とにもかくにも喉は渇いたし、周囲からの視線も痛い。ここは損な役割を引き受けるしかないだろう。仕方なく立ち上がり、教壇のほうに向かうと、新人らしき管理委員会からケースを受け取った。


 どこから配っても良かったのだが、本田が言葉なき圧力をかけてきたから、本田の席が近いほうから牛乳を配り始める。やはり、ほとんどが喉の渇きを覚えていたのであろう。安藤が牛乳を渡すや否や、ストローを刺して飲んでしまうのがほとんどだった。全員に行き渡ってから――なんて考えていたのか、口をつけずに待っている者もいた。もっとも、かなり少数であったが。


 とりあえず自分を含む全員に牛乳を配ってみたが、なぜかひとつ余ってしまった。姫乙の分だと思った安藤は、ケースを返しに行くついでに姫乙に牛乳を手渡す。けれども「私は結構でぇぇす。牛乳、大嫌いなんですよぉ。むしろ、諸君が飲めばいいと思いますぅ」と、迷惑そうに新人らしき管理委員会の兵隊へと手渡した。ケースを返してやると、管理委員会はその中に牛乳を戻した。その動作でさえ、どこかオドオドとしていた。


「えー、飲みながらで良いので聞いてくださいぃ。さっきも言いましたがぁ、個人面談の際にぃ、諸君らから寄せられた質問にお答えしまぁぁす。――これが一番多かった質問ですぅ。家に帰ったりすることはできるのかぁ? 原則的にぃ、学校が始まる時間からぁ、学校が終わる時間までは拘束時間となりますがぁ、普通に家へと帰っていただいて結構ですぅ。また翌日ぅ、元気良く登校していただければいいだけですのでぇ」


 安藤が席に戻ると同時に喋り出した姫乙。安藤は牛乳パックにストローを刺しつつ考える。法案のモデルケースだか何だか分からないが、ずっと学校に缶詰めというわけではないらしく、家に帰れるようだ。なんにせよ、程よく冷えた牛乳は大層美味かった。これがお茶とかだったら、もっと美味かったであろうに。どれだけ喉が渇いていたのかを痛感した。


「それに伴い、アベンジャーの方に注意していただきたいのですがぁ、あくまでもぉ『正当復讐法』が認められるのはぁ、学校の敷地内のみになりますぅ。学校の敷地から一歩でも外に出ればぁ、残念ながら『正当復讐法』は適用されなくなりますぅ。逆を言ってしまえばぁ、学校の外は安全地帯。ただし、拘束時間の間は敷地内の外に出ることができない。これだけはおさえておいて下さいぃ」


 安藤は何度も姫乙の言葉を頭の中で繰り返し、それを噛み砕いて自分の中に取り込んだ。次から次へと情報が増えるから忙しい。とりあえず、基本的に学校の中でしか『正当復讐法』は適用されないということか。ようするに学校の中が独立した法治国家のようなもので、その中でのみ『正当復讐法』が通用する。すなわち、アベンジャーが誰かを殺害しても、罪に問われないのは学校内のみ。学校の外では罪になる。ゆえに、家に帰っている間は絶対的に安全ということか。


「デスゲームあるあるだとぉ、そりゃもう最初から最後まで気が抜けない――みたいな展開のほうがね、勢いがあって良いと思うんですぅ。出口なし、救いなし。そんな感じがテンプレートなわけですよぉ。だーかーらぁ、あえて諸君らには安息の時間を与えるのですぅ。休みの日の夕方くらいになると、次の日の学校が憂鬱になるように『あー、明日もデスゲームかぁ。だるいなぁ』みたいなノリになるでしょう? その鬱々とした感じは斬新だと思うんですよねぇ。で、嫌になって逃げ出した生徒が、管理委員会に見つかって、引きずられながら涙ながらにデスゲームに戻ってくるぅ――とか、色々と楽しいじゃないですかぁ」


