24、名前の意味


離れゆくドゥランナーの姿を見て、一瞬、ルシフェルは思った、「彼女はもう帰らない」と。

ドゥランナーは扉を潜り、少し濡れた地面を踏んだ。外は冷たく、凍えそうに寒い小雨が降りしきる、石の地面は雨に濡らされ、気をつけないと滑りそうだった。

彼女は外套のフードを被り、衛士の視線を潜り抜けて、誰もいない街を過ぎる、周りが見えない階段を通り抜ける、これ以上見慣れたものもないくらい見た研究室にたどり着いた。

少し力を込めてノックすると、遠くから聴き慣れた低い声が聞こえた。1分もしないうちに、扉が開けられた。

「誰だ、こんな時に……ドゥランナー…きみか」

視線の高さに何もなかったから、下を向いた。それで見えたのは、ルシフェルのことがわかってから、再び会うことがなかった、愛弟子の顔だった。

「とにかく上がってこい」

彼は何も聞かずに、彼女を部屋の中に連れて行った。

ソファに置いてあった資料をどかせ、彼女を座らせた、そして、茶を用意する時間も惜しんで、水だけを一杯出してくれた。

なんせ、今の彼女は天界の重要観察対象の一人、こんな状況で自分のところに来たとなれば、よっぽどのことでもあっただろう。ならば、自分にできることといえば、それを聞いて解決策を模索するだけだ。

「それで、おれに何か用か」

「バアルさん…わたし…わたしに変化が必要だと思います」

「何のためだ」

「ルシフェル様を助けるために」

なるほど。

と言うよりは『やっぱり』と言うべきか?

この子がすることの大半はそのためだ、頑張りすぎなくらいに勉強することも、自分に把握できないことがあれば焦ることも。

「いろいろと、バアルさんに話してないこともありますが、それでも、ただ、過去と決別したいと思います」

バアルゼブルはそう言った内情を知っているわけではない、なぜなら、教師として、そのような詮索はいらないと思っているからだ。

ドゥランナー・リスライト。

この名前は母親から彼女に残した唯一の光でありながら、父親が彼女にもたらした、命の光を遮る永遠の雨雲、彼女はずっと母親の遺物を捨てられなかった、だが、密かにわかっていた、それを捨てないと、彼女に真の成長は永遠に訪れない。

「ですから!わたしは…名前を変えたいと思います」

背後の物語は知らないとはいえ、ドゥランナーはルシフェルが魔界から連れてきた孤児、すなわち、彼女が魔族であることは知っている。そしてルシフェルが知っているように、特に悪魔の名前はとてつもない意味を持つ、これは一定の知識があるものなら、誰でも知っていることだ。

「……きみは、本気なのか」

「はい、わたし、覚悟できてます」

一文字一文字に、ゆっくりと、彼女は決意を表した、これまでにない堅い言い方で。

彼女の決意がすでに硬いなら、教師としてできることは、彼女を送り出すだけだ。

バアルゼブルは目を閉じて、少し頷いた。そしてゆっくりと立ち上がり、本棚まで足を運んだ。

「自分との決別、か」

彼が今見ている本棚は、人間と、人界の資料に溢れていた。

天界の言葉は似合わないだろう。この世界には神の威圧、過多なまで光に溢れている。

魔界の言葉も似合わないだろう。混沌と不調和、階級の圧力と暴力、酷いほどの闇に満ちている。

ならば、自分たちから見ればまだ新生の人界はどうだ。バアルゼブルも人界を分かっていないわけではない、長年の研究で、人界に降りた経験で、人間に愛されることを知っている、そして、人間の性の、美しさと醜悪さをも、彼は分かっている。

人界は美しいものではない、完璧でもない、しかし彼の中では、片方に偏り過ぎた天界や魔界よりはいいと思っている。

彼は考えながら、手を上げて、百冊以上ある書籍の中から、一冊の手書きの本を取り出した。あれは数名の研究員とともに書き上げた、人類の言語を網羅したものの中の一冊、簡易的な辞書、解釈すればいいのだろう。

