?


「ルーシャ、お願いよ。お願いだから変なことは考えないで……」


 母親がそう言って嗚咽を漏らす。


「……みんな、勘違いしないで。私は皆のために行くんじゃないの。私が行きたいから行くんだよ」


 ルーシャは涙を見せずに言う。泣かないように頑張ると微笑が自然に浮かんでくるのが不思議だった。


「ルーシャ、お願い。お願いだからもうやめて。無理にそんな顔をしないで」


 とうとう母親が泣き崩れてしまう。


「お父さん、お母さん、本当にごめんなさい」


 本心からの言葉だった。両親には本当に申し訳ないと思う。このことで両親がどんな思いをするのだろうかと考えると、悲しくて気が狂いそうになる。ルーシャは妹に黒色の瞳を向けた。


「アナリナ、あなたはお姉ちゃんなんだからマシューとお父さん、お母さんのことを頼むわよ。大丈夫。今まで通りにやっていればアナリナなら大丈夫だから」


 アナリナは幼児のように、いやいやと首を左右に振った。


「お姉ちゃんは、ルーシャお姉ちゃんでしょ? 私じゃない……」


 嗚咽を漏らしながらそう言うアナリナに、ルーシャは優しく微笑んで見せた。そして弟のマシューに黒色の瞳を向ける。


「マシュー、あなたは男の子なんだから、あまり泣いてみんなを困らせちゃ駄目。もっと強くなってみんなを守らないと。大丈夫、マシューならきっと強い男の子になれるから」

「お姉ちゃん、駄目、行っちゃ嫌だ。ぼく、ぼく強くなる、いい子になるから……」


 弟のマシューが泣きじゃくりながらルーシャの手を引っ張る。一緒に家に帰ろうと、一生懸命に小さな手でルーシャの手を引っ張っている。その姿を見ていると本当に胸が張り裂けてしまいそうだった。


「ごめんね、マシュー。本当にごめんね」


 嫌だ嫌だと泣きながらマシューが首を左右に振っている。もうこれ以上は弟のこのような姿をルーシャは見ていられなかった。


「アナリナ、お願い。私の最後のお願い。もうこれ以上は……」


 アナリナが泣きながらも意を決したように小さく頷いた。思えば小さい時から何かと聞き分けがよい妹だった。こんな時でさえ結局は自分の意志を押し殺して姉の意志を尊重してくれる。ルーシャにとってこの世で一番可愛い妹だった。


 アナリナは両膝を地面につけてルーシャの手を引っ張る弟を背後から抱き締めた。そして、ルーシャからマシューを引き離す。


「アナリナ、何を? 止めて、止めて頂戴。ルーシャを行かせないで」


 母親が悲痛な叫び声を上げる。娘の強い意志を覆すことができないことを悟ったのだろう。父親が泣き崩れる母親を優しく抱く。


「ルーシャ、本当にすまない。何もかもをお前に押し付けてしまった」


 父親が苦し気に、まるで血でも吐くかのように言う。ルーシャは無言で首を左右に振った。

 マシューは泣きながらアナリナの腕の中でめちゃくちゃに暴れている。


「みんな、本当にごめんなさい。勝手に一人で全部決めてしまって。本当にごめんなさい」


 ルーシャはそう言って頭を下げると、そのまま皆の顔も見ずに振り返って前に足を踏み出した。


 父親が自分の名を呼ぶ声が聞こえる。背後から母親の悲痛な叫び声が聞こえる。アナリナの嗚咽が聞こえる。マシューの更に大きくなった泣き声も聞こえてくる。


 そのどれもがルーシャの胸を深く抉っていく。見えない血が自分の胸から吹き出しているかのような感覚さえあった。


 背後を振り返った時からルーシャの黒い瞳から涙が溢れ始めていた。でも、泣き声を漏らす訳には絶対にいかないのだ。そう決めたんだ。ルーシャは漏れそうになる鳴き声を必死で耐えるのだった。


 やがて村の外れに来るとルーシャは子供のように、わんわんと泣き声を上げた。


 そうやって泣きながらもルーシャは自分なら大丈夫だと思う。もう十五年も生きてきたのだ。その間に両親からの愛情は十分に貰った。たまには憎たらしい時もあったけれども、可愛い妹や弟にも会えた。もう十分だった。望むべきものはこれ以上ないように思えた。


 あのお金で父親の病気が治るといいなとルーシャは思う。自分は父親が病に倒れる前の元気な姿を知っている。でも、妹は元気な父親の姿を覚えていないだろうし、弟は見たこともない。父親の元気な姿を妹と弟に見せてあげられるだけでも、自分の行いには意味があるとルーシャは思っていた。


 大丈夫。私は大丈夫だとルーシャは思うのだった。

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