第 8話 グラウコピス

 太陽が沈み、新しい日の始まる時、イリソスは当番をわり、外へ出た。篝火かがりびかれる広場を過ぎ、溶鉱炉ようこうろと小屋かられる明かりを頼って作業区を抜ける。そして、詰所つめしょと居住区へ道の分岐ぶんきする辺りが目に入り、彼は思わずふるえ上がった。

 闇に女の顔が浮いている。

 しかし、それが三叉路さんさろオイルランプ灯明皿を手にしたクロエとすぐに彼も気が付いた。


「何してるんだ。一人じゃ、危ないだろ」


 彼女は苦笑気味に、背負う弓矢を揺らし、小刀をちらつかせる。


「私、ダンジョン魔窟に潜ってるのよ?」

「でも! ……送るよ、家はどこ?」


 断られることを予期して申し出たイリソスの誘いに彼女は黙って居住区へ歩き出した。

 ラウレイオンは作業区から遠い程、条件に恵まれ、裕福な者はこのトリオドス三叉路から遠くに住む。彼女の住まいまでは少し歩くだろうと見当をつけ、彼は話しかけた。


「ねえ、デイアネイラ男を壊す女に復讐って、どういうこと?」


 小さなともしびは、クロエが見開くのを浮かび上がらせる。


「あなた、私を信じてるの? かわいい人ね」


 からかうような口調と表情は炎の影で妖艶ようえんさを増した。捉え難い笑みの儘、クロエは足を止めると、


「頼めるかしら? これ、預かって欲しいの」


 矢筒やづつから何かを外し、差し出す。寄る灯りに贅沢ぜいたくな木の女神像が照らされた。切傷のえない手がそれをいじると、不意に台座が開く。

 彼は恐る恐るそのものを受け取り、意外な重みに驚いた。見ずとも中身がイリソスには想像できる。彼の近くにありながら、手をすり抜けて行く銀の重さだ。

 咄嗟とっさにイリソスは彼女をとがめていた。


「あんなに惜しんで貯めてるのに! 持ち逃げされたらどうするんだよ」

「窓口さんらしい」


 おかしそうに笑った後、クロエは彼の視線をとらえる。


「銀は重くてダンジョンでは邪魔なの。でも、全部置いて竈番かまどばん任せにもできない。あなたが安全に保管してくれたら、お礼をするわ。それに、盗む危険を犯さなくても、私が帰って来なければ、よ」


 まなじりに酷薄なつやを浮かべた彼女自身にイリソスは先刻と異なる怖気おじけを覚えた。そこにいるのは復讐を宣言した女に違いなく、あのささやきが本心と彼は直感する。

 クロエは彼の手の中で台座を閉じ、容器を再び女神像へ変えた。


「……お互い、得でしょ」


 彼女は像の開け方を教えなかった。神像しんぞうを畏敬しても、高価な木像を惜しんでも銀は取り出せない。心からの信頼ではないことをイリソスは察した。


「次に下弦の月が昇る時、谷へ来て。闇夜の内に水浴びするから、月の出る前に来てはダメ、よ?」


 像を持つ彼の手の上からクロエは手を添える。


「ちょっと待ってて」


 反射的にイリソスは像を彼女の手に戻し、しゃがみ込んで足元を探った。クロエがやや呆気にとられて見るのを待たせると、


「これ」


 彼は乾き切らない日干し煉瓦レンガをクロエに突き出した。そこにあしで刻まれた文字を彼女はただ見つめる。その無表情にイリソスは言葉を継いだ。


「仮だけど、預かり証だよ。もしかして、この国の文字が読めない?」

「読めるわ。イリソス……川神ポタモスから名を頂いたのね」


 クロエはいつになく静かにめるように応えると、ランプをかかげながら彼の目を真っ直ぐに見据える。


「あなた、グラウコピス炯眼の女神の守護国の自由民なの」



――もし僕が女神の民でなかったら君は僕を選んだろうか。

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