#002: 香りと記憶のこと

 昔付き合っていた男がコロンを愛用していた。

 付き合っていたのだから身体の密着距離もそれなりに近い。そして近づくたびに彼のコロンの香りを至近距離で浴びていた。彼の名誉のために言及するが嫌な香りではなかった。

 嗅覚において女性の方が男性よりも優れている(敏感)と学術的研究で証明されていて、彼が自分のコロンの香りを認識するよりも私のほうが敏感に嗅ぎ取っていたと思われる。

 ここからが本題だが、人は事象を記憶する際にその時の環境因子、例えば音とか匂いも一緒に脳に刻む。そして本能的な行動や喜怒哀楽などの感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているのは五感の中で嗅覚だけらしい。

 特定の匂いが、その匂いと結びついている記憶や感情を呼び起こす現象をプルースト効果という。私は前述の男と別れてから頻繁にプルースト効果を経験している。別れて悲しいとか寂しいとかの感情ではなく、危険を察知する野生の勘にも似たプルースト効果だ。コロンの匂いを察知→敵の位置を確認→逃げる方向を確保→逃げるという条件反射。誤解しないで欲しいのだが、身体的危害を加えられる危険を感じて逃げ回っていたのではない。面倒なことからは逃げるという解決方法を選んだ故の反応だ。当時は学生で同じ大学に通っていたのでキャンパス内で遭遇することも多々あり、この行動が身についてしまった。ただ、コロンの香りはそれほど遠くまでは届かないので、コロンの匂いを察知した時点でアウト。逃げるタイミングを失うこともよくあった。

 プルースト効果の面白いところは、長年一度も思い出すことのなかった記憶がその香りを一瞬嗅ぐだけで蘇ってくることだ。脳の最奥の自分でも存在を認知していない引き出しが勝手に開いて記憶が溢れ出てくる感じ。最初は「なんでこんなことを思い出すのだろう」と戸惑うのだが、香りが引き金になっていると気づけば芋づる式に当時のことを思い出す。あの頃はこうだったとか、あんなこともあったなとか、少し美化補正のかかった思い出に包まれる。

 今も街であのコロンに遭遇するとその香りの主を探してしまう。「お久しぶり」と微笑む準備をして。

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