 姫乙は冗談のつもりなのであろうが、しかし全く笑えない。その証拠に、教室の中に笑いは一切起きなかった。ただ、姫乙に対する明確な敵意は、いたるところから発せられているような気がしたが。


「さてぇ、原則的には帰宅することがデフォルトであると説明したばかりですが、実は例外がありまぁぁす。それは、アベンジャーが復讐を果たしてしまった時ですぅ。復讐が果たされてしまった以上、他の諸君らは【糾弾ホームルーム】を開き、アベンジャーの正体に迫らなければならない。つまり、ひとつの復讐が果たされた場合はぁ、それが収束するまでは学校内で生活していただくことになりますぅ」


 誰かが固唾を飲んだ音がした。いや、もしかして残っていた牛乳を飲み込んだ音だったのかもしれない。――例外として、復讐が果たされた時は、それが収束するまでは帰れない。なんだか色々と非現実的すぎて、妙に物分かりが良くなっている自分がいた。


「生活するための環境は、こちらで可能な限り揃えさせていただきますぅ。お昼だけではなく、朝食と夕食も用意しますし、布団や毛布も支給しますぅ。寝る時のスウェットや、はたまた下着からアメニティーグッズもろもろ、女の子の日対策まで、ご希望のものは全て揃えますのでぇ、どうかご心配なく」


 姫乙はそこで教室を見回すと、気味の悪い笑みを漏らす。


「男子諸君の考えていることが手に取るように分かってしまうねぇ。夜の学校に女子とお泊まり会――そりゃぁ、なにかあるんじゃないかって思いますよねぇ。しかしぃ、学校で生活するのは、あくまでも【糾弾ホームルーム】に備えてであってぇ、男子と女子がイチャイチャするためではないのですぅ。その辺りを履き違えないようにぃ。いいですかぁ? ハロウィンは収穫祭であってぇ、ろくになにも収穫もしてない都会の連中がぁ、イベントに便乗して出会いを求める場ではないのですぅ。クリスマスだってぇ、キリストの誕生だか命日だかを祝う日に過ぎないのですぅぅ」


 なんというか、色々な意味で姫乙の独壇場だった。話が脱線することも多いのだが、姫乙が一人でベラベラと喋る時間だけが延々と続いた。


「それはそうと、文化祭とか体育祭って、やっぱり準備のために夜遅くまで残って作業したりするせいか、大抵イベントが終わるとクラスで何組かカップルができてるよねぇ。しかしぃ、それは高校生活におけるイベントに酔っているだけでぇ、大抵はクリスマスが終わると別れてたりしますよねぇ。まぁ、やることはやってるんでしょうけどぉぉ」


 姫乙の蛇足満載のQ&Aは続き、気が付くと時計は午後6時半を回っていた。そして、事態が動いたのは、安藤が時間を確認したのとほぼ同時であった。


「ちょっと――いいですか?」


 手を挙げて、静かな口調で意見したのは、恐らくクラスでも立ち位置がいまいち良く分からない存在――大槻芽衣おおつきめいだった。肩まで伸びた黒髪は、前髪が綺麗に切り揃えられており、それに端正な顔立ちが相まって、まるで日本人形のようである。ごくごく普通に振舞っていれば、きっとクラスでも上位のカーストに入れていたことであろう。しかしながら彼女……自らクラスメイトをシャットダウンしている節がある。人と関わるのが面倒なのか、それとも孤独を好むのか。誰とも仲良くしようとせず、また群れようともせずに、教室の隅で本を読んでいる印象がある。安藤自身が本の虫であり、やはり教室の隅で本を読むことが多いから、彼女に対して妙な親近感は覚えていた。


「はいぃ、構いませんよぉ。なんでしょうかぁ?」


「もう、下校時刻――。部活動をやっている生徒でも午後6時半になるまでに帰らねばならない決まりがある。なら、私達を拘束できる時間も過ぎているはずよ。だったら、もう今日は帰らせて欲しい」

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