人間の言語は様々、天界のような文字もあれば、絵のような文字もあるし、記号のような文字もある。彼女に祝福をと心がけて、バアルゼブルはその本を開いた。

ドゥランナーは静かにソファに座っていた、彼が、自分に答えを示してくれるのを待った。

しかし、確かにバアルゼブルは天界の言語が彼女に適していないと思っているが、誰もわからないような言葉を選んだら、それこそ言葉の無駄遣いというもの。だから、最後、やはり天界の言語に近いものから選ぶことにした。

厚くて重い辞書を眺め、彼は全ての言葉に視線を落とす、一つ一つの美しい言葉に手を止めた。

ついに、20分後、彼はようやく、気に入った単語を見つけた。

彼は軽く笑うと、辞書と共にソファまで戻った。

ソファの前に置いた低いテーブルを避け、ドゥランナーの隣に座った。

「きみの新しい名前だが…サイル、と言うのはどうだろう」

手元の紙を適当に一枚取ると、魔力で作った羽ペンで、紙に書いて見せた。

ーーSaiel

「出航、航海の意味で、天界では船の帆を意味する言葉、セイルsailの変形。造語ではあるが、きみに似合うかと思う」

元々の意味も、天界での解釈も、バアルゼブルが込めようとした思いも、それと、この特別すぎるとも言えるような語尾の意味、すべてが完璧に見える、少なくとも彼はそう思う。

しかし、今必要なのは、そのような体裁がいいのもではない。

気に入ってくれるといい。

それだけだった。

天界の賢者は自分の気持ちよりも、唯一無二の生徒の心情が気になる。

しかしまるで彼が心配していることを知らないかのように、ドゥランナーは新しい名前を書いた紙を持ち上がり、ぼうっと見つめて5分。

バアルゼブルがその反応を見て、ダメかと思って、慌ててもう一度探そうとすると、隣からすすり泣きの声がした。彼はさらに慌てた様子で振り返ると、ちょうど涙が溢れるその瞬間を見た。

「ど、どうした、気に入らないならもう一度…」

「いいえ、違います…うん…ありがとうございます、バアルさん……」

ドゥランナーは首を振る。

手に持った紙がくしゃくしゃになっても、彼女は離そうとしなかった。

「…後ろに、何かつけてもいいのですか」

数分後、ようやく落ち着くと、彼女はそう言いながら、頭を上げてバアルゼブルを見た。

バアルゼブルは少し驚いたが、すぐに頷いた。

「好きのようにすればいい」

テーブルに置いたペンを拾って、皺だらけになった紙に、長々とした単語を綴った。

その単語の意味がわからなかったので、バアルゼブルは彼女を見たが、その真剣さと、何かを思い返すような表情で、彼も何かを理解したようだ。

きっと大事な名前だろう。

彼は静かに思った。

それで何も聞かなかった。

ただ立ち上がり、空になったカップに水をそそいた。

ドゥランナーは水入りのカップを持って、何も言わずに座っていた。

少しは冷静になったようだった。

バアルゼブルの心配そうな顔を見て、手に持った水を一気に飲みをした、カップをテーブルに戻すと、彼女は立ち上がり、バアルゼブルに、深々としたお辞儀をした。

バアルゼブルはそんな彼女を見つめた。

彼は目を閉じて少し考えると、行こうとしたドゥランナーを呼び止めた。

彼は奥の部屋に入っていき、数分後、一つの細長い箱を持ってきた。

「きみへのプレゼントだ、渡す機会を窺ってた」

「あ……」

「きみはずっと魔術をもっとよく使えるようになりたかったな。だからこの杖を作った…少なくとも、魔力の放出に役立つだろう」

ドゥランナーは箱を受け取って、中身を確認することすら忘れて、それをカバンに押し込んだ、長すぎる箱は全部入れなかったが、落ちそうにもなかったので、そのままにした。

彼女は再び礼をすると、バアルゼブルに向かって手を振り、扉を開けて去っていった。

この日より、この子供は新たな命をいただいた。

なによりも彼女がそう思ったから。

リスライト王族の身分を捨て、ドゥランナー母の遺物を捨て。

魔界より出でる、大天使と化した。